ベネディクトゥス(英語表記)Benedictus

翻訳|Benedictus

デジタル大辞泉 「ベネディクトゥス」の意味・読み・例文・類語

ベネディクトゥス(Benedictus)

[480ころ~547ころ]イタリア中部、ヌルシア生まれの修道者。529年ごろモンテカッシーノにベネディクト修道院を設け、西方教会における修道院制を創始した。ヌルシアの聖ベネディクトゥス。英語名、ベネディクト。

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精選版 日本国語大辞典 「ベネディクトゥス」の意味・読み・例文・類語

ベネディクトゥス

  1. ( [ラテン語] Benedictus ) 五世紀から六世紀のイタリアの修道者。西方教会修道院制度の設立者。ヌルシア生まれ。五二九年モンテカシノにベネディクト修道会を設け、修道会制度の基礎を固めた。カトリック教会の聖人とされ祝日は三月二一日、七月一一日。通称ヌルシアのベネディクトゥス。英語名ベネディクト。(四八〇‐五四七頃

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改訂新版 世界大百科事典 「ベネディクトゥス」の意味・わかりやすい解説

ベネディクトゥス(ヌルシアの)
Benedictus
生没年:480ころ-550ころ

西欧修道制の創設者,聖人。生涯についてはよく知られていない。イタリア中部,スポレトに近いヌルシアNursiaの名門の家に生まれ,500年ころ法律を学ぶためにローマに赴いたが,この古都の退廃に衝撃を受けて隠修士となり,最初はアフィレ,次いでスビアコの洞窟で修行した。また彼のもとに集まった修道士のために付近に12の修道院を建ててその指導に当たった。529年ころモンテ・カッシノモンテ・カッシノ修道院)に移り,以後ここを離れず,晩年の534年以後,彼の唯一の著作〈ベネディクトゥス会則〉を執筆した。

 この会則は東方で発生した修道生活の古い伝統を強く継承しながらも,西欧独自の性格を創造した注目すべき文書である。すなわちそれは東方修道制のいたずらに厳格な道を避けて中庸の精神を堅持し,修道士の労働や定住義務を重視し,修道院の運営を組織化し,その自律性を物心両面で確立しようとしたもので,以後全西欧の修道士の遵守すべき基本準則となった。もっとも最近はこの会則と〈レグラ・マギストリ〉の名で伝わる起草者不明の会則との系譜関係が問題となり,研究の大勢は後者を先行文書とするほうに傾きつつある。もしそうだとすると,それを大幅に引用している会則の独自性はそれだけ弱まることになるが,それでも,この会則の簡潔な卓抜さはそこなわれることはない。彼の生涯を知らせる唯一の史料はグレゴリウス1世の手になる《対話》第2編のみであるが,記述の多くは奇跡物語で彼の事跡を伝えるところは少ない。
執筆者:

美術作品では一般に,白か黒の修道士服を着た髪の長い老人として表される。持物は,杖,本(会則),彼が妹スコラスティカScholastica(聖女)の霊として見たと伝えられる鳩のほか,伝説に登場するツグミ,割れた器,蛇のついたコップ,輝くはしごなど。肉体の欲望を消すため茨の中を裸でころがったという伝説から,裸の青年としても描かれる。妹,修道士マウルスMaurus,プラキドゥスPlacidusとともに表されることもある。祝日は3月21日。スコラスティカの祝日は2月10日。
執筆者:

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「ベネディクトゥス」の意味・わかりやすい解説

ベネディクトゥス(6世紀の聖人)
べねでぃくとぅす
Benedictus Nursiensis
(480ころ―547ころ)

西方キリスト教会修道制度の創設者。中部イタリアのヌルシアに名門の子として生まれ、ローマで哲学法学を学んだが、中途で修道生活に入った。ローマ近郊のスビアコ付近の洞窟(どうくつ)に住み、古代東方に始まる苦行主義的傾向の強い禁欲生活を3年間続けたのち、その地の司祭のねたみを買い、529年少数の弟子とともにモンテ・カッシーノに移って修道院を設立、共住生活を根幹とする修道院制度の基礎を築いた。

 ベネディクトゥスは「西欧修道制の父」とよばれているが、その功績はかかって彼の起草した戒律にあるといってよい。自己の体験をも踏まえて独修者の自己満足的修行の誤りを批判し、共同の定住生活に基づき「祈りと労働」をモットーとする組織的修行形式を規定した修道戒律を制定した。この戒律がその後の西欧修道生活の規範となったのである。

 戒律の普及・発展に尽力した教皇グレゴリウス1世(在位590~604)は『対話』第二篇(へん)で自らベネディクトゥスの伝記を記録している。その内容は奇跡物語と教訓を主とするものではあるが、ベネディクトゥスに関するほとんど唯一の資料とされている。聖人。祝日は3月21日、7月11日。

[赤池憲昭 2017年12月12日]


ベネディクトゥス(8世紀の聖人)
べねでぃくとぅす
Benedictus
(750ころ―821)

ベネディクト会修道制の組織者、聖人。フランク国王ピピン3世の宮廷で養育され、773年ディジョン近くのサンセーヌで修道士となる。779年南フランスのアニャーヌAnianeに修道院を創立して院長となり、カール大帝ルートウィヒ1世の援助下にベネディクト会則に基づく修道院改革を推進。アーヘン教会会議(817)で修道規定を起草し、フランク帝国内の全修道院長の集会で司会した。古来の修道院規定に通じ、『会則』の普及と修道院の改革に努めた。

[朝倉文市]

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百科事典マイペディア 「ベネディクトゥス」の意味・わかりやすい解説

ベネディクトゥス(ヌルシアの)【ベネディクトゥス】

西方キリスト教世界における修道制の確立者,聖人。イタリア中部,ヌルシアNursiaの出身。529年ころモンテ・カッシノ修道院を建て,〈ベネディクトゥス会則〉を執筆して,西方修道制の範を示した。以後同会則を採用するベネディクト会系修道院は最盛期に全欧で2000余を数え,中世精神史上特筆される文化的達成をもたらした。妹のスコラスティカScholasticaも著名な聖女。
→関連項目シトー会モンテ・カッシノ[山]

ベネディクトゥス[16世]【ベネディクトゥス】

ローマ教皇(在位2005年−2013年)。ドイツのバイエルン地方出身で前名 J.ラツィンガー。ミュンヘン大学に学び,神学博士号を取得。ドイツ各地で大学教授を歴任。1951年司祭,1977年ミュンヘン・フライジング大司教,同年枢機卿。1981年教皇庁教理省長官,2002年首席枢機卿。ドイツ出身の教皇の選出は,ウィクトル2世(在位1055年−1057年)以来。
→関連項目教皇バチカンフランシスコ[1世]

ベネディクトゥス

ラテン語Benedictus(〈賛えられてあれ〉の意)で始まるキリスト教典礼文。(1)ミサの三聖唱のうち〈主のみ名によりてきたりたもう者は祝せられたまえ〉。(2)バプテスマのヨハネの命名の際のザカリアの頌歌(《ルカによる福音書》1:67以下)。

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山川 世界史小辞典 改訂新版 「ベネディクトゥス」の解説

ベネディクトゥス(ヌルシアの)
Benedictus of Nursia

480?~547

イタリアのヌルシア生まれの修道者。西ヨーロッパの修道会制度の確立者。ローマで哲学,法学を学んだが,堕落を恐れて500年頃スビアコの独住修士となった。付近の修道者を厳格に指導したため迫害を受け,529年モンテ・カッシーノにベネディクト修道会を創設した。彼が539年に起草した同会会則は修道制の模範とされ,西ヨーロッパ風の社会的・実践的修道会活動の指針となった。

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旺文社世界史事典 三訂版 「ベネディクトゥス」の解説

ベネディクトゥス
Benedictus

480ごろ〜543ごろ
イタリアの修道僧で,西ヨーロッパの修道院の創始者
529年,ローマの南のモンテ−カシノに西ヨーロッパ最初の修道院を設け,服従・清貧・貞潔の3原則にもとづくベネディクトゥス会則を定め,修道士に労働の義務を課して修道院の経済的自立を確立した。

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世界大百科事典(旧版)内のベネディクトゥスの言及

【コンスタンツ公会議】より

…1378年以後39年間カトリック教会はローマとアビニョンとに2人の教皇をもって分裂し,歴史上〈大離教(シスマ)〉と呼ばれる事態が続いた。それを終わらせようと1409年に招集されたピサ教会会議は,ローマのグレゴリウス12世とアビニョンのベネディクトゥス13世とをともに罷免し,新たにアレクサンデル5世を教皇に選んだが,2人の前教皇が罷免を承認しなかったので,かえって3人の教皇が鼎立する結果となった。この異常な事態を解決するために神聖ローマ皇帝ジギスムントの強い要請に基づき,アレクサンデル5世の後任教皇ヨハネス23世が14年11月5日に招集したのがコンスタンツ公会議で,18年4月22日まで続いた。…

【フェレール】より

…スペイン東部バレンシア出身のドミニコ会士で,カトリック教会の聖人。アビニョンの教皇クレメンス7世を支持し,ベネディクトゥス13世の聴罪司祭となる。フランス,イタリアなどで異端に対して伝道し,当時しだいに激しくなりつつあったイベリア諸国の反ユダヤ主義思潮の中でも雄弁な説教家として活躍した。…

【吸血鬼】より

…18世紀には,吸血鬼をめぐる哲学的論争がしきりに戦わされた。ボルテール,ドン・カルメDom Augustin Calmet(1672‐1757),教皇ベネディクトゥス14世などが啓蒙主義的理性の立場から,吸血鬼現象を社会学的・病理学的・心理学的不安もしくは疾病として解明しながら,土俗的後進地に蟠踞(ばんきよ)する吸血鬼信仰をあばき,追いつめ,退治する。一方,19世紀初頭のロマン主義者はふたたび吸血鬼を擁護し,ノディエやゲレスが,吸血鬼の心的実在性をめぐる論陣を張ったが,産業社会の趨勢はすみやかに人々の意識から吸血鬼を消し去った。…

【教皇】より

…1864年のピウス9世(1846‐78)の《謬説表(シラブスSyllabus)》は近代文化に対する世界観的挑戦であった。レオ13世(1878‐1903)はカトリック教会と近代世界との親しい関係を開き,ピウス10世(1903‐14)は教会内の信仰再生に努めたが,ベネディクトゥス15世BenedictusXV(1914‐22)とピウス11世(1922‐39)は戦争と革命による世界不安に直面し,ピウス12世(1939‐58)は第2次世界大戦の全人類的受難を背負わなければならなかった。〈教会は諸民族に出会わなければならない〉と述べたヨハネス23世JohannesXXIII(1958‐63)の牧者的精神はパウルス6世(1963‐78),ヨハネス・パウルス1世Johannes PaulusI(1978),さらにヨハネス・パウルス2世(1978‐ )に受け継がれている。…

【キリスト教】より

…〈叙任権闘争〉と呼ばれるこの運動は,910年に建てられたクリュニー修道院に端を発する改革運動を前提とする。これは,教会と同じく社会的地位の向上した修道院内部の腐敗を〈ベネディクトゥスの会則〉の厳格な順守によって清め,かつ教会に対しては司祭の結婚と聖職売買(シモニア),およびドイツ王による司教と大修道院長の叙任の禁止を要求するものであった。ニコラウス2世(在位1058‐61)は1059年のローマ会議で教皇選挙に世俗人の参加を禁止する法を立て,政治的権力から離れた〈教会の自由〉を主張した。…

【キリスト教文学】より

…フランスのボルドーに生まれた,ノラのパウリヌスも彼につづくすぐれたキリスト教詩人であるが,さらに優しい心情で聖フェリクス誕生の祝歌や,キリスト者の婚礼歌などをつくっている。 これにつづく5~6世紀は,帝国西部がゲルマン民族に攻略され,不安と騒乱に陥った時代で文学もまったく衰えたが,信仰の情熱は対比的にはげしくなり,アウグスティヌスの弟子である護教家オロシウスや,《神の統治について》などの著者サルウィアヌス,最もキリスト的な詩人といわれるセドゥリウスSedulius(470年ころ活動),散文では《哲学の慰め》で知られるボエティウスや,《教会史》を著作目録に含むカッシオドルスがあり,布教活動の面では,5世紀の教皇レオ1世ののち,ベネディクト会をはじめたベネディクトゥスと教皇グレゴリウス1世が特筆に値する。この3人はいずれも教義の確立や修道会の規制のため,説教,論説,書簡など多量の著述をもったが,ことにベネディクトゥスの〈修道会会則(ベネディクトゥス会則)〉は後世に大きな影響を与えた。…

【時課】より

…特に旧約時代末期,エルサレムの神殿内にできた会堂で行われた朝晩の《詩篇》による賛美と感謝の祈りは,司教座教会などで毎日行われるようになったキリスト教の朝晩の祈りに受け継がれ,さらに修道生活の日課の中で発展した。その構造は,ヌルシアのベネディクトゥスの会則の理想を具体化し,祈りと労働を交互に組み合わせ,中世修道院の生活様式と密接に結ばれたものであったが,キリスト者の絶え間ない祈りの理想として全教会に勧められるようになった。トリエント公会議後1558年に改訂された《ローマ聖務日課》は,中世修道院の原型をとどめ,これがすべての教役者に義務づけられることになった。…

【図書館】より

…そこには写字室(スクリプトリウムscriptorium)が設けられ,ギリシア語の文献がラテン語に翻訳され,彼のおかげで古典的な学問が伝えられることになる。また529年ころベネディクトゥスはモンテ・カッシノに修道院をつくるとともに,いわゆる〈ベネディクトゥスの会則〉を定めたが,その中に読書や写本が日課として定められていた。このような修道院文化は,大陸から離れたイングランドやスコットランドでも営まれた。…

【ベネディクト会】より

…ヌルシアのベネディクトゥスがモンテ・カッシノで創始した共住制修道会,および彼の妹スコラスティカScholasticaを中心として結成された女子修道会。広義には540年ころからベネディクトゥスが執筆した〈会則〉を採用するすべての修道会の総称。…

【本】より

…パピルスに代わって羊皮紙が書物の主要な材料となり,書物の形も巻物から現在のようなとじ本に移った。中世における出版の歴史に忘れることのできない名は,ヌルシアの聖ベネディクトゥスである。彼はそれまでの観想的な修道生活を西欧的な対社会的・活動的生活に変えた人として記憶されるが,労働の一つとしての書物の出版が修道士のおもな仕事となり,修道院における写字彩飾室は,実質的にみて当時の出版所にほかならず,出版とは,書写彩飾された1冊の書物を長上の恩顧者に献納する宗教的な行為を意味した。…

※「ベネディクトゥス」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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