日本大百科全書(ニッポニカ) 「ドイツ」の意味・わかりやすい解説
ドイツ
どいつ
Federal Republic of Germany 英語
Bundesrepublik Deutschland ドイツ語
ヨーロッパ中央部にあり主としてゲルマン民族が住む国。「ドイツ」はドイッチュdeutsch(形容詞)の転訛(てんか)で、ドイツ語の国名ドイッチュラントは「ドイッチュの住む国」の意である。ドイッチュは「ローマ的でない人」の意のローマの古語ティウティッシュTiutishからきており、古高ドイツ語のディウティスクdiutiskや中高ドイツ語のディウッチュdiutschに原形がみられる。英語名はジャーマニーGermany。
近代国家としてのドイツの政治的統一は1871年であって、イギリスやフランスなどよりもはるかに遅かったが、文化の面では、哲学をはじめとするさまざまの学問分野で優れた業績を生み、音楽・文学などの芸術分野でも多くの巨匠・天才が出て、世界の文化史のうえで大きな役割を果たした。
20世紀に入ってからのドイツは、1914年からの第一次世界大戦に敗れて共和国となり、巨額の賠償と世界恐慌によって大きな打撃を受けたが、ヒトラーの率いるナチスが勢力を得て、1939年第二次世界大戦を引き起こした。当初は有利に戦闘を進めたものの、やがて連合軍に押されて敗退を重ね、1945年5月に無条件降伏した。戦後、オーデル川とその支流ナイセ川以東はポーランドの管理下に置かれ、残る地域はアメリカ合衆国、イギリス、フランス、ソ連の4か国によって分割管理され、ベルリンも4か国で分割管理されることになった。その後いわゆる東西冷戦の激化に伴い、米・英・仏とソ連の対立が激しくなり、1949年9月、米・英・仏の3国が管理する地域が一体となってドイツ連邦共和国(西ドイツ)が誕生した。翌10月には、ソ連地域にドイツ民主共和国(東ドイツ)が生まれて、旧来のドイツは体制の異なる二つの国家に分割されるという悲運にみまわれた。
その後西ドイツは、マーシャル・プラン(ヨーロッパ復興計画)の経済援助によって、「奇跡の復興」を成し遂げ、EC(ヨーロッパ共同体)およびNATO(北大西洋条約機構)の一員として発展を続け、一方、東ドイツは、積極的な工業化政策を進め、ワルシャワ条約機構およびCOMECON(経済相互援助会議)加盟国のなかでは、もっとも著しい経済成長を遂げた。
両ドイツは当初激しい対立・緊張関係にあり、ことに1961年8月の「ベルリンの壁」構築によって、それはいっそう激化したが、1969年9月、西ドイツに社会民主党のブラントを首相とする政権が生まれてから、両ドイツの間の対話が進み、東西両ドイツ基本条約が調印・批准され、1973年9月には両ドイツの同時国連加盟が実現した。さらに1980年代後半に入ってから、東西両陣営の間の緊張緩和が進み、1989年11月9日、「ベルリンの壁」が開放され、翌1990年10月3日には、ついにドイツ統一が達成されたのである。
なお、かつての西ドイツの正式名称は、ドイツ連邦共和国Bundesrepublik Deutschland、略称BRD、英語名はFederal Republic of Germany、略称FRGであったが、両ドイツの統一は旧東ドイツの各州が連邦に加入するという形をとったので、統一ドイツの正式名称も略称も、旧西ドイツと同じである。
面積は35万7022平方キロメートル、人口8225万9540(2000年、2005年の国連年央推計8268万9000)。首都ベルリン。
[浮田典良]
自然
地形
北は北海、バルト海の海岸地帯から、南はアルプスまで、南北約800キロメートル、一方、東はオーデル川、ナイセ川から、西はライン板岩山地まで、東西約600キロメートルに及ぶ。このドイツを南から北へ向かって、(1)アルプスおよびアルプス前地、(2)中位山地、(3)北ドイツ低地の3地域に大きく分けることができる。
[浮田典良]
アルプスおよびアルプス前地
ドイツの南端、オーストリアとの国境には、高くて険しいアルプスがそびえる。アルプスは第三紀の造山運動によって形成された山脈で、全体としてみると、花崗(かこう)岩や片麻(へんま)岩、結晶片岩などでできたアルプス胴体部と、中生代の石灰岩でできた北部石灰岩アルプス、南部石灰岩アルプスの三つに区分される。ドイツ南縁部のアルプスは北部石灰岩アルプスの一部で、最高峰は2963メートルのツークシュピッツェ山である。更新世(洪積世)には氷河によって削られて、多くのU字谷ができ、山地の斜面は絶壁をなして深い谷に落ち込んでいる。ロープウェーやリフトなどの施設もよく整い、夏には観光・保養客や登山・ハイキング客、冬にはスキー客でにぎわう。
アルプスの北側、ドナウ川までの間は「アルプス前地」とよばれ、緩やかな丘陵や平地が続いている。ここは更新世にアルプスからきた氷河で一面に覆われた所で、それによる堆積(たいせき)物であるモレーンが低い丘をなし、それによってせき止められて多くの湖ができている。最大の湖はスイスとの国境にあるボーデン湖(面積538平方キロメートル)であり、ついでミュンヘン南東のキーム湖(80平方キロメートル)、ミュンヘンのすぐ南のシュタルンベルク湖(57平方キロメートル)である。湖畔には多くの観光・保養地が開けている。アルプス前地の緩やかな丘陵や平地は、主として牧草地として利用され、農業は酪農が中心をなす。
シュワルツワルト山地の南東部に源を発するドナウ川は、アルプス前地の北縁部を東に流れて、レヒ川、イーザル川、イン川、ナープ川などの支流をあわせ、パッサウでオーストリアへ流下し、最後は黒海へ流れ込む。古くから水運に利用され、レーゲンスブルクの少し上流のケールハイムと、ライン川の支流マイン川との間に運河が通じ、ライン川水運とも結ばれている(ライン・マイン・ドナウ運河)。
[浮田典良]
中位山地
ドナウ川と北ドイツ低地との間を、全体として中位山地という。標高1500メートル以下(大部分は1000メートル以下)の緩やかな山地・丘陵や、その間に横たわる多くの高原、盆地、谷などからなる。比較的高い山地としては、シュワルツワルト山地、オーデンワルト山地、フレンキッシェ・アルプ山地、シュウェービッシェ・アルプ山地、ベーマーワルト山地(ボヘミアの森)、チューリンガー・ワルト山地、エルツ山脈、ハルツ山地、ライン板岩山地などがある。これらはいずれも古い地質時代の岩石からなり、古生代末に褶曲(しゅうきょく)(バリスカン褶曲という)を受けて山地となったものである。中生代には隆起と沈降が繰り返され、古生層の上に堆積が行われて、三畳紀、ジュラ紀、白亜紀の地層が形成された。さらに第三紀にはアルプス造山運動の余波を受けて分断され、断層運動を生じ、多数の高原状の地塁山地や盆地・地溝帯が生まれた。また多くの地域で火山活動も生じ、アイフェル山地、ウェスターワルト山地、ヘッセン山地などでは、火山地形や温泉もみられる。更新世には、中位山地の大部分は氷河に覆われず、ただシュワルツワルト山地の高い部分のみが小さな氷河で覆われたにすぎなかった。山地は全体としてきわめてなだらかで、比較的急な斜面は森林をなすが、そのほかの大部分や山地の間に横たわる高原や盆地は、農地として利用されている。土壌も比較的肥沃(ひよく)な所が多い。
ドイツ最大の川ライン川は、ボーデン湖から流れ出てほぼスイスとの国境をなしつつ西流したのち、バーゼルで北へ転じ、幅の広いライン地溝帯を北流する。地溝帯の南半部では、ライン川がドイツとフランスの国境をなす。東からネッカー川やマイン川などの支流をあわせたのち、高原状のライン板岩山地に峡谷をうがって北西に流れ、途中で南西から支流モーゼル川をあわせる。ライン地溝帯やマイン川、モーゼル川沿岸の日当りのよい緩やかな斜面にはブドウ畑が開かれ、ワインの名産地ができている。
エルツ山脈やハルツ山地のように、古くから銀、鉛、亜鉛などの鉱石採掘で知られた所があり、また中位山地北縁部のルール地方、アーヘン付近やザールラントには炭田がある。またカリ塩や岩塩の埋蔵されている所もある。
[浮田典良]
北ドイツ低地
中位山地の北側、北海・バルト海に至る間には、広い北ドイツ低地が広がっている。これは西はオランダから東はポーランド、ロシア西部に至る広大な低地の一部である。オランダとの国境付近のエムス川沿岸地帯や、ウェーザー川下流地帯には低湿地がみられ、泥炭地が形成されているが、大部分は更新世に北東のスカンジナビアから押し出されてきた氷河の堆積物で覆われ、低い台地をなしている。
この台地のうち、バルト海の海岸に近いメクレンブルク・フォアポンメルン州やシュレスウィヒ・ホルシュタイン州東部は、更新世の最終氷期にも氷河に覆われた所で、氷河の下に堆積したモレーンが緩やかに起伏し、低い所には多くの湖もできている。土壌もそれほどやせてはいない。しかし、それ以外の部分は、最終氷期には氷河に覆われず、ツンドラ(永久凍土帯)をなしていたため、夏には表面だけが融(と)けて、粒子の細かい土壌が流失し、粗い砂だけが残った。そのため、やせた砂質土壌の平坦(へいたん)な台地をなし、かつてはハイデHeideとよばれる荒れ野をなしていた所が多かった。ハノーバーとハンブルクの間のリューネブルガー・ハイデはとくに有名であった。ハイデはいまでは大部分が農地となり、ライ麦やジャガイモを中心とする輪作が行われている。ライ麦はやせた砂地の畑でもよく育ち、ジャガイモは砂地のほうがかえって適している作物である。所によっては植林され、広い平地林をなしている部分もある。
北ドイツ低地には、スカンジナビア氷河の末端部にできた末端モレーンの列が幾列か認められるが、その南西側には、かつて大量の融氷水が広い川をなして流れたときにつくられた広い谷がみられ、これを原流谷という。現在のエルベ川やウェーザー川の下流部はその中を流れており、ベルリンも原流谷の中に発達した町である。エルベ川とウェーザー川の下流部には、それぞれ港湾都市ハンブルクとブレーメンがある。ハンブルクは河口から約100キロメートル、ブレーメンは約65キロメートルさかのぼった地点にあり、巨大な船舶は遡航(そこう)が困難なので、前者にはクックスハーフェン、後者にはブレマーハーフェンという外港が河口部にできている。
シュレスウィヒ・ホルシュタイン州西部の北海沿岸地帯は低湿地をなし、コークKoogとよばれる干拓地が開かれている。
北ドイツ低地の南端部、つまり中位山地のすぐ北側には、かつて氷期に北からの強い風で運ばれてきた細かい土壌が堆積し、肥沃なレス(黄土)土壌地帯が形成されている。ここはドイツでもっとも古くから開拓が進んだ所で、いまでも森林や牧草地は少なく、耕地の占める比率が高い。肥沃な土壌の地帯に適した小麦やテンサイを中心とする輪作が行われている。ケルン、ハノーバー、マクデブルク、ライプツィヒなどは、この肥沃なレス土壌地帯に発達した都市である。
[浮田典良]
気候
ドイツは北緯47~55度という高緯度にあり、東アジアならば樺太(からふと)(サハリン)の緯度にほぼ等しい。ドイツの南端のほうが北海道の北端よりも北方にある。しかし大西洋を流れる暖流、北大西洋海流(メキシコ湾流)や、その大西洋から年中吹いてくる偏西風のため、気候は比較的温和である。北ドイツ低地西部のケルン、デュッセルドルフやブレーメンなどでは、もっとも寒い1月でも平均気温が1~2℃で、日本でいえば仙台、新潟、富山なみである。一方、夏には高緯度のためあまり暑くならず、7月でも平均17~18℃で、東京の5月か10月なみである。年降水量は600~800ミリメートルで、東京や大阪のほぼ半分にすぎず、年中平均して少しずつ雨がある。台風による暴風雨や温帯低気圧による集中豪雨のような、いわゆるどしゃ降りはなく、一日中降り続くようなこともあまりない。
東および南に向かうにつれ、気候は少しずつ海洋性から大陸性に移行し、冬はやや寒くなる。たとえば東部のベルリンでは1月の平均気温零下0.2℃、南部のミュンヘンでは標高500メートル余りの高原に位置するためもあって零下1.7℃となる(それでも北海道の札幌よりは暖かい)。また降水量は少なくなり、北東ドイツの平野部では年600ミリメートル以下となるが、中位山地の高い部分やアルプスでは地形性降雨のために降水量が多く、年2000ミリメートルを超える所もある。冬には根雪に覆われ、ことにアルプスでは積雪量が多い。
南西ドイツのライン地溝帯は、ドイツでもっとも温暖な所で、「ドイツの温室」とよばれ、ブドウや果樹の栽培が盛んである。ドイツではリンゴの開花日が春の到来の象徴となるが、ライン地溝帯では通常4月28日までに花が開く。ここから北および東へ向かってリンゴ開花前線が進み、デュッセルドルフでは4月29日~5月5日、ベルリン、ミュンヘンでは5月6~12日が開花日となる。
アルプスの北麓(ほくろく)部では、春先にしばしばフェーンという暖かい乾燥した南風が吹き下ろすことがある。
[浮田典良]
歴史
古代ローマの時代、ライン川とドナウ川のかなたのドイツの地には、ゲルマン人諸部族がローマ帝国の勢力圏外に独自な社会を営んでいた。4世紀末から始まるゲルマン人の民族大移動を経て、ベルダン条約(843)、メルセン条約(870)による東フランク王国の生誕とともに、今日のドイツにつながる歴史が始まる。この後の神聖ローマ帝国時代の850年間(962~1806)は、宗教改革や三十年戦争などを経るなかで、国家的分裂の状態を深め、18世紀には約300の独立主権国家群が分立した。19世紀に入り、ドイツ統一の事業は北辺の雄邦プロイセン国家を中心に進められた。プロイセン・オーストリア戦争、プロイセン・フランス戦争を通じて、プロイセン中心の統一が実現され、1871年ドイツ帝国が発足した。この過程でオーストリアは統一国家から排除され、ドイツとは外国どうしの関係に置かれることになった。
ドイツ帝国は宰相ビスマルクのもとでヨーロッパの強国としての地位を固めたが、ビスマルク退陣後、世界の強国を希求し、やがてフランス、ロシア、イギリスとの対立を深め、第一次世界大戦に突入し、敗戦とともに帝国は崩壊した。戦後のワイマール共和国は安定をみることなく、わずか14年でナチスの政権獲得を許した。ナチス支配下のドイツは、国内では一党独裁体制に置かれ、国際的にはヨーロッパ制覇の野望のもとに第二次世界大戦を引き起こした。敗戦後、国際的冷戦のもと、ドイツ連邦共和国とドイツ民主共和国の二つの国家が分立したが、1990年10月二つの国家はふたたび統合された。
[望田幸男]
地誌
ドイツの地域区分には、現在の州(ラント)の区分のほか、自然地域、経済地域、あるいは古い歴史的領邦に基づく地域など、さまざまな分け方があるが、ここでは主として州の区分に従い、若干の自然的・経済的状況を加味して、まず旧西ドイツを八つの地域に分け、ついで旧東ドイツ(ベルリンを含む)を五つの地域に分けて解説する。
[浮田典良]
バイエルン
ドイツの南端、オーストリアとの国境には、険しいバイエルン・アルプスの山々がそびえ、美しい風光に恵まれて、夏には観光・保養客や登山客、冬にはスキー客でにぎわう。アルプスの北側、ドナウ川までは「アルプス前地」とよばれ、緩やかな丘陵や平地が続いている。更新世(洪積世)にアルプスから延びてきた氷河の堆積(たいせき)物が低い丘をなし、それによってせき止められて多くの湖ができている。ミュンヘンは、バイエルン州の行政、経済、交通、文化の中心都市であり、さまざまの工業も盛んで、とくにビール醸造業の町としてわが国では知られる。その北西60キロメートルのアウクスブルクは、ローマ時代に建設された古い町で、中世には商工業都市として栄え、フッガー家などの富豪がここを拠点として活躍した。
アルプス前地の北縁には、ドナウ川が西から東に流れ、それに沿ってウルム、レーゲンスブルク、パッサウなどの町がある。
バイエルン州北部は、古くからフランケン地方とよばれ、その中心都市ニュルンベルクは、1835年に郊外のフュルトとの間にドイツ最初の鉄道が通じた町、また第二次世界大戦後にナチスの戦争裁判が行われた町として知られる。その北東80キロメートルのバイロイトは、音楽家ワーグナーの町として有名で、街はずれの丘の上にワーグナーが建てた歌劇場では、いまでも毎年の夏、ワーグナーの歌劇が上演される。フランケン地方の西部、マイン川に沿うウュルツブルクは、古くから司教区が置かれた町で、バロック様式の美しい司教の館(やかた)があり、付近ではブドウ栽培、ワイン醸造が盛んである。
[浮田典良]
バーデン・ウュルテンベルク
ライン川支流ネッカー川の中・上流地方は、古来シュワーベン地方とよばれる。その中心都市シュトゥットガルトは、いまではバーデン・ウュルテンベルク州の州都で、活気のある商工業都市であり、自動車、電気機器、精密機器などの工業が盛んである。ネッカー川は、いまでは運河化され、ライン川の川船がシュトゥットガルトのすこし上流までさかのぼることができる。
ドイツ南西端部にはライン地溝帯がある。スイスとの国境にあるボーデン湖から西へ流れ出たライン川は、やがて北へ転じ、ライン地溝帯を北流する。地溝帯の東側にはシュワルツワルト山地があり、その麓(ふもと)のフライブルクは、ゴシック様式の壮麗な教会と古い大学で知られる。地溝帯中部のカールスルーエは、1715年にバーデン辺境伯カールが計画的に建設した町で、宮殿を中心として扇形に街路が延びている。ネッカー川が地溝帯に流れ出る谷口のハイデルベルクは、古城と大学で知られ、外人観光客も多い。
[浮田典良]
ライン・マイン地方
ライン地溝帯の北端でライン川最大の支流マイン川が東から合流するが、このあたりをライン・マイン地方という。その中心都市フランクフルト・アム・マインは、経済・金融の中心地、交通の要衝であり、また国際見本市の町、ゲーテ生誕の地としても知られる。その西方、ライン川左岸のマインツは、ローマ時代に建設された古い町で、いまではラインラント・プファルツ州の州都であり、付近のワインの集散地でもある。その北方、タウヌス山地の麓にあるウィースバーデンは、温泉の湧(わ)く静かな保養地であったが、いまではヘッセン州の州都であり、ライン川沿岸部には工場地区もできている。
[浮田典良]
ライン峡谷とモーゼル川流域
ライン地溝帯を流れ下ったライン川は、ライン板岩山地を刻む峡谷に入る。両岸は急傾斜をなすが、上はなだらかな台地状をなす。両岸の斜面には古城が見え隠れし、ブドウ畑もみられる。峡谷のほぼ中央部に古い町コブレンツがあり、ここで南西からモーゼル川が合流する。モーゼル川の谷の斜面にもブドウ畑が多い。モーゼル川をさかのぼると、古代ローマ時代に建設された古い町トリアー(トリール)がある。モーゼル川の支流ザール川に沿うザールラントは、古くからドイツとフランスの間で帰属が争われた地方である。第一次世界大戦後フランスによる国際連盟委任統治ののち、1935年住民投票によりドイツ領となり、第二次世界大戦後ふたたびフランス管理による自治制が敷かれたが、1957年ドイツに復帰して、その一州となった。石炭資源に恵まれ、州都ザールブリュッケンを中心に重工業が盛んである。
[浮田典良]
ノルトライン・ウェストファーレン
旧来のラインラント北部とウェストファーレンからなるノルトライン・ウェストファーレン州は、ドイツの州のうち、人口第1位で、多くの都市がある。ライン川が峡谷から出外れた地点にあるボンは、元来静かな大学町であったが、1949年旧西ドイツの首都となって発展した。ボンの北方約20キロメートル、ライン川左岸にあるケルンは、ローマの植民都市として築かれた町で、ドイツ西部の商業・交通の要衝をなす。その北方約35キロメートル、ライン川右岸のデュッセルドルフは、ノルトライン・ウェストファーレン州の州都で、商工業の中心地でもあり、日本企業の支店・出張所が多い。ケルンの西約60キロメートル、オランダとの国境に近いアーヘンは、8世紀にカール大帝によりフランク王国の首都に定められた古い町で、付近では石炭を基礎に重工業が盛んである。デュッセルドルフの北約20キロメートル、ライン川右岸にライン川最大の河港デュースブルクがあり、ここから東へエッセン、ゲルゼンキルヘン、ボーフム、ドルトムントなどの諸都市が並んでいる。ここがヨーロッパ最大の鉱工業地帯ルール地方であり、産業革命以後、豊かな石炭を基礎に鉄鋼業や化学工業が発展している。
[浮田典良]
ニーダーザクセン
ルール地方から東へ向かうと、ウェーザー山地を越えて、ニーダーザクセン州の州都ハノーバーに至る。肥沃(ひよく)なレスの平野の中心にある商工業都市で、工業見本市でも知られる。その南のゲッティンゲンは大学町として名高い。北東のウォルフスブルクは、大衆車フォルクスワーゲンの工場の町として知られる。
[浮田典良]
ハンブルクとブレーメン
北海に注ぐエルベ川とウェーザー川の下流部には、それぞれ港湾都市ハンブルクとブレーメンがある。中世にはハンザ同盟の有力なメンバーで、都市として強い自治権をもっていた。いまでもこの両都市はそれぞれ独立した州をなしている。両都市は工業都市としても重要で、造船業のほか、輸入原料に依存する各種の工業が行われている。
[浮田典良]
シュレスウィヒ・ホルシュタイン
ハンブルクの北方、デンマークのユトランド半島に続く地方は、シュレスウィヒ・ホルシュタイン州である。西の北海側は低湿地が多く、干拓地もみられる。東のバルト海側は更新世の最終氷期の氷河堆積物で覆われた台地をなし、海岸部には州都キールや、かつてのハンザ同盟の重要都市リューベックがある。キールには大きな造船所があり、また北海とバルト海を結ぶ運河(ノルト・オストゼー運河)の東の出入口にあたっている。
[浮田典良]
ザクセン
旧東ドイツ南東部は、大部分が古来ザクセンとよばれた地方で、1990年のドイツ統一以降、ザクセン州となっている。エルベ川沿いの州都ドレスデンは、古くから「芸術の都」として知られる。第二次世界大戦末期に連合軍の爆撃により徹底的に破壊されたが、戦後復興され、有名なツビンガー宮殿なども旧に復した。その西のケムニッツ(東ドイツ時代にはカール・マルクス・シュタットとよばれていた)は、繊維・機械工業を中心とする工業都市で、工科大学もある。ライプツィヒは古くから商業都市として栄え、伝統ある国際見本市は、旧東ドイツ時代にも毎年開催されていた。
[浮田典良]
チューリンゲン
チューリンガー・ワルト山地と、その北のチューリンゲン盆地を中心とするチューリンゲン州は、中世以来19世紀まで多くの小さな領邦に分かれ、多数の領邦都市や中小商業都市が成立していた。州都エルフルトは美しい旧市街で知られ、そのほか文豪ゲーテやシラーとゆかりの深かったワイマールや、大学都市イエナ、地図製作で名高いゴータなどがある。アイゼナハに近いワルトブルク城は、マルティン・ルターが1521年から翌年にかけて身をひそめ、『新約聖書』をギリシア語からドイツ語に翻訳した所として知られる。
[浮田典良]
ザクセン・アンハルトとブランデンブルク
旧東ドイツの中部は、現在ザクセン・アンハルト州とブランデンブルク州になっている。ザクセン・アンハルト州のハレは、ライプツィヒの北西約30キロメートルにあり、第二次世界大戦で戦災を受けなかったドイツ最大の都市である。ハレ、ライプツィヒ付近や東のブランデンブルク州南部ニーダーラウジッツ地方には、褐炭の炭田があり、褐炭により発電、コークス製造、化学工業などを行う褐炭コンビナートがいくつか成立していたが、現在ではそれによる環境破壊が問題となっている。エルベ川に沿うマクデブルクは、ザクセン・アンハルト州の州都で、マクデブルク沃野(よくや)とよばれる肥沃(ひよく)なレス(黄土)地帯の中心都市であり、そこで栽培されるテンサイの製糖業や小麦の製粉業などの農産加工業、その他さまざまの工業が盛んである。ブランデンブルク州の州都ポツダムは、ベルリンのすぐ西に接する町で、元来プロイセンの宮殿所在地であり、1945年7月から8月にかけてのポツダム会談開催地として知られる。
[浮田典良]
ベルリン
ブランデンブルク州に囲まれたベルリンは、第二次世界大戦まで全ドイツの首都であったばかりでなく、ヨーロッパの政治、経済、文化の中心地の一つとして大きな役割を果たしていたが、戦後、東ベルリンと西ベルリンとに分割された。東ベルリンは旧東ドイツの首都であったが、西ベルリンは実質的には旧西ドイツの一部をなし、周囲を東ドイツに囲まれて、いわゆる「陸の孤島」をなしていた。1990年の両ドイツ統一後、ベルリンは一つの都市として融合され、1991年の連邦議会でふたたび全ドイツの首都と決定された。
[浮田典良]
メクレンブルク・フォアポンメルン
旧東ドイツの北部を占めるメクレンブルク・フォアポンメルン州は、更新世最終氷期には北欧から伸びてきた氷河に一面に覆われた所で、多くの美しい湖がみられる。それらの湖岸やバルト海の海岸には保養地が多く、夏には保養客でにぎわう。港湾都市ロストックは、東ドイツ時代に、その海への門戸として、港湾の大改修工事が行われた。グライフスワルトは大学町として、またドイツ最大の島、リューゲン島(926平方キロメートル)は美しい白亜の海岸で知られる。
[浮田典良]
政治・外交・軍事
憲法体制
統一後のドイツ連邦共和国憲法の出発点は、1949年5月23日発効(成立は5月8日)の西ドイツ(ドイツ連邦共和国)の「基本法」(ドイツ連邦共和国基本法)である。この基本法の草案は、当時イギリス占領地区のキリスト教民主同盟(CDU)の党首であったK・アデナウアーを議長とする「議会評議会」によって作成され、米英仏3国占領軍政府の承認と各州の議会の批准を得て発効した。同法末尾の第146条には、この基本法は、将来の東西ドイツの統一までの「暫定憲法」であるとの趣旨が明記されていたが、1990年10月3日の東・西両ドイツ(ドイツ民主共和国とドイツ連邦共和国)の統一の結果、新しい事態への対応が必要となり、1994年11月15日に新しい改正基本法が発効した。「基本法」は、その出発時からドイツを「民主的・社会的連邦国家」(第20条)と規定しているが、その具体的規定には、ワイマール共和制からナチス第三帝国に至るドイツ現代史の悲劇的展開から引き出された教訓の数々がにじみ出ている。
もっとも基本的な点だけを拾い出しておけば、まず第一に、基本的人権の保障が特別に強調され、第1条は、「人間の尊厳は不可侵である。これを尊重し、かつ保護することは、すべての国家権力の義務である」という書き出しになっている。第二に、そこでは、とくに政党のあり方との関係において、「自由で民主的な基本秩序」(第21条)の擁護が強調され、ワイマール憲法のような価値中立的な立場は拒否されている。第三に、ナチス時代のような中央集権体制を拒否して伝統的な連邦主義への復帰が選択されているが、それはドイツの強大化を恐れる戦勝国の意向にも合致するものであった。第四に、ワイマール憲法の場合のように強大な大統領が議会と対立することになる可能性が除去され(第63条)、また連邦議会の選挙制度の根幹をなす比例代表制についても、ワイマール憲法と比べてさまざまの修正・補足がなされている。第五に、広範な違憲審査権をもった特別の連邦憲法裁判所が設置されている(第93条)。第六に「社会国家」であることの宣言は一般的性格のものにとどまり、「社会化」条項(第15条)の存在にもかかわらず、経済生活のあり方については現実の展開にゆだねられている。第七に、さらに将来の国際協調のために、主権の一部を国際組織へ移譲することを認めて、「国民国家」の絶対性を限定する可能性を認めている(第24条)。
「基本法」は成立後たびたび改正されているが、そのなかでは、1956年の再軍備に関係する改正、1968年の非常事態法に関連する改正ならびに東・西両ドイツの統一とその後の事態に対応した1994年11月の改正が重要である。1994年の改正では環境(「生活を支える天然資源」)の保護(第20a条)、男女同権の実現(第3条第2項)、障害者の保護(第3条第3項)が国家の課題として明文化された。またヨーロッパ連合(EU)の誕生をもたらしたマーストリヒト条約に対応して、新しくヨーロッパ連合に関する条項が設けられ、それに関連して、連邦と州の間の立法権の配分に関する新しい規定が加えられた(第23条)。ドイツへの亡命者・避難民の流入を抑制しようとする庇護権条項(第16a条)の改正も重要である。ただし、ドイツ国防軍のPKO等の任務に伴う海外出動は、明文の憲法改正ではなく、憲法裁判所による基本法の新しい解釈によって実現された。
[山口 定]
国家元首
国家元首は連邦大統領で、任期5年、1回だけ再選可とされる。連邦議会と州議会から選ばれた同数の議員からなる「連邦集会」による間接選挙によって選ばれる。国民の直接選挙を避けたのは、強大な権力をもった大統領の出現を避けるためである。したがって大統領の権限も、外国との条約への署名、外国大公使の信任状の受領、そのほか形式的・儀礼的性格のものにとどめられている。歴代の大統領は、ホイス、リュプケ、ハイネマン、シェール、カルステンス、ワイツゼッカー、ヘルツォークRoman Herzog(1934―2017)、ラウJohannes Rau(1931―2006)、ケーラーHorst Köhler(1943― )、ブルフChristian Wulff(1959― )と続き、2012年3月にガウクJoachim Gauck(1940― )が就任している。
[山口 定]
立法
立法機関は連邦議会と連邦参議院からなり、後者は伝統的な連邦主義の原則に沿って、州政府の代表(定数69)で構成される。ただし、立法過程において連邦議会が連邦参議院に優越することは「基本法」の規定上明らかである。連邦議会議員は「普通、直接、自由、平等および秘密選挙」によって選ばれ、任期4年であるが、選挙権は1975年以降は18歳(以前は21歳)以上、被選挙権は21歳(以前は25歳)以上となっている。議員定数は、1965年以来496名(このほかに表決権をもたない旧西ベルリン選出の22名)だったが、統一後は598議席に増加され、現在は超過議席を含めて614名となっている。選挙制度は、比例代表制と小選挙区制からなる2票制だが、各政党ごとの議席数は比例代表制(「州リスト」の得票に基づくドント式による配分)によって決まる。またワイマール共和制期の反省から、小党乱立を避けるために、最低5%の得票率を得るか、三つの小選挙区で当選者を出すかした政党のみが議席を割り当てられることになっている(5%条項)。
[山口 定]
政府
首相は、連邦議会で過半数の票を得た者が大統領によって任命される。首相の地位は強固で、連邦議会があらかじめ後任首相について合意したうえでなければ不信任案の対象とならない(「建設的不信任案」の制度)。これまでの首相は、アデナウアー、エアハルト、キージンガー(以上キリスト教民主同盟)、ブラント、シュミット(以上社会民主党)、コール(キリスト教民主同盟)、シュレーダー(社会民主党)で、2005年11月以降、キリスト教民主同盟のメルケルがその地位についている。
[山口 定]
司法
司法権は、連邦憲法裁判所、連邦最高裁判所、連邦上級裁判所および各州裁判所によって行使される。連邦憲法裁判所(所在地カールスルーエ)は違憲立法審査権をもち、1994年末までに8万件を超える判決を下している。連邦上級裁判所には、連邦通常裁判所(カールスルーエ)、連邦行政裁判所(ベルリン)、連邦労働裁判所(カッセル)、連邦社会裁判所(カッセル)、連邦財政裁判所(ミュンヘン)がある。
[山口 定]
連邦制
ドイツ連邦共和国は16(統一前は11)のラント(州)からなる。ドイツ統一で新たに生まれた州は、ブランデンブルク州、メクレンブルク・フォアポンメルン州、ザクセン州、ザクセン・アンハルト州、チューリンゲン州の五つである(東ベルリンはベルリン州に統合)。人口ではノルトライン・ウェストファーレンが、面積ではバイエルンがもっとも大きい。
州の構成には領邦国家の歴史的伝統が色濃く残存し、各州はすべて首相と内閣と議会をもつ。とくにハンブルクとブレーメンはハンザ同盟以来の都市国家の伝統を継承している。またバーデン・ウュルテンベルクは、それを構成する2州が州民投票(1952)の結果合併したものだし、ザールラントも州民投票(1957)の結果、ドイツ連邦共和国の一州となったものである。また西ベルリンは、ドイツ統一までは形式的にはイギリス、アメリカ、フランスの3国共同管理下にあり、実質的にはドイツ連邦共和国の一州であるという特殊な地位にあった。
ブント(連邦)とラントとの関係は、ドイツ独特の分権主義(連邦主義)の延長線上に「基本法」によって定められている。立法の領域についていえば、連邦だけが立法できる事項、連邦および州がともに競合的に立法できる事項、連邦が原則的規定だけを立法する事項がそれぞれ「基本法」に明記されている(第70~75条)。連邦が専権的立法権をもつ領域は、外交、軍事、国籍、通貨、関税と鉄道と航空、郵便と電信・電話、産業上の権利と著作権・出版権の保護、警察、統計である。それに対して、州の仕事は文教政策が中心で、そのため連邦政府には文部省がなく、文教政策の調整は各州の文相が集まった常設文相会議によって行われる。また警察・治安も基本的には州の仕事とされ、連邦法の執行も州にゆだねられている。しかし、連邦の権限と仕事の範囲は、防衛問題や戦後処理(戦時補償、故郷被追放者管轄など)の問題を契機にして拡大傾向を示すことになり、1953年の家庭青少年問題省、1962年の学術研究省の新設などにより、教育・研究の領域での新たな中央集権化の傾向が顕著である。
なお、財政制度については、連邦に帰属する租税収入と、州または市町村に帰属する租税収入の区別、またそれをめぐる立法への連邦参議院の関与の度合いが、詳細に「基本法」に規定されている。
市町村は伝統的・地縁的行政単位としてドイツではきわめて重要である。とくに第二次世界大戦直後の混乱期には、上位の行政機構が壊滅していたため、その役割は大きかった。「基本法」は「市町村が、法律の範囲内において、地域的共同体のすべての事項を自己の責任で規律する権利」を認めている(第28条)が、この自治権は19世紀初頭にさかのぼるものである。各市町村は独自の議会と長と吏員をもち、おもに建設、学校、文化、福祉の4分野の仕事を担当する。州と町村との間には郡があるが、郡は町村の上位にあるわけではなく、命令権はない。ただ、州の市町村に対する影響力は、歴史的由来からいっても、連邦の州に対するそれよりもはるかに大きい。
[山口 定]
政党
第二次世界大戦後の歴史全体を通じて重要なのは、キリスト教民主・社会同盟(CDU・CSU)と社会民主党(SPD)の二大政党と、第三党である自由民主党(FDP)である。連邦政府は、連邦共和国の発足から1966年までは、おおむねキリスト教民主・社会同盟と自由民主党の保守中道政権(首相アデナウアー、エアハルト)であり、1966~1969年はキリスト教民主・社会同盟と社会民主党の(保革)大連合政権(首相キージンガー)、1969~1982年は、社会民主党と自由民主党の「社会・自由連合」政権(首相ブラント、シュミット)、1982~1998年は、左派中道政権が倒れ、キリスト教民主・社会同盟と自由民主党の保守中道内閣(首相コール)であった。1998年9月以降は、社会民主党と緑の党の連立政権となり、「赤(社会民主党のシンボルカラー)と緑の連合」とよばれた。首相は社会民主党のシュレーダー、副首相兼外相はフィッシャー(緑の党)が務めた。シュレーダー政権は2002年9月の総選挙で、かろうじて過半数を獲得したが、失業問題や構造改革で批判され、2005年7月に議会を解散した。同年9月の総選挙でキリスト教民主・社会同盟が第一党となったが、社会民主党との議席の差はほとんどなかった。11月には1966年以来のキリスト教民主・社会同盟と社会民主党による保革大連合政権が実現、旧東ドイツ出身のメルケルがドイツ初の女性首相に就任した。
キリスト教民主・社会同盟は、第二帝制からワイマール期にかけてドイツ独特の宗教政党であったカトリック中央党から発展し、戦後はカトリックに限定されない超宗派的な保守派の国民政党へと脱皮したキリスト教民主同盟(CDU)と、バイエルンにおけるその姉妹党たるキリスト教社会同盟(CSU)からなるブロックである。ともに1945年に結成され、1949年以来、連邦議会では同一の議員団を構成している。カトリック教会を中心に保守諸派を結集し、得票率はほぼ一貫して4割台を維持し、1969年に至る連邦共和国の前半期には一貫して政権の中心にあった。
それに対して、1969年以降1982年までの13年間に政権の中軸を担ったのが社会民主党である。同党は、1891年のエルフルト綱領以来のマルクス主義的階級政党としての立場を、1959年のバート・ゴーデスベルク綱領以降は脱却し、労働者やホワイトカラーを中心的な基盤とした進歩的国民政党へと変貌(へんぼう)した。そしてその得票率も1960年代中葉から1980年代初頭にかけて4割のレベルに達し、自由民主党との連合政権では、東方政策による東西間の緊張緩和と、共同決定制度の確立を中心とした内政改革に成果をあげている。
また第三党の自由民主党は、リベラルな共和主義者たちの党であると同時に、経済的自由主義を奉ずる「右派市民」の代表でもあるという二重性をもつ。その二面性のゆえに、連邦共和国の前半期ならびに1982年以降はキリスト教民主・社会同盟と、その中間期には社会民主党と提携するという形で、ほぼ一貫して政権の座にある。宗教政策(宗派共同学校の主張)においてはこの両政党の中間だが、社会政策ではキリスト教民主同盟よりも右、文化政策では社会民主党より左の立場をとることもある。得票率は10%弱。
そのほか、小政党で重要なのが、初期のドイツ党(DP)と故郷追放民同盟(BHE)、1960年代末に台頭したネオ・ナチ党(国家民主党NPD)と1980年代中葉以降の新右翼を代表する「共和党」、ならびに大学紛争を担った「68年世代」に支えられ、1980年代に入って台頭した環境保護派の「緑の党」、かつての東ドイツの政権政党であった社会主義統一党(SED)の改革派に若干の部外者(たとえば党首のギジ)を加えて再出発した民主社会党(PDS)がある。民主社会党は、2005年に社会民主党の一部と合流して左派党(DL)となっている。このなかの緑の党は1983年の総選挙で反核と環境保護を掲げて連邦議会にも進出して自由民主党と並ぶ勢力となっており、いくつかの州で、社会民主党と「赤と緑」の連合を組んで政権に参加したのち、1998年10月以降は、社会民主党と組んで連邦政府にも参加した。そしてエコロジーの視点からの産業構造の改革を主張して、社民党との連立協定として原子力発電所の段階的廃止と環境税の導入について合意した。なお、緑の党は1993年に旧東ドイツの同盟90と合併して、緑の党・同盟90を結成している。また、統一以前の西ドイツでは、共産党(KPD)は1956年に憲法裁判所によって非合法化されたが、統一後は民主社会党(現、左派党)が旧東ドイツ地域の困難な諸問題の持続を背景として連邦議会での議席を維持している(2005年の左派党の議席数54)。ネオ・ナチ党や新右翼の諸党は、5%条項の壁に遮られて連邦議会への進出の機を逸している。
[山口 定]
外交
ドイツ連邦共和国は、西ドイツの北大西洋条約機構(NATO)加盟を決めたパリ諸条約(パリ協定)発効(1955)によって、「ベルリン問題ならびにドイツ再統一と平和条約の問題を含むドイツ全体に関する権利と責任」を米・英・仏三つの戦勝国に留保して、主権を回復した。また1955年9月のアデナウアーの訪ソを機会に、ソ連との間にも国交が樹立された。しかしその後もドイツ連邦共和国は全ドイツを代表するという建前(「単独代表権」の主張)を維持し、東ドイツを承認する国家とは外交関係をもたないとする「ハルシュタイン・ドクトリン」を堅持した。こうした態度の背後には、アメリカのダレス国務長官に共鳴して「力の政策」を通じてのみドイツ再統一の展望が開かれるとしたアデナウアーに代表される東西冷戦期の保守派の哲学があった。
しかし、アデナウアー外交は、1963年の独仏協力条約による独仏友好関係の確立を契機に行詰りをみせ始めた。まず、旧東ドイツの国家としての定着と発展によって、前記の方針は修正されざるをえなくなった。他方、アラブ諸国との間にも、1965年のイスラエルとの国交樹立に伴い、一時国交断絶が生じた。また、ベルリン問題もまた、すでに1961年8月の東ドイツによる東西ベルリン間の「壁」の構築によって改めて深刻な問題となっていた。しかしこれらの問題は、1969年9月に、元西ベルリン市長で社会民主党の党首W・ブラントを首相とした政権が生まれて以来、急速に解決に向かった。ブラントは、西ドイツ首相として初めて、東ドイツをその正式の国名「ドイツ民主共和国」をもってよび、ドイツの現状を「一民族二国家」と規定する立場にたって東西の緊張緩和に踏み出し(いわゆる「東方政策」)、ソ連およびポーランドとの間の武力不行使条約、ドイツ民主共和国との間の「東西両ドイツ基本条約」を調印・批准に持ち込み、その結果、1973年9月には、東西両ドイツの同時国連加盟が実現するに至った。また、ヨーロッパが冷戦から脱却する過程で大きな役割を果たしたヨーロッパ安全保障協力会議(CSCE)体制確立に対してのゲンシャー外相の寄与は、この東方政策の延長線上に位置づけられる。
1990年のドイツ統一以降、一方で1999年1月のEUによる通貨統合の実現に主導的役割を演じつつ、他方では旧ユーゴスラビア解体過程でのクロアチア独立の率先承認が国際的に注目を集めた。そのほか、1994年の連邦憲法裁判所によるNATO域外派兵の条件付承認、1999年の新しい首都ベルリンへの政府移転の完了、1999年4月にはNATO軍によるユーゴ(新ユーゴスラビア)出撃に際して、ドイツ連邦軍が戦闘行動に初参加、アフガニスタンへの平和維持部隊の派遣など、政治大国としての新しい動きを見せている。2003年に行われたアメリカのイラク侵攻に対し、ドイツはフランスとともに一貫して反対した。そのため、アメリカとの関係が悪化した。また、国連において安全保障理事会の常任理事国入りを日本などとともに目ざしているが、実現は困難な状況にある。
[山口 定]
軍事
パリ諸条約によって西ドイツはNATOに加盟すると同時に、その枠内での再軍備に踏み切った。1954年2月の「基本法」改正、1955年6月の国防省設置、1956年7月の一般兵役義務法、1958年3月の連邦議会による核武装決議を経て、西ドイツ国防軍は、1964年には陸軍27万4000人、空軍9万2000人、海軍3万人ほか、地域防衛軍を含めて総計43万人に達し(統一時の1990年には西ドイツ国防軍49万人、東ドイツ人民軍17万人となっていた)、ヨーロッパに配備されたNATO軍としては最大の軍隊となった。現兵力(2003年)は、東ドイツ人民軍の解体編入にもかかわらず冷戦終結後の軍縮もあって減少し、陸軍は19万1350(うち徴集兵7万3450)と予備役29万7300、海軍は2万5650(うち徴集兵4950)、空軍は6万7500(うち徴集兵1万6100)となっている。また、アフガニスタン、ボスニア・ヘルツェゴビナ、セルビアに国際治安支援部隊を派遣している。ドイツ軍以外に、アメリカその他のNATO加盟諸国の駐留軍があり、ドイツ軍とともに多国籍部隊を形成する。兵役義務は満18歳以上の男子(期間9か月)にある。ドイツの軍隊は、西ドイツ時代の最初から良心的兵役忌避の承認を制度化(基本法第4条)している点と、議会による国防軍統制の制度の一環として国防受託者(防衛監察官)を設置している点に特色がある。国防支出は、西ドイツ時代の1970年以来、英仏両国を凌駕(りょうが)し、GNP中のその比率は、1960年代末までは6%前後、それ以降は4%前後、1980年は3.2%まで下がり、統一後の1990年代には2%前後になった。2003年にはGDP比で1.5%になっている。戦術核使用可能な兵器を装備しているが、核弾頭はアメリカ軍管理下にある。
[山口 定]
経済・産業
統一後のドイツ経済
人口約8200万人のドイツ経済の規模を示すGDP(国内総生産)は、2004年時点で2兆7405億ドルであり、世界のGDPの6.8%を占めている。これはアメリカ合衆国(29.1%)、日本(11.5%)に次ぎ、国民1人当りに換算しても先進国ではアメリカ、日本などに次ぐ高い所得水準を示している。ドイツ経済の国際的地位は貿易面でいっそう顕著で、輸出額では世界第1位、輸入額ではアメリカに次ぎ第2位であり、世界の輸出入額に占める割合は、輸出10.6%、輸入8.2%と大きい。
[大西健夫]
東西の経済統合
ドイツ経済は過去10数年間、旧東ドイツ地域の再建とヨーロッパ経済統合の完成に全力を傾けてきた。1989年11月の「ベルリンの壁」崩壊に始まるドイツ再統一は、1990年7月1日の経済・通貨・社会同盟、10月3日の国家統合へと結実した。旧西ドイツと旧東ドイツを統合時点で比較すると、人口で6200万人と1700万人、就業人口で2968万人と859万人でありながら、経済力は10対1であった。これは、7月1日の通貨同盟に始まる通貨供給量の伸びが10%程度であったことからもみてとれる。旧東ドイツ経済の近代化は遅れており、第一次、第二次、第三次産業を部門別就業人口比率でみると、旧西ドイツではそれぞれ5%、40%、55%であったのに対し、旧東ドイツでは11%、47%、42%であった。さらに旧東ドイツ経済の生産設備の老朽化が著しかったばかりでなく、計画経済体制下での生産資源配分の非効率、重化学工業偏重の経済構造、国営・国有企業の生産性の低さが決定的であった。また、旧東ドイツの主たる貿易相手国である旧コメコン諸国も混乱に陥ったことと、ドイツ・マルク受け入れにより通貨切上げが生じたことから、旧コメコン諸国への旧東ドイツ地域からの輸出が極端な不振に陥ることとなった。
再統一にあたっては政治的判断が優先されたことから、実体的に1対4以上であったドイツ・マルクと東ドイツ・マルクの交換比率を、賃金・家賃などを1対1、現金・預金は1人当り14歳までは2000東ドイツ・マルク、59歳まで4000東ドイツ・マルク、60歳以上は6000東ドイツ・マルクを上限として1対1とし、超過分は1対2とした。企業の債権・債務は1対2であった。社会保障制度においても、年金を含め旧西ドイツなみの水準へ移行させたので、そのための財政補填(ほてん)分を旧西ドイツ側が負担した。社会基盤整備を含めた旧東ドイツ地域の近代化投資は同じく旧西ドイツ側の負担となり、統一国家条約に基づきドイツ統一基金が設置され、1990年からの5年間に1150億ドイツ・マルクを旧西ドイツの連邦政府と州が負担するものとした。こうした負担に対する旧西ドイツ国民の論理は、第二次世界大戦後分断国家時代にもっとも苦しんだのが社会主義政権下の旧東ドイツ地域の同胞であったとの認識である。しかし、5年間で東ドイツ地域経済の再建が完了するとの見込みは満たされなかったばかりか、基金への積み増しがその後も続けられた。2001年の一人当りGDPは、東で1万6514ユーロ、西で2万7004ユーロとなり、東は西の61.2%である。1991年の東の1人当りGDPは西の33.1%にすぎなかったので、差は縮まったものの、東西両地域の経済格差は依然として大きい。
[大西健夫]
国営・国有企業の民営化
社会主義計画経済から資本主義市場経済への体制転換は難航する。体制転換の道筋は、旧東ドイツ国家時代の1990年6月に制定された、やはり5年間の期限立法である信託公社法によってつけられていた。すべての国営・国有企業は資産評価ののち資本会社として民営化され、信託公社はその株式のすべてを所有する巨大持株会社となる。計画経済体制のもとで企業経営が集中管理されていたので、本体業務以外の関連業務をも包括した大コンビナート経営となっており、民営化にあたって信託公社は業務単位で資本会社化し、不採算部門を清算する方法をとった。民営化の対象とされた国営・国有企業の従業員総数は600万人にのぼっている。公社は個々の会社の業績・財務を検査し、存続可能と判断した会社の株式を内外の市場で売却するか、支援によって再建してから売却する。見込みのないものは閉鎖するが、従業員解雇費用等を信託公社が負担する。会社の売却収入で民営化の費用を調達できるとの前提であったが、再建費用が売却収入を大幅に上回ってしまう。5年間における信託公社の収入は400億マルクであったのに対し、負債総額は2040億マルクとなり、負債は連邦政府が引き受けている。
[大西健夫]
経済統合の西ドイツ経済への影響
再統一の旧西ドイツ経済への影響は、1990年から1991年にかけての一時的な統一ブームに現れ、実質経済成長率を1%引き上げた。西側の消費財を自由に購入できることになった旧東ドイツ住民は旺盛な消費意欲を示し、これを満たすことにより西ドイツの輸出余力は減少したばかりか近隣諸国からの輸入に頼るまでに至り、貿易収支黒字も大幅に減少し、1991年以降2000年まで経常収支赤字が続いていた。消費者物価の上昇と雇用不安が92年以降の消費を抑え、1993年には不況に向かい、統一ドイツのGDP実質成長率はマイナス1.2%を記録した。物価抑制と東地域での再建投資のために外国資本を導入したが、外国資本導入のため金利を高く維持したことも景気を抑制した。そして、なによりも財政赤字幅が拡大していった。
1993年11月に発効したマーストリヒト条約は、EC(ヨーロッパ共同体)をEU(ヨーロッパ連合)へと発展させるとともに、通貨統合への日程と基準を設定した。1999年1月1日のユーロ導入への参加基準のうち最大の難関となったのは、基準年である1997年におけるGDP比国債残高60%以内と財政赤字3%以内とする、という条件であったが、1996年のそれはマーストリヒト基準で60.4%と3.4%であった。その後も財政赤字は続いていて、2004年財政赤字の対GDP比は3.7%と3%以内の基準は達成されていない。政府支出の減少、とくに社会保障費の削減が不可避となる。財政出動に足かせが課せられたこともあり、1995年から1997年までの実質GDP成長率は1.2%、1.3%、2.2%であった。失業率も、後述の五賢人会資料によると、西ドイツ地域で1991年に6.3%であったものが97年には11.0%、旧東ドイツ地域でも10.3%から19.5%へと急速に上昇している。1997年に対GDP比国債残高と財政赤字を61.3%と2.7%で基準をクリアすると、1998年の成長率は、通貨統合への期待もあって設備投資が活発となり、2.8%成長を達成する。しかし、前年までの社会保障費の削減が国民の反発をかい、1998年9月の総選挙でシュレーダーを首班とする社民党が地滑り的に勝利し、イギリス、フランスに次いでドイツも緑の党との連立で中道左派政権が実現した。1999年は東欧と東アジアへの輸出の停滞から成長率は1.4%へと下がるが、2000年には3.0%を達成した。実質経済成長率(IMF資料)は2001年に0.8%、2002年に0.2%に低下、2003年はマイナス成長となっている。ドイツ経済の課題は、依然として遅れている旧東ドイツ地域の経済再建と、高止まりしている失業率であるが、中期的には金融政策がヨーロッパ中央銀行(ECB)に一元化されたなかで、財政政策をどう運用するかである。
グローバル化の進展とともに競争が激化する国際経済にあって、財政政策を国内経済・社会の保護手段とすることは、中期的にはドイツ経済の競争力を失わせ、投資と雇用機会を減少させる。1999年6月にシュレーダーがイギリスの首相ブレアと共同提唱した「第三の道―新中道」においても、市場と社会保障の関係を新たに構築すべく第三の道を模索している。
[大西健夫]
西ドイツ時代の産業・経済
戦後復興
ヨーロッパにおける第二次世界大戦は、1945年5月8日のドイツ無条件降伏で終了するが、これに先だつ1943年10月のモスクワ会議で米英ソ3首脳はドイツ分割統治に合意し、1945年2月のヤルタ協定でフランスの占領参加が決まる。そして、1945年7月30日に始まり、8月2日のポツダム協定に結実する米英ソ3国首脳の合意により、戦後ドイツの版図が決定される。これにより、東欧各地に居住していたドイツ人の4国占領地域への移住が進む。戦中ならびにポツダム協定以降1950年までに4国占領地域に移動した人数は1500万人に及んでいる。戦後ドイツ経済の復興はこれらの人々を受け入れることから始まる。
次第に、復興には各占領管理地域を超えた施策が必要であるとの認識が西側戦勝国の間でもたれるようになり、冷戦構造が明白になりつつあったこともあり、1947年にまず米英が両管理地域の経済統合を定めるが、この合同経済地域が後の西ドイツ国家形成の核となる。政治的統合に先だち進められたのが、通貨改革である。まず1948年3月に西側3管理地域の中央銀行であるドイツ・レンダーバンクが設立され、これに続きドイツ側の経済責任者ルードウィヒ・エアハルトは、西側管理地域を対象に通貨改革を1948年6月20日に断行する。戦前からのライヒス・マルクを廃し、100対6.5の比率でドイツ・マルクを導入する通貨改革は、戦後インフレを克服する手段でもあったが、同時にこれにより、旧通貨ライヒス・マルクを維持したソ連管理地域との断絶が生まれ、東西対立が通貨において決定的となる。ソ連管理地域との通貨の断絶は、ソ連が拒否したマーシャル・プラン援助を西側管理地域にも導入するにあたり、その適用範囲を確定するためにも必要な処置であった。そして、米英仏3国の管理地域の各州代表による憲法制定作業を経て作成された基本法(ドイツ憲法)を各州が受け入れ、1949年5月23日に発効する。
国家形成過程が示すように、ドイツ連邦共和国(旧西ドイツ)は、国内行政の主体を州政府とする連邦主義構造をとっており、政治体制のみならず、経済体制と経済運営においても基本原則となっている。これに対抗する形で1949年10月7日には、ソ連管理地域から社会主義中央集権国家としてドイツ民主共和国(旧東ドイツ)が建国され、新通貨を(東ドイツ)マルクとした。
[大西健夫]
社会的市場経済
14年間にわたり首相として旧西ドイツを政治的に指導したのはキリスト教民主同盟のアデナウアーであるが、その西側世界への統合政策を経済面で支え、ドイツ経済の奇跡を実現したのが経済相エアハルトである。彼の経済秩序理念は、ワイマール時代以来フライブルク大学教授オイケンを中心に定着していた自由な競争に立脚する市場経済体制理論に基礎を置き、ナチ時代の管理・統制経済を否定するものである。フライブルク学派の機関誌『オルド』の名をとってオルド学派ともよばれるが、彼らは競争秩序の構築と機能の維持が社会進歩を実現するものと考える。すなわち、社会的・政治的・経済的自由、社会的安全、社会的公正の適正な組み合わせを目ざす秩序理念である。
基本法20条1項が「ドイツ連邦共和国は、民主的、かつ、社会的国家である」と定めていることから、エアハルトに代表される西ドイツの経済体制は、彼の下で事務次官を務めたケルン大学教授ミュラー・アルマックAlfred Müller-Armack(1901―1978)の造語によって社会的市場経済とよばれるようになる。社会的国家における「社会」を経済政策の現実においてどのように理解すべきかが政治の場で争われるようになる。野党である社会民主党は社会保障の充実を強調する立場にたち、「政府は市場を優先している」と批判した。すなわち、個々の政策における「市場」と「社会」の位置づけが問題となるのであるが、1954年7月20日の連邦憲法裁判所は、基本法は特定の経済体制を明示的に決定してはいない、それは中立的であり、個々の政策は時々の議会が決定する、との判断を下している。ミュラー・アルマックの主張は、市場と社会、競争と社会保障は対立するものではなく、相互補完的でありうるとの立場にたった。たとえば、公共住宅の建設よりも住宅手当を優先するのは、消費者による市場での選択権を拡大することであり、供給側が市場で競争するのでより市場整合的であるとする。また、公正な市場秩序と市場整合的な施策が市場と社会の進歩的な共存をもたらすと考え、政府の役割は独占禁止法をはじめとする秩序政策にあるとする。彼は、市場と社会の架け橋たるべき政府の政策に学識者の意見を制度的に取り入れるべく経済省に学術顧問委員会を設置し、世論形成と自由な答申の場を設置するのでもあった。市場と社会の関係は、資本主義社会において永遠の課題であるが、ドイツの社会的市場経済理念はグローバリズム時代における「第三の道」論議においても一つのコンセプトを提供しているといえよう。
[大西健夫]
経済発展と政策
通貨の安定による市場機能の回復は、マーシャル・プラン援助や朝鮮戦争景気とも相まってドイツ経済の復興を強力に推進した。朝鮮戦争後の反動不況などを経験するものの、1960年代中葉までのドイツ経済は高い成長、安定した物価、貿易黒字、完全雇用を実現し、ドイツ経済の奇跡とよばれるに至る。しかし、その後のドイツ経済は幾度かの構造危機に直面するのであり、これを克服する過程において政権の交替と政策の転換が明白にみられるのがドイツの特徴である。
好況の最中、1961年8月のベルリンの壁構築により東からの労働力流入がとだえ、賃金の上昇が目だつとともに消費者物価も上昇に転じ始める。外国人労働者の導入を積極的に進めるが、賃上げとともに労働時間短縮などもあり、生産面での弾力性が失われ、ドイツ経済の国際競争力が低下する一方、連邦主義構造のもとで財政の独立性をもつ各州で好況期における財政の放漫化が進み、1967年には復興後最初のマイナス成長を記録するに至る。ドイツ経済が転機に直面しつつあった1963年にエアハルトはアデナウアーの後を継ぎ首相に就任するが、経済成長率は下降局面に入っており、高成長よりも安定化政策が課題となった。経済運営に連邦政府や州政府の個別的立場のみならずドイツの全体経済に関する判断と提案をすべき機構の必要性が認識されるようになり、経済省学術顧問委員会の提案に基づき、5人の経済学者からなる「経済諮問委員会」(通称五賢人会)を設置するのもアデナウアー政権最後の1963年である。1966年の経済安定・成長促進法制定とともに五賢人会の役割と権限がより明確に規定された。五賢人会は全体経済に関する年次所見を毎年11月15日までに議会と政府に提出し、これに対する回答を政府は8週間以内に議会に提出するものとしている。この所見と回答をあわせたものが、たとえば日本における経済白書にあたるものと考えてよい。
1966年の総選挙の結果、エアハルトは退陣し、キリスト教民主同盟はキージンガーを首班として野党第一党の社会民主党と大連立内閣を形成する。この時期の経済政策を主導するのは社民党の経済相シラーであるが、エアハルトの秩序政策にマクロ経済運営における経過政策を加え「オイケンとケインズの総合」を目ざし、経済の総合的誘導を主唱する。不況の最中の1967年に発効する経済安定・成長促進法は、その第1条で「市場経済の枠内で、適正な経済成長を維持しつつ、物価水準の安定、高い雇用水準そして対外経済均衡に資すること」を明示し、いわゆる「魔法の四角形」(成長、物価、雇用、貿易の調和的発展)の適正な達成を政策目標とするに至る。具体的には財政・金融政策における中期財政計画が導入され、連邦・州政府財政の協調が実現するとともに、労・使・政府の協力のための「協調行動」が制度化される。財政政策を中心に総需要管理政策と所得政策が政策手段として定着し、1969年の社民党政権とともにミュラー・アルマックのいう社会的市場経済の第二局面の時代となる。
1968年以降ふたたび成長軌道に戻った西ドイツ経済は、社民党政権のもとで二つの石油危機を経験し、1974年のマイナス成長以後成長率の鈍化と失業率増大に苦慮し、経常収支赤字が1979年以降続くとともに、1982年には三度目のマイナス成長を記録するに至る。構造危機が鮮明であり、ドイツ病といわれた時期である。1982年にふたたび政権に返り咲いたキリスト教民主同盟は、コール首相のもとで社民党政権下で肥大化した政府機能を縮小するとともに、社会的市場経済理念の原点に立ち戻り、市場機能活性化を目ざす。世界的に小さな政府が志向された時期であり、すでに40%に達していた国民負担率を主として社会保障費の削減によって引き下げ、投資優遇策を実施してサプライサイド(供給側=企業)からの経済回復を政策理念とした。
1983年以降の西ドイツ経済は順調な回復を示し、1985年のプラザ合意でのマルク切上げが一時的なショックとなったものの、1986年のEC単一欧州議定書に基づく1992年末に予定されていた共同市場完成を先取りする投資ブームが起こり、1980年代後半は失業率は高止まりしつつあったものの西ドイツ経済の好況期となる。そして共同市場ブームに陰りをみせ始めていたさなかの1989年11月のベルリンの壁崩壊に始まるドイツ再統一は、ドイツのみならず近隣ヨーロッパ諸国にまで統一ブームをもたらした。再統一にはソ連への賠償支払いと弱体化した旧東ドイツ経済の吸収を必要としたのであるから、1980年代に旧西ドイツ経済の体力が回復し、硬直化していた公共財政の改善が進んでいたからこそ、再統一は可能となったのである。
[大西健夫]
ドイツの産業・経済構造
経済構造
産業を西ドイツ時代からの一次、二次、三次の部門別就業人口構造でみると、一次産業は1960年に14%であったものが1980年には6%となっており、二次産業は48%と45%、三次産業は38%と49%であった。五賢人会1999年11月の「年次報告」に基づく1998年の3部門の就業人口比率は3%、31%、66%であり、GDP比率では1%、31%、68%となっている。
国民経済計算の総支出勘定の項目をGDP比率で1998年についてみると、民間消費57%、政府消費20%、設備投資8%、建設投資14%、海外経常余剰(財・サービス輸出入尻)1%である。最大の項目は民間消費であり、1993年以来低迷していたが、1998年には伸び率を回復し、成長寄与度を高めている。輸出入依存度は輸出25%、輸入22%であり、輸出が伝統的にドイツ経済の牽引(けんいん)役を果たしてきた。
民間消費を決定する家計可処分所得をみると、家計貯蓄率は1991年の13.2%から1998年の10.1%に低下している。家計消費を支出項目別比率で分類すれば、住宅・内装・家具が25%、旅行・余暇・文化・教養が22%、交通・通信・自動車購入と食費がそれぞれ16%と主要項目となっており、ドイツ人の経済生活の特徴を表している。
[大西健夫]
主要産業と主要企業
(1)農林水産業 ドイツ経済における農林水産業は生産額で1%、就業人口で3%と大きな意味をもたないが、前記の比率が物語るように労働生産性の低さとこれに伴い他の産業に比べて所得の低さが問題である。第二次世界大戦後の食糧難の時期から製造業を中心とする奇跡の経済復興の時期に入ると所得格差解消が農業政策目標となり、日本の農業基本法の原型となった農業法が制定されるのは1955年である。これによって所得と生活条件の格差解消と農漁村での生活基盤整備が図られた。具体的には家族経営が中心となっている農業経営に規模の拡大と機械化が進められたが、農業人口の減少は著しく、専業農業人口は1950年の510万人から1980年には120万人となっている。
農業政策においてはさらに、1962年からのEC共通農業政策に基づき域内共通保証価格が導入されたので、経営の大規模化と機械化が進んでいたドイツの農業は域内で相対的に有利となり、ドイツ農業も恒常的に過剰生産に陥る。しかし、農業市場の自由化が進むとともに国際競争力の弱さが顕著になり共同体財政への負担を大きくする。そこで、1992年にEU共通農業政策の修正がなされ、価格保証の削減と減反による生産調整がなされるようになった。農業経営にはいっそうの合理化圧力が課せられている。とくに、戦前からの穀倉地帯であった旧東ドイツ地域では、社会主義時代に農業にもアウタルキー(自給自足)政策がとられ、共同経営体が形成され手厚く保護されていたので、再統一後の市場経済化に伴う競争圧力に対応できず、経営の民営化とともに農業人口は大幅に減少した。2003年の農業就業人口は130万3300人、経営体数は42万0697、農地面積は1700万8000ヘクタール(うち旧東ドイツ地域は555万4000ヘクタール)である(『ドイツ統計年鑑』による)。
ドイツの地勢は、北海・バルト海沿岸に始まる北ドイツ低地、ほぼマイン河を中心とする中位山地、アルプスに向けてのアルプス前地に区分されるが、北ドイツ低地の肥沃(ひよく)な砂質、泥土質、粘土質の地帯では穀物とサトウダイコン(ビート)が栽培され、これが森林豊かな中位山地から南ドイツの粘土質地帯まで広がっている。北部の低湿地帯、中位山地岩盤地帯、アルプス前地は牧畜のための緑草地として利用されている。自給率は、小麦、大麦、ライ麦などの穀物だけでみると90%を超えており、ジャガイモ、砂糖、ミルクなどは100%である。輸入依存度が高いのは果実、野菜、奢侈(しゃし)品である。また、気候が温暖なライン川中・上流とその支流はドイツワインの産地である。歴史的にはより北部や東部までワイン栽培がなされていたが、北部や東部地域のワインはフランスやイタリアとの競争の結果消滅した。特筆すべきは、旧東ドイツでは奢侈品への高率課税の結果、国産ワインに価格競争力があることで、ザール川の支流ウンストゥルート川地域でワイン栽培が存続し、再統一後も続いている。
ドイツの国土の3分の1は森林であり、森の国ともいわれている。林業用地は898万4000ヘクタール(2001)であり、このうち国有林が50%、自治体所有林と個人所有林が残りをほぼ折半している。地域的にはバイエルン州やバーデン・ウュルテンベルク州がある南ドイツとベルリンを抱えるブランデンブルク州が大きい。
漁業は沿岸が中心で、2002年の漁獲量22万4451トン、養殖量は4万9852トンである。主要な漁場は北海とイギリスの西側にあたる大西洋であり、これにバルト海が続く。漁獲量と売上高で主要なものはカニとタラで、漁獲量は大きいが金額に反映していないのが大衆魚であるニシンと貝である。高級魚サケは売上高で大きな位置を占めている。
(2)製造業 2002年では、第二次産業の生産比率27%のうち、大きいのは製造業の20.6%、建設業の4.2%、電気・ガス・水道の1.8%である。第三次産業では、金融・保険・不動産が28.2%、卸売・小売が10.9%、運輸・通信が5.8%などとなっている。
サービス社会化は進行しているものの、ドイツ経済を支えているのはやはり製造業である。売上高で20大企業を並べてみるとわかるように、ドイツ経済を代表するのは、自動車、化学、電子・電気、鉄鋼・機械である。自動車産業を代表するのは、ベンツ(ダイムラー・クライスラー)、フォルクスワーゲン(アウディを系列下におく)、BMWであり、これに外資系のフォードとオペル(GM)と高級車のポルシェが加わる。化学業界には、世界的に事業を展開しているBASF、バイエルがある。かつては、この2社にヘキストが加わり、ドイツ三大化学メーカーとよばれていたが、ヘキストは現在、フランスに本社を置くサノフィ・アベンティスとなっている。電子・電気業界を代表するのはジーメンスで、これにボッシュ、グルンディヒが続く。しかし、情報機器の分野ではアメリカ、日本に後れていると指摘されている。鉄鋼・機械ではティッセンクルップ、マンネスマン、プロイサーグ、マンがある。このうちマンネスマンは、携帯電話などの情報機器への比重を高め、2000年には鉄鋼部門を売却している。エネルギー業界の大手は、VEBA(フェーバ)、REW(レーベ)、ルール炭鉱、VIAG(フィアグ)、ルール・ガスであるが、VEBAとVIAGは2000年に合併してE.ON(エーオン)となり、E.ONはさらにルール・ガスも買収している。一次エネルギー消費量を種類別比率でみると、石油が37.2%、石炭・褐炭が24.6%、天然ガスが21.8%、核エネルギーが12.4%となっている(2002)。1998年総選挙で社民党と緑の党の連立政権が成立し、政策合意に原子力発電廃止があるものの、具体的な廃止時期や手順は先送りされている。
(3)商業・金融 商業企業の多くは第二次世界大戦後に成長したもので、持株会社化し本部をスイスに置くとともに大規模小売店カウフホーフを傘下にもつメトロ(ドイツ本社デュッセルドルフ)をはじめとして、スーパー・チェーンのEDEKA(エデカ)(本社ミュルハイム)、スーパー・チェーンのプルスに代表されるテンゲルマン(ハンブルク)、スーパー・チェーンであるとともに食品・化粧品メーカーでもあるREWE(レーウェ)(ケルン)が上位を占めている。そして、ヨーロッパ最大の通販業者がクエレ(フュルト)である。しかしクエレは、消費低迷による業績悪化のため、2004年に経営危機に陥った。ドイツ銀行、ドレスナー銀行、コメルツ銀行が、第二次世界大戦後フランクフルトに本拠を置き三大銀行としての地位を築いてきた。それに続く地銀最大手のバイエリッシェ・フェラインス銀行が、同じミュンヘンに本拠を置くバイエルン抵当・振替銀行と合併して第2位の銀行となった。
[大西健夫]
地域経済構造
第二次世界大戦後の西ドイツ経済は重化学工業を中心に高度成長を実現したが、その原動力となったのは、19世紀以降ルール地方の炭坑を背景に発達した鉄鋼業と、ここから生まれた機械産業である。長い間南北格差がいわれてきた。人口1800万人のノルトライン・ウェストファーレン州はドイツ最大の州であり、州都デュッセルドルフには日本企業が集中している。その基盤は鉄鋼業のルール工業地帯であるが、さらにケルン(フォード)、アーヘン地域の機械産業を抱え、ドイツ最大の経済中心地である。産業構造が加工組立型に移行するにつれて、自動車、電子・電気およびその関連産業が南を中心に発展し、中心地であるバーデン・ウュルテンベルク州のシュトゥットガルト(ベンツ、ポルシェ)、バイエルン州のミュンヘン(BMW、ジーメンス)、ヘッセン州のフランクフルト(オペル、ヘキスト、銀行)の比重が急速に高まった。これに州都ハノーバーを中心とするニーダーザクセン州中部が主要工業地帯の一つとして加わるが、その中心となるウォルスブルクのフォルクスワーゲン工場や1998年にプロイサーグ(ハノーバー)が全株式を取得する鉄鋼のザルツギッターは、第一次・第二次世界大戦の戦間期に空爆を避けるため内陸部に政策的に設置されたものである。
第二次世界大戦前の中心地であったベルリンは旧東ドイツ領内の飛び地となったことにより、ジーメンス、フォード、ドイツ銀行がそうであったように、企業がその本拠を西側に移したので経済的地位を失った。再統一により、旧東ドイツ時代の工業中心地であった東ベルリンと西ベルリンが合併するとともにふたたび首都の地位を獲得したことにより、同市は経済中心地としての復権を目ざすことになった。
旧東ドイツの計画経済は経済アウタルキー(自給自足)政策と企業経営の集中管理を行ったので、地域産業にモノカルチャー構造(特定の分野に片寄った産業構造)を生みだしていた。製造業の伝統のない穀倉地帯に計画的に工業地帯が移植されたのである。鉄鋼、化学、機械、造船などが特定の地域で集中管理されたので、国営・国有企業の解体や清算とともに雇用の受け皿が地域に存在せず、高い失業率をもたらした。再統一後の10年間で、地域経済成長率格差が明白となってきた。工業生産の伸びが高い地域は、多様な生産財、消費財産業を抱えるベルリン-ポツダム地域、機械工業のドレスデンとプレンツラオ、光学・精密機械のイエナなどのある地域である。このほかに戦前からの機械産業の中心地であったライプツィヒやケムニッツがある。これに対して、アウタルキー政策から設置された北海沿岸の造船業地域は根本的な構造転換には成功していない。
[大西健夫]
交通・通信
ドイツはヨーロッパの中心部に位置することから、交通網でみると小国であるベネルックス三国に次ぐ整備網を有している。国土1000平方キロメートル当りでみると、アウトバーン(高速道路)で31.2キロメートル、鉄道で50.9キロメートル、内陸水運で21.0キロメートルとなっている。
歴史的にみて大量輸送手段は鉄道から始まったし、19世紀中葉のドイツの産業革命に鉄道建設と鉄道輸送は決定的な役割を果たした。大量人員輸送手段は、鉄道、路面交通、航空に分類できるが、1998年の総輸送人員数は、鉄道が18億2000万人、バス等の路面輸送が78億7000万人、航空が10億7000万人であった。私鉄から発達したドイツの鉄道の国有化が完成するのは1920年代であるが、民営化政策のもとで旧東ドイツ国鉄を合併して、1994年1月発効の法律により連邦政府100%株式所有のドイツ鉄道株式会社(DB(デーベー))が発足する。鉄道の営業路線距離は4万2168キロメートルで、このうち貨物専用路線は7523キロメートルである。貨物輸送においては、鉄道が30億0600万トン、自動車が29億6800万トン、内陸水運が2億3600万トン、海運が2億1400万トン、航空が200万トン、パイプラインが9000万トンであった(1998)。ライン川、エルベ川、ドナウ川が流れるドイツにとって内陸水運の果たす役割は大きい。内陸水運に従事している船舶数は貨物用と曳船(ひきふね)で2500隻、これに観光船の750隻が加わり、従業員数は8140人である。
1960年代に始まるモータリゼーションの結果、人員ならびに貨物輸送の主役は自動車に移った。自動二輪を含めた登録台数は4959万台(1998)であるが、このうち自家用車が4167万台、貨物自動車が237万台である。道路の延べ距離数は23万1074キロメートルであるが、このうち連邦政府が建設・管理するアウトバーンは1万1309キロメートルで、一般国道にあたる連邦道が4万1419キロメートル、州道が8万6819キロメートル、市町村道が9万1527キロメートルとなっている。
郵便と通信は連邦郵政省が所轄する国営事業であったが、1989年に郵便、通信、郵貯の3部門に分割され民営化することが決定された。とくに通信に関しては、1995年のドイツ・テレコム株式会社化を受け1996年に株式市場に上場している。1997年のドイツ・テレコムの売上高は676億マルクで年次利益は35億8800万マルクであった。同じく民営化されたドイツ郵便の従業員数は26万7000人で、売上げが271億3600万マルク、年次利益は3億8400万マルクの赤字であった。
[大西健夫]
開発と環境保全
国土整備の基本原則は1965年に制定され、その後たびたび改正されてきた連邦国土総合整備法に基づいている。この法律は、第1条で「既存の自然環境および経済的、社会的ならびに文化的要件に配慮すること」とうたっているように、経済目的での開発にあたっては農業、林業の保全とともに自然保護・保全との調和のとれた土地利用計画をたてることを目ざしたものである。
ドイツは連邦主義原則に基づく行政の分権主義が確立しているので、国土整備の主体は州政府となっており、各州は国土整備法に対応した州国土法を制定している。そこでは、自然の産物、植物と動物、景域・景観、それらの保護・保全などにつきその内容を具体的に指定し、その実現のための法的拘束性や行政手続きを明記している。こうした大枠に基づき、農村地帯であれば耕地整理法、都市開発には建設法典、自然保護・保全には自然保護法、環境管理には水管理・整序法、公害防止法などが制定されている。とくに建設法典では市町村に開発にあたっての土地利用計画書の作成が義務づけられており、交通手段、廃棄物処理、環境保全、緑地確保、水利用などに厳格な計画性を要求する。こうした幅広く、かつ、細部にわたる規定の存在がドイツの美しい地域景観と環境保全を確かなものとしている。
国土開発や環境規制については国内法で規定できるが、環境破壊に国境はない。それゆえ、複数の国にまたがって流れる川や大気汚染については国際基準と協定が必要であり、EU加盟国はEU環境法を制定している。国境を越えた大気汚染の影響とみられているドイツの森林汚染についてみると、1990年代初頭まで悪化の進行が目だったが、大気汚染対策が進むにつれて1990年代後半に入り安定ないし改善している。森林汚染度は、1984年の連邦・州政府の合意のもとに観察地点を特定し、そこでの観察によって汚染の進行がみられない(0)、わずかであるが汚染の進行がみられる(1)、汚染が明白にみられる(2)、強くみられる(3、4)を基準にして判定されている。汚染度2以上を基準にみると、とくに汚染が激しい旧東ドイツのチューリンゲン州で観察地点総数に占める割合が1996年に37%であったものが、1998年には31%に改善しているし、旧西ドイツのバーデン・ウュルテンベルク州でも35%から24%と、汚染度は低下している。旧東ドイツ地域で環境汚染が激しいのは、社会主義時代に環境規制を行わなかったからである。そのため土壌汚染が進行した。再統一後、政府の責任で汚染処理を進めている。
生産活動が環境に影響を与えるのは避けられないことである。それをいかに小さくし、抑えるかである。産業界も努力しており、第二次産業の環境関連投資総額は50億マルクで、総投資額の4.1%を占めている(1996)。環境投資比率が高い鉱業は1億6250万マルクで総投資額の5.5%、製造業は39億4600万マルクで4.4%、エネルギーは9億7200万マルクで3.1%であった。いずれも大気・排水関連投資が中心であるが、環境投資額が最大の自動車(合計7億2000万マルク)でみると、大気関連が5億マルク、排水関連が1億2700万マルク、騒音関連が3000万マルクなどとなっている。それでも環境関連の違法行為は増大しており、起訴件数は1993年の2万9732件から1997年の3万9864件となっている。このうちもっとも多いのが、汚染廃棄物処理に関するもので、2万9559件にのぼり、これに続くのが土壌汚染の1888件であった。
ドイツは環境先進国といわれているように、環境対策は早くから始まっている。製造・販売者責任原則をとっており、1972年の廃棄物処分法、1986年の廃棄物発生規制・処理法、1994年の循環型経済廃棄物法と続き、これらの法律に基づき個別分野の政令が発布されている。1991年の包装廃棄物規制令は輸送用包装材のメーカー引き取り、商品包装の回収と再利用の流通業者負担などを定めており、民間企業はこれに対応するため1990年に共同出資で包装紙やプラスチック容器の回収とリサイクリングの専門会社デュアルシステム・ドイチュラント(デュアル=二重、すなわちごみ回収と処理を行う行政と並行する業務)を設立している。国内包装材メーカーと契約を結び、メーカーが包装材に印刷したグリーン・ポイントがあるものを回収し、リサイクリングし、再生品を販売する。電気・電子製品や自動車についても、メーカーが引き取り、解体・リサイクリングするのが原則である。それゆえ、メーカーは、環境規制に対応するとともに解体とリサイクリングを前提として製品設計にあたらなければならない。1992年に第一次草案が作成され、1998年4月発効の廃車規制令では、メーカーないし認定業者が廃車解体とリサイクリング義務を負う一方、所有者は回収業者に廃車を持ち込み廃車手続きをしなければならない。この手続きが完了しない限り自動車税支払いが継続する。この規定は外国車を含め国内で新車登録されるすべての車種に適用される。
[大西健夫]
国際収支と貿易
第二次石油危機の影響を受けた1979年から1981年を除き黒字基調であった経常収支は、1990年の黒字を最後に赤字を続け、1998年は74億マルクの赤字となっている。貿易収支は1260億マルクの黒字であるものの、サービス収支は617億マルクの赤字であり、このうち536億マルクが旅行収支赤字であるように、ドイツ人の旅行好きが反映している。民間では外国人労働者による祖国への送金や公的支払いなどの移転収支も532億マルクの赤字であるが、公的移転収支のうち238億マルクはEUへの拠出金である。所得収支も161億マルクの赤字となっている。資本収支の持ち出しは1102億マルクであるが、このなかで金融機関による対外貸し付けが456億マルクと最大であり、対外直接投資は153億マルク、証券投資は44億マルクとなっている。その後、2001年より経常収支は黒字に転じたが、資本収支の持ち出しは増え続けている。
貿易立国であるドイツの特徴は、19世紀以来鉄鋼と機械を産業基盤としてきた伝統を反映し、近隣ヨーロッパ諸国への資本財、中間財と耐久消費財の供給にある。商品貿易の相手国をみると、輸出の56.5%が対EU諸国であり、ユーロ圏に限っても43.2%となる。これに続くのがアメリカの9.4%、スイスの4.5%であり、日本は1.9%となっている。2004年にEUに加盟したポーランド、チェコ、エストニア、ハンガリー、スロベニアの1998年時点の総計は6.6%である。輸入では、やはりEU諸国が54.6%、ユーロ圏に限ると43.7%と最大であり、アメリカ、スイス、日本はそれぞれ8.2%、3.9%、5.0%である。前記2004年EU加盟国の総計(1998年)は6.4%となっている。輸出を商品別でみると、自動車をはじめとする輸送用機器の21.2%、機械の15.9%、化学製品の12.9%、鉄鋼・非鉄製品の5.2%が主力であり、輸入では先進工業国との産業内貿易構造を反映して、輸送用機器、繊維製品、化学製品、事務・OA機器が中心となっている。
[大西健夫]
金融・資本市場
銀行制度は伝統的にユニバーサル・バンキング・システムであり、銀行は銀行業務とともに証券業務を取り扱うことができる。大蔵省所轄で銀行を監督する銀行監督庁はベルリンにあるが、中央銀行であるドイツ連邦銀行が置かれているフランクフルトが金融センターとなっている。ヨーロッパ中央銀行もここに置かれている。企業金融は銀行を通じての間接金融が中心なので、株式市場の発達が後れ、金融市場の中心は債券取引である。証券取引所ベースでの時価総額は株式市場でアメリカの10分の1、日本やイギリスの2分の1であるのに対し、債券市場ではアメリカをさえ上回っている。
ドイツ連銀は、設立目的として「独立性と通貨の安定」を明記した1957年の連銀法により設置されており、この政策目標はヨーロッパ中央銀行に受け継がれている。日常業務を施行するのは役員会であり、最高決定機関はこれに州中央銀行総裁が加わった理事会となっている。理事会は隔週木曜日に開催され金融政策の決定を下す。連銀は中間政策目標としてマネーサプライ(通貨供給量)のM3(現金通貨、預金通貨、定期性預金、貯蓄性預金の合計)を用い、その伸び率目標値は以下のように算定されている。1998年の例でみると、実質潜在成長率約2%、物価上昇率1.5~2.0%、貨幣流通速度低下による通貨発行増1%を予測し、年平均M3伸び率を約5%としている。
ドイツの銀行制度の特徴の一つに株式寄託制度があり、顧客所有の株式の寄託を受け、企業の株主総会でその権利を代行できる。この結果、銀行は企業に対して融資、自己保有株、寄託株を通じてさまざまな影響を及ぼすことができるのであり、人的には企業の監査役会に代表を送り込んでいる。銀行による企業支配ともよばれるが、企業合併・買収にあたって迅速・有効な対応がとれるという利点も大きい。
[大西健夫]
財政・租税
連邦主義国家構造をとっているので、行政の主体は公共財政支出の40%強を占める州政府と3分の1弱の地方自治体であり、中央政府である連邦政府の財政規模は公共財政全体の3分の1程度である。財政支出の面で連邦政府予算でもっとも大きい項目は、3分の1を占める社会保障関係と5分の1弱にあたる国防・治安であり、これに続くのがそれぞれ約6%の連邦アウトバーン(高速道路)などの交通関係と教育・研究・文化である。
歳入面でも連邦主義構造が明白であり、基本法(ドイツ憲法)により各種租税収入の帰属ないし配分割合が定められている。連邦税は関税、取引税、奢侈(しゃし)品消費税などであるが、税収がもっとも大きい給与所得税、付加価値税(一般消費税)、法人税、営業税などは、州、ないしは州と地方自治体の間で配分する。
五賢人会資料によると、1998年における国民経済計算基準での公共財政全体での歳入は1兆7645億マルク、歳出は1兆8290億マルクであり、財政赤字645億マルクはGDPの1.7%である。対GDP比での租税負担率は23.1%、国民負担率は48.3%となる。
ヨーロッパ通貨統合加盟国は、マーストリヒト条約での財政基準を達成するため財政赤字縮小に努めてきたが、その基本理念は、放漫財政によるインフレーション阻止と、各国が国内産業と雇用保護のために行う財政出動の阻止であった。ユーロ導入後のドイツにおいても、財政手段に頼らない経済運営が求められており、経済構造改革を通じての国際競争力強化が必要となっている。
[大西健夫]
経営参加と労使団体
ドイツの商法では、株主総会が選出するのは監査役会であり、監査役会が業務執行の取締役会を任命する。経営責任をもち、最高決定機関である監査役会の半数ずつを経営側と労働側から選出するのが共同決定法をはじめとするドイツの経営参加方式である。案件が賛否同数の場合、経営側が選出することになっている監査役会会長にもう1票が与えられている。経営側監査役が株式所有などによって資本参加している企業や銀行の代表として選出されるのに対し、雇用者側監査役は企業内従業員の代表と所属する産業別労働組合組織の代表からなっている。また、企業内には従業員の利益を代弁する経営協議会が設置されており、雇用、解雇、労働条件などについての経営側提案はここでの承認を必要とする。共同決定法の適用を受けるのは株式会社と有限会社であることから、合資会社や合名会社の形態にとどまっている著名企業が多いのもドイツの特徴である。
労働条件や賃金などについては労働協約により決定される。労働協約の交渉は、州レベルで産業別の経営者団体と労働組合の間でなされ、その合意を最低基準としてさらに企業単位での交渉がなされる。
ドイツの労働組合は、1産業1組合、1企業1組合の原則にたっており、産業別組合である。企業の組合は、どの産業別組合に加盟するかを決定し、所属する組合組織を通じて経営側と労働協約を結ぶ。産業別組合の全国組織として最大なのが、16の産業別組合を統合するドイツ労働総同盟(DGB)であり、組合員数は約850万人である(1998)。しかし、旧西ドイツ時代の1990年における組合員数が960万人であったことからもみてとれるように、脱退者増と若年層の未加入という問題を抱えている。これに続くのがドイツ官吏連盟で組合員数約190万人。ほかにドイツ職員労働組合、キリスト教労働組合連盟などがある。
労働協約のもう一つの当事者である経営側は、その企業の組合が所属する産業別組合組織と交渉することになる。使用者側の団体組織としては、ケルンに本部を置くドイツ経営者団体連盟(BDA)とドイツ産業団体連盟(BDI)がある。主として、前者は社会・労務問題、後者は経済・通商問題に経営側の利益を代弁している。地域の使用者団体として各地商工会議所があり、地域での職業訓練の実施と職業資格認定を行っており、その統合組織であるドイツ商工会議所はボンに置かれている。
本来の意味での労使団体ではないが、ドイツ独特の職能団体として手工業がある。ナチ時代の1930年代に制定された手工業法が原型となりいまも続いているが、同法が認定する125職種が建築、金属加工、木工、繊維・衣服、食品、保健、ガラスの7分野に分けて列挙されている。ここには、日常生活に不可欠なパン、食肉、調髪、縫製、自動車修理、電気工事、大工、左官などが含まれており、各手工業団体が資格を認定し、手工業名簿に登録された者のみが業務を行うことができる。マイスター(親方)、熟練工(職人)、養成工(徒弟)からなる職能団体で、職業の自由を侵害しているとの訴訟もあったが連邦憲法裁判所は合憲の判断をくだしている。
[大西健夫]
労働市場
西ドイツ時代の1961年にベルリンの壁が構築されて以来、ドイツにおいては労働力不足が一気に顕在化した。東からの労働力供給がとだえ、賃金が高騰し、すでに1955年にイタリアとの間で結ばれていた外国人労働者受け入れ協定を、1961年のトルコをはじめとして1960年代に8か国と締結する。しかし、1973年の第一次石油危機以降失業率の上昇がみられ、2000年の現在に至るまで失業率の高止まりが続いている。
五賢人会の1999年11月「年次報告」によると、1998年の就業者3594万人、失業者371万人である。労働人口3965万人で、総居住人口8200万人に対する労働人口比率は48.3%である。これを15歳から65歳までの労働力人口への比率でみると71.7%となる。就業者における被傭者(ひようしゃ)は3194万人となっている。失業者の算定については、連邦統計局と失業保険を所轄する連邦雇用庁で方式が異なるので失業率等の数字が一致しないが、連邦雇用庁に求職登録している者を登録失業者とすると、その数は428万人である。失業者を男女別にみると、男性280万人、女性200万人となっている。1年以上の長期失業者数は145万人であるから、ドイツの高い失業率は構造的なものであることがみてとれる。
ドイツの労働市場に大きな影響を与えているのは、1980年代末に始まった東・中・南欧諸国での政治的、経済的混乱である。1989年以降100万人規模での人口流入があり、再統一時に8000万人弱であった居住人口は現在8200万人となっている。1998年における外国人居住者数732万人のうち就業者は203万人であるから、ドイツ人にとって労働市場圧迫要因となっている。
[大西健夫]
市場経済を支える社会保障
市場経済の機能を支えるには充実した「社会保障の網」が必要である。ドイツの社会保障制度の基本原理は、保険、養護、扶助としてきた。制度的にも財政的にも基幹となっているのは自助互助の原則に基づく社会保険であるが、これを補う形で児童手当などの養護、公的生活保護としての社会扶助がある。国民の社会保障はまた、こうした公的制度とともに教会などの民間団体の活動により補われている。ドイツは、社会保険制度を確立し、社会保障制度の根幹に据えた最初の国である。現在の社会保険制度の端緒は、宰相ビスマルクの時代に制定された1883年の疾病(健康)保険、1884年の災害(労災)保険、1889年の老齢・廃疾(年金)保険であり、失業保険はワイマール時代の1927年に導入された。さらに第五の保険として1995年に導入されたのが介護保険である。高齢者への保障は従来補完制原理に基づき、基本的には本人とその家族、そして地方自治体のものとされてきたが、1994年制定の介護保険法により疾病保険団体が管理する社会保険に移行した。
第二次世界大戦後の西ドイツにおいて、経済力の躍進とともに社会保障制度の多様化と内容の充実が進み、これを社会保障の網とよんだ。多様化した社会保障の網を、1976年に当時の社会民主党政府は国民の社会権にかかわるあらゆる法律を一冊の法典にまとめ、社会法典として刊行するに至る。ここには、社会保障にかかわる直接的給付のみならず租税軽減措置などの間接的給付をも収録している。社会法典に基づきあらゆる社会保障給付を収録したのが社会予算であるが、1996年時点での給付総額は1兆2361億マルクとなっている。このうち、給付においてもっとも大きいのはいうまでもなく以下の五つの社会保険であり、給付総額に占める各社会保険の比率は、年金保険が30.4%、疾病保険が20.0%、失業保険および手当などが11.2%、介護保険が1.7%、労災保険が1.6%となっている。
[大西健夫]
EUにおけるドイツ
ドイツ経済が1998年時点で、EU加盟15か国の総計に占める割合は、上記五賢人会資料によると、人口で21.9%であるのに対し、GDP規模では25.5%に達しており、1人当りのGDPもEU平均(1998)の2万1347ドルに対し2万6325ドルと高い所得水準を示している。民間最終消費支出と総固定資本形成は25.1%と27.2%である。輸出入金額の割合は、輸出が23.2%、輸入が23.1%となっている。
1991年1月に、ドイツを含むEU加盟国中11か国の参加(2001年から12か国)により導入された通貨ユーロの流通以前は、強い通貨ドイツ・マルクの地位はユーロ市場でも他のヨーロッパ通貨を圧倒していた。ユーロ・カレンシー市場(ヨーロッパにおける外国通貨取引市場)での取扱額の比率でみると、いうまでもなくアメリカ・ドルが47.4%と圧倒的であったが、ヨーロッパ通貨のなかではイギリス・ポンドの4.5%に対しマルクは12.6%であった。同じくユーロ・ポンド市場(同、外国債券市場)でも、ドルが45.2%と圧倒的であるものの、マルクは10.3%、ポンドは7.9%であった。
当時のEU予算においてもドイツの拠出金比率は29.2%であり、これに続くフランスの17.5%、イタリアの12.7%、イギリスの11.5%に大きく水をあけており、ドイツがEUを財政面でも支えていた。
なお、1998年ヨーロッパ中央銀行がフランクフルトにおいて設立され、2002年1月よりEU統一通貨ユーロ(ドイツ語では「オイロ」と発音)の紙幣・硬貨の流通が始まっている。
[大西健夫]
社会
ドイツは、ドイツ語ではドイッチュラントDeutschlandというが、直訳するとドイッチュ国となる。ドイッチュDeutschは古高ドイツ語のディウティスクdiutisc/diutisk(diotは民衆)や西フランケン語のテオディスクtheodisc/theodisk(theodaはゲルマン語で民衆、isc/iskはラテン語の接尾語-iscus風/的)から派生した形容詞(ラテン語でテオディスクスtheodiscus)で、ラテン語を話す人々に対して「民衆語/土地のことばを話す人々」という意味で使われた。11世紀末に付加語でディウッチュ ラントdiutsche lant(民衆語を話す住民の領国、ラントlantは古高ドイツ語でラントLandの意味)ということばが現れ、さらにアイン ドイッチェス ラントein deutsches Land(単数)やディ ドイッチェン レンダーdie deutschen Länder(複数)が使われた。固有名詞としてのDeutschlandが文書にみられるようになったのは17世紀に入ってからである。その後もドイツは国家統一が遅れ、ドイツという名称の国家誕生は1871年まで待たなければならなかった。
[福沢啓臣]
ドイツ民族とその言語
ドイツ人と聞くとゲルマン民族を想定しやすいが、歴史上ゲルマン民族という単一民族も人種も存在したことはない。まずゲルマン民族とよばれる人々の唯一の共通項はさまざまなインド・ゲルマン語派に属する言語を話すことであり、これらの部族は現在のドイツ、スカンジナビア、イギリスまで広範囲に分布していた。ゲルマンという名称だが、古代ケルト語で「ケルト人ではない」という意味の他称である。また、ゲルマン民族の大移動とよばれる歴史上有名な現象は、ゲルマン語派の言語を話すさまざまな集団・部族が4世紀から5世紀にかけて他民族の圧迫や食料事情などから南あるいは西の地域(おもに旧ローマ帝国領およびその国境)にそれぞれ移住した現象をいう。現代において彼らを祖先とする人々はドイツ、オーストリア、スイス、ルクセンブルク、オランダ、スウェーデン、ノルウェー、デンマークなどの国々を構成し、さらにイギリスのアングロ・サクソン人、フランスのアルザス人、イタリアの南チロル人と多岐にわたっている。
ドイツ語は大きく分けて、北部の低地ドイツ語、中部ドイツ語、南部の上部ドイツ語のグループに大別される。16世紀初頭、宗教改革者のマルティン・ルターが聖書を中部ドイツ語系のザクセン語をもってドイツ語に翻訳した経緯により、中部ドイツ語が標準文章語の基礎となった。現在ハノーバー市およびチューリンゲン地方で話されているドイツ語がもっとも標準ドイツ語に近いとされている。
ドイツ語はインド・ゲルマン語派の言語のなかの西ゲルマン語群に属し、現在はドイツ、オーストリア、スイス、リヒテンシュタイン、ルクセンブルク、東ベルギー、南チロルで話されている。EU(ヨーロッパ連合)内でドイツ語を母語とする話者人口は1億3000万人でもっとも多い。世界におけるインターネットの使用人口の約7%がドイツ語を使い、5番目に多い言語である。ウェブページ数においては全サイトのうち約8%がドイツ語で、英語に次いで多い。
[福沢啓臣]
ドイツ社会の多様性
ドイツ社会の多様性は地理的、歴史的な要因による。中部ヨーロッパという地理的条件のなかで、フランス、オランダなどの西ヨーロッパ、スイス、オーストリア、イタリアなどの南ヨーロッパ、スラブ系の東ヨーロッパ、バルト海を挟んでスカンジナビア諸国(北ヨーロッパ)に囲まれ影響を受けた。もう一つの歴史的な要因は、国民国家としての統一が1871年と遅かったことである。多くの独立主権国家群が自国の軍事的・経済的・文化的発展を追求した結果、18世紀には300あまり、19世紀前半でも39の国家に分かれていた。そのなかでプロイセンが絶大な軍事的・政治的な力を利用して、1871年に国家統一を達成したが、ベルリンを中心とする中央集権的な体制に対する反発もあり、自らの地域の特色を尊重していく傾向が強く残った。現在16の州が連邦国家を形成しているが、政治・経済・文化の予算および政策決定が州の管轄下にあり、連邦政府の関与できない仕組みも各地域の豊かな多様性に寄与している。文化面では多くの都市が地域文化振興の中心拠点としてアンサンブル(常勤座員)付きのオペラハウスや市営劇場をほかの都市や地方と競い合う形で運営している。さらにスポーツもサッカーをはじめとして地域のスポーツクラブが組織し、試合は都市対抗という形で行われるので、各地の特色づくりと郷土愛の涵養(かんよう)に大きく貢献している。
各地の特色だが、ベルリンを中心とする東の地域ではプロイセンの首都であったこともあり、歴史的にユンカー(地主貴族)を基盤とする伝統が続き、権威的、官僚的で、形式ばっているといわれている。それに対するライン川沿いのケルンを中心とする地方は、古くはローマ帝国の都市であったことから生活態度は享楽的ともいえる。代表的な例が2月から3月にかけて数週間も続くカーニバル(謝肉祭)のお祭り騒ぎである。南のミュンヘンを中心とするバイエルン地方は風光明媚(めいび)な山と湖を抱え、もっとも郷土色豊かな地域といえる。外国ではしばしばバイエルン地方の習慣・風俗・服装がドイツの代表的な特色として受け取られているが、ドイツ全体からみれば一地域の風俗にすぎない。長い間農業中心であったが、2010年までの20年ほどでハイテク産業が育ち、経済的にも非常に豊かな州に脱皮した。隣のバーデン・ウュルテンベルク州は昔から機械工業の発展が著しく、自動車産業などの一大集積地として名高い。同地方の住民の倹約ぶりは有名で、それにまつわる笑い話がたくさんある。2010年時点ではこの2州(バイエルン州、バーデン・ウュルテンベルク州)が経済的に豊かである。ヘッセン州の州都であるフランクフルト・アム・マインは金融の町として栄えてきた。ノルトライン・ウェストファーレン州は19世紀の重工業の中心地であったルール工業地帯を抱え、20世紀の後半までドイツ産業を支えてきたが、ここ20~30年(1980年代以降)は炭坑および重工業の斜陽化という産業構造の変化により経済的に後退し失業率も高い。19世紀来炭坑労働者、工場労働者が多い土地柄として、物作りに対する誇りと仲間意識が住民の気質を形成している。ルール地方のカーニバルも有名である。北のハンブルクを中心とする北ドイツ人はどちらかというと理性的でとっつきにくいといわれている。旧東ドイツのなかでザクセン自由州はドレスデン、ライプツィヒの古都を抱え、古くから文化・学問が栄えた地方である。
[福沢啓臣]
ドイツ人の国民性と生活
ある国の住民を国民性という形で一般化することは簡単ではないが、強い自己主張、家庭中心、清潔好き、質素さ、合理性などがドイツ人の国民性としてあげられるだろう。主張、意見がない人は存在を無視されるといえるほど、ドイツ人はどんなテーマに関しても一家言をもっている。無駄なものは買わないという精神も徹底している。衣食住のなかでもっともお金をかけるのは住居である。衣服はできるだけ長い期間(四季の変化にかかわらず)身につけられるように、地味で長もちする物が多い。食事はとても質素で、朝食はもちろんだが夕食も料理しないでカルテス・エッセン(冷たい料理)とよばれるパン食で済ませる場合が多い。自宅の定期的な掃除や手入れ、ベランダや出窓などの花、庭の手入れなど、ドイツ人のきれい好きは際だっている。
時間にも几帳面(きちょうめん)なのも国民性といえる。サービス残業などは論外で、就業時間が終了すればただちに職場を去る。まっすぐ帰宅し、家族といっしょに過ごすか、趣味に時間をかける。ホームパーティーが盛んで、誕生日などには、親類、友人、同僚などを自宅によんでいっしょに祝う。夏にはバーベキューが盛んだ。19世紀末から広まった家庭菜園は相変わらず人気があり、1区画200平方メートルほどの菜園を集めたコロニー(数十から数百の菜園を収めた土地)が中都市以上の市内に点在している。市の所有地が多く、賃貸料は年間5万円ぐらいである。面積の10%までの規模なら小屋を建ててもいい。ただし住むことは禁止されている。
法的に定められている年次有給休暇日数は年に最低20日間だが、実際は労使協定により30日が多い。法定最低休暇日数の消化は義務づけられている。夏になると交代で数週間の休暇をとる。学校は、アウトバーン(自動車高速道路)や列車などの交通機関および休暇先の宿の混雑を避ける目的で、いくつかの州がまとまって1週間ずつずらして夏休みに入る。ドイツの緯度は北緯47度16分から55度3分(日本は北緯20度25分から45度33分)と高く北海道の北に相当する。そのため日光に対する欲求は強く、夏の休暇には太陽を求めて地中海まで出かける国民が多い。バルト海や北海の海水浴場には裸体主義者用に区切られた砂浜が古くからある。また市内の公園や湖畔の芝生で日光浴をしている水着姿の男女がよく見られる。
ドイツ人にとって自動車はきわめてだいじな生活必需品といえる。路上駐車が許されているので、購買時に駐車スペースを確保する必要はない。ドイツ製の自動車は信頼性が高く、また高速走行時のパフォーマンスのよさで世界的に評価が高い。アウトバーンの走行は昔から無料で、原則的に速度制限がない。ただし時速130キロメートルが推奨されている。一般道路では市外が時速100キロメートル、市内が時速50キロメートル、さらに住宅地域内で交通量の多い道路では夜間10時から朝の6時まで30キロメートルときめ細かく規制されている。全自動車のなかでディーゼル・エンジン(燃費のため)とマニュアル車(価格と燃費のため)が半分以上を占めているのもドイツ人の合理性を表している。なお、ドイツの自動車免許証は書き換えが不要で終身有効である。ドイツ人の自己主張の強さは運転にも見られる。たとえば、信号や交通標識のない交差点では左ハンドルのために右側優先だが、優先権のある車が優先権のない車に対して譲ることはまずありえない。ここ数年地球温暖化のために車社会を見直す動きは、大都市における自転車レーンの著しい伸びに示されている。また電車や地下鉄内に自転車をそのまま持ち込めるので、遠出の際に便利である。
日曜日に教会へ礼拝に行く習慣を守っているドイツ人は年年減ってきており、生活に占める教会の影響は小さくなっている。だが、キリスト教の伝統から出発したさまざまな行事・習慣は今日も生活のリズムを律している。最大の行事がクリスマスで、12月24日のミサには日ごろ教会に足を向けないドイツ人も家族で参加する。日曜日は安息日であり、労働は例外(農民の収穫時など)を除いて認められていない。アウトバーンも日曜日は家族のためにという理由で貨物トラックは走行が禁止されている。売店、スーパー、百貨店もあいていないので買い物もできない。なお、スーパーなどは平日には夕方6時で閉店していたが、グローバル化の一環として2006年以来夜10時まであけるようになった。
博士、教授、貴族などの称号は公の場ではもちろんのこと、日常生活でも頻繁に用いられているが、これはドイツの階級社会あるいは権威主義的社会の残存物といえる。ドイツ人は一般に保守的とみられがちだが、さまざまな面で積極的に改革を行っている。たとえば2001年以来、同性同士による伴侶契約(結婚に準ずる)が可能になり、緊急の場合や社会保障、遺産相続などの面で同性パートナーにほぼ夫婦同様の権利が認められている。
[福沢啓臣]
人口構成と多文化社会
2009年のドイツの人口は8200万人で、旧西ドイツ(古連邦州)には6550万人(80%)、旧東ドイツ(新連邦州)には1310万人(16%)、首都ベルリンに340万人が住んでいる。東西統一時の1990年にはそれぞれ6372万人と1602万人、343万人だったから、旧東ドイツでは292万人減少したことになる。国民の31%が人口10万人以上の都市に住んでいて、ベルリンの340万人、ハンブルクの177万人、ミュンヘンの135万人と百万人都市が続く。ケルンは99万人、フランクフルト、シュトゥットガルトはそれぞれ60万人の人口である。州別にはノルトライン・ウェストファーレン州が最大で1800万人、次にバイエルン州が1250万人、バーデン・ウュルテンベルク州が1070万人。これら3州に国民の半数が住んでいる。もっとも人口の少ない州はブレーメン市特別州で66万人である。
年齢別人口構成であるが、20歳以下が20%、就労人口にあたる21歳から65歳までが60%、66歳以上が20%である。性別人口構成は男性が49%、女性が51%である。50歳までは男性のほうが多く、50歳から60歳の間は均衡しているが、60歳を過ぎると女性のほうが多くなる。80歳以上は72%が女性で、平均寿命の延びはもちろんだが、戦争(第二次世界大戦)の影響がまだみられる。
ドイツに在住する外国人は2008年現在で734万人で、全人口の8.9%を占めている。1960年代のガストアルバイター(外国人労働者)の世代と彼らの呼び寄せ家族(2世と3世を含む)のグループ、さらに1990年代の難民および亡命者によるグループと三つに分けられる。もっとも多いのがトルコ人の187万人で、外国人全体の25%を占めている。次にイタリア人の60万人、旧ユーゴスラビア人の57万人、ギリシア人の35万人と続く。多くは都市に集中し、ベルリン、ハンブルク、フランクフルトなどでは人口の15%近くを占めている。彼らは一つの地域に集中する傾向があるので、外国人子弟がクラスの過半数を占める学校も少なくない。ドイツ語が授業言語なので、生徒と教師にとって深刻な問題になっている。とくにトルコ人の場合はイスラム教徒が多いので、キリスト教文化の伝統を持つドイツ社会への溶け込みが困難である。さらに1世は伝統的な価値観を保つが、2世以降になるとドイツ社会の価値観の受容が進むので世代間の葛藤(かっとう)につながるケースが多い。ちなみに、外国人総数734万人のうち4分の3が国外からの移住で、4分の1がドイツ生まれである。
なお、1950年から1990年までに110万人、さらに2006年までに330万人、あわせて440万人が帰化している。現在470万人が帰化条件(有効ビザに加えて定職および8年以上の定住)を満たしているが、2006年に帰化を申請したのは12万5000人にすぎない。外国人の平均滞在期間は17.7年、1992年時の12年より延びている。外国系市民との共生に関連して、政党間や世代間で、ドイツ的な価値観をあくまでも保持すべきなのか、あるいは多文化社会に発展していくべきなのかが、21世紀に入り激しく議論されている。前者の立場はキリスト教民主同盟などの政党や高年齢層が主張し、後者は社会民主党や緑の党、若い世代が主張している。保守党(保守政党)政権下の州では、ドイツの伝統的な文化と価値観の喪失を防ぐと称して、数年前から帰化申請者に対してドイツ語およびドイツ文化に関する試験を実施している。
さらに、多文化社会は低い出生率による人口減少傾向への対策として議論されている。出生率はさまざまな政策によって1.39と少しは持ち直しているが、長い目でみると人口減少は避けられない。2050年のドイツの人口は6500万人から7000万人と予測されている。経済成長を困難にし、さらに年金の財源確保などにも悪影響を与える人口減少への対策として、多文化社会への脱皮によって外国系市民の増加に期待する考えである。
[福沢啓臣]
就業構造
ドイツの産業別就業人口をみると、1950年の第一次産業、第二次産業、第三次産業に占める比率はそれぞれ24.6%、42.9%、32.5%であった。以後1980年には5.1%、41.1%、53.8%、1996年には2.6%、31.7%、65.7%、2006年には2.2%、25.5%、72.3%と変化している。2009年7月現在でドイツの全就業者は4020万人だが、そのうち社会保険負担就労者の数は2744万人(国民の33%)である。残りの1276万人は被扶養家族の一員か、国が肩代りしている勤労者(求職者および低賃金労働者)である。2009年7月の失業者の数はドイツ全体で345万人、失業率は8.2%(EU平均9.4%)である。その内訳は旧西ドイツ236万人、旧東ドイツ109万人で、失業率はそれぞれ7%と13%である。失業者数は、短期間および長期間の失業者を網羅している。前者に対しては失業手当金(最終手取りの65%、子供がいる場合は67%)が給付される。さらに失業手当給付期間中に再就職できなかった場合に引き続き求職活動ができるように失業扶助金が無期限に支給される。
失業手当金の支給期間は12か月就労で6か月、20か月就労で8か月、24か月以上就労で50歳以上なら15か月、55歳以上なら18か月、48か月以上就労で58歳以上なら24か月となっており、高齢者の再就職の困難さを考慮している。失業者の数が最大に達したのは1998年から2002年にかけての4年間で一時は500万人を超えた。そのうち3分の2が長期失業者だったため、当時のシュレーダー社民党政権が抜本的な社会保障制度改革「アジェンダ2010」を導入し、長期失業者(改革提案者の名前にちなんでハルツⅣ受給者とよばれる)への扶助金支給額をそれまでの最終手取り額の50%から生活保護レベル(住宅手当360ユーロと生活費360ユーロ合わせて720ユーロ、子供がいる場合は年齢により215ユーロから287ユーロまで支給。さらに健康保険および年金保険も国庫負担)まで下げた。このハルツⅣ労働市場政策はさらに職業再訓練の積極化、独立資金の提供などに加えて低賃金勤労者には最低生活水準維持に必要な差額を支給するなど幅広い内容を含み、セーフティーネットの役割を果たしている。受給者は600万人を前後している。改革が功を奏し、失業者は2008年には300万人まで減少したが、金融危機の結果2009年6月時点で345万人に増えている。
[福沢啓臣]
職業団体・労使関係
ドイツの経済団体には、企業家を会員とするドイツ産業団体連盟(BDI)と経営者・雇用主を中心とするドイツ経営者団体連盟(BDA)がある。両組織とも第二次世界大戦後ケルンに本部があったが、ベルリンへの首都移転に伴い、ベルリンの中心に位置する「経済館」にドイツ商工会議所とともに入っている。BDIは36の職能別組織と15の州連盟を傘下に収め、10万の企業とその従業員数800万人を網羅している。ドイツ経済界を代表する機関としてドイツ経済の国際競争力を高める環境・政策づくりのために国内およびEU内で積極的に活動している。連邦政府および州政府の政策決定においてBDIの同意は欠かせない。BDAは14の州連盟と100万の企業を傘下に収め、全勤労者の70%強を網羅している。BDAの重要な役割は州単位で結ばれる賃金協定など労使間協定における交渉、締結の際に組合の相手方となることである。そして、労働および社会問題に関して労働組合を意識した発言をし、加盟企業に必要な情報を提供している。両組織とも加盟は自由意思による。
企業にとって地元の身近な団体として79の地方商工会議所(IHK)がある。個々の企業の相談から始まり、職業訓練先の斡旋(あっせん)および終了証明書の発行、さらに商工業界の利益を守るための発言と活動をしている。なお、IHKへの加盟は全企業に義務づけられている。これらを代表してドイツ商工会議所会(DIHK)がベルリンにある。銀行業界には約230の私立銀行をまとめたドイツ銀行全国連盟(BDB)がある。ドイツ農民連盟は18の地域別連盟と42の関連組織を抱え、組織率80%、会員数37万人を誇る。そして、農民の利益を守るためにドイツ国内だけでなく、EU内においてもロビイストおよび広報活動を行っている。そのほかに41万人の医者を擁する連邦医師会議所は社会的発言力が大きい。公立、私立を問わず病院に勤務している医者はマールブルク連盟という独自の組織(10万人の会員)に属し、数か月のストを打ち抜くなど結束が固い。
労働側のナショナルセンターとして8の産業別組合、9の地域別組織の連合体であるドイツ労働総同盟(DGB)があるが、組合員数が1997年末の736万人から2008年末には640万人に減少している。最大の産業別組合は金属産業労働組合(IG Metall)で、組合員数は2006年末で233万人である。2001年にDGB内のサービス関係の産業別組合とサラリーマンの組合であったドイツ職員組合とが合併して220万人(2008年末)の会員数を誇る2番目に大きな組合、ドイツ統一サービス産業労組(Ver.di)が誕生した。ドイツ官吏同盟(DBB)は、組合員数が1997年の112万人から2005年末の127万人と微増している。ドイツ・キリスト教労働組合連盟(CGB、28万人)もある。ここ10年間の傾向として組合の組織率は全体的に下がっている。
労働協約は産業別組合とBDAの間で州ごとに結ばれる。スト権は州単位で確立され、ストライキは産業別組合の州連盟の指示に従って行われる。労使関係は共同決定制度の下で比較的安定しており、ストライキも少ない。ただ、一度ストライキに入ると、スト基金が豊かな背景もあり長期化する傾向が強い。組合がかちとった成果は非組合員にも適用される。個個の企業における労使間の問題は産業別組合の活動の対象にはならず、従業員を代表する事業所従業員代表ないしは同委員会(9人以上の代表の場合は委員会を組織し、委員長を選ぶ)が経営者と話し合い、解決する。この事業所従業員代表は共同決定法が定める制度で、ドイツの労使関係の大きな特徴といえる。共同決定制度には二つのレベルがある。まず、従業員が5人以上の企業には事業所従業員代表の任命(企業の規模によって複数の代表が4年ごとに従業員によって選ばれる。20人の従業員に対して代表1人の割合)が義務づけられている。事業所従業員代表は人事(採用、転勤、解雇を含む)、労働条件(ラインの変更や新設を含む)などに関して労働側の利益を守りながら経営者と協議し共同で決定を下す。日本の企業内組合に似た組織といえる。ただし争議権はない。さらに大企業のレベルでは労働側の代表が監査役会に入り、企業の経営および役員の業務を監査する。企業の規模が従業員2000人以上の場合は監査役会の構成員の半数を、500人から2000人の場合は3分の1を労働側の代表が占める。この共同決定制度は経営者の足かせになりかねない一面もあるが、労使間の安定に貢献していると評価されている。
[福沢啓臣]
生活水準と社会保障
IMF(国際通貨基金)の統計によれば、2008年の国内総生産(GDP)は3兆6675億ドル(推定値)で、日本の4兆9237億ドルの74%にあたる。2008年の1人当りGDPは4万4660ドル(日本3万8559ドル)である。購買力平価で換算した場合は3万5442ドル(日本3万4100ドル)である。社会保障制度は充実しているが、それに見合い国民の社会保険料負担率も非常に高い。にもかかわらず社会保険の財源は十分ではなく、国庫からの補填(ほてん)を必要としている。国庫の財源である税金だが、年間所得7834ユーロ以下の場合は無税である。課税率をみると1万2000ユーロで6.2%、2万4000ユーロで16.2%、4万8000ユーロで25.3%、9万6000ユーロで33.6%、25万ユーロ以上は一律45%と累進されている。さらに所得税あるいは法人税の5.5%がドイツ再統一費用をまかなうための連帯税として徴収される。消費税は現在19%と高いが、さらなる引き上げも検討されている。
社会保険料だが、まず年金保険料は給与の19.9%で雇用主と折半である。健康保険には公立保険と私立保険があり、公立保険加入者の保険料は14.9%で同様に雇用主と折半である。公立保険には5000万人が加入しており、家族も含めると7005万人が適用を受けている。私立保険(保険料金は加齢とともにあがる)の加盟者は860万人(約10.5%)。現金払いに近いので、待ち時間が少なく、よりていねいに医者に診てもらえるという利点がある。失業保険料は3%(雇用主との折半)である。これらの社会保険料をあわせると被雇用者の負担は給与の約20%になる。年間所得が4万8000ユーロ(2010年2月換算レートで580万円)の場合、手取りは2万5440ユーロ(税込み給与の約53%)になる。医療費は基本的に3か月ごとに支払う受診料の10ユーロと薬品の部分負担(5ユーロから10ユーロ)がある。入院の場合はさらに1日10ユーロを支払う。特別な治療は自己負担になることもある。ホームドクター制度になっており、まず近くの一般医院で簡単な診察を受けて、必要に応じて専門医あるいは病院に紹介される。歯科医にも3か月ごとに受診料として10ユーロ支払う。治療は無料だが、入れ歯などは自己負担になる。
年金は40年納付で最終手取り額の65%が男女とも65歳から支給される。将来の人口減少による年金基金の減少を見越して20年後に67歳から支給するように、2012年から毎年1か月ずつ支給年齢を延ばす決定がなされている。
[福沢啓臣]
教育
ドイツの教育制度は、日本のように六・三・三・四制の単線式とは異なる複線式のうえに、州独特の制度もあり複雑である。枠組みから紹介すると、小学校にあたる基礎学校に全児童が4年間(6年間の州もある)通った後、学力に加えて学習態度、集中力も含めた総合的な成績により3本の進路に振り分けられる。第一の進路は、肉体労働が中心の職業につく可能性の高い若者を教育するための基幹学校(5年間)で、日本の中学校に相当する。第二の進路は、頭脳労働を主とする職業につく可能性の高い若者を教育するための実科学校(6年間)で、日本の中学校プラス高等学校1学年に相当する。第三の進路は、大学へ進学する若者を教育するギムナジウム(8年から9年間の一貫教育)で、日本の進学校に相当する。卒業すると大学入学資格(アビトゥーア)が与えられる。進路決定には、基礎学校の内申書が決め手になり、入学試験に類するものはない。義務教育は9年間だが、10年間の州もある。後に述べる職業教育をほとんどの一般学校卒業生(少数のギムナジウム卒業生も)が受けるので、準義務教育ともいえる。そのため、12年間とみなすこともできる。
基幹学校では義務教育としての学習内容を学び、卒業後は3年間の職業教育を受ける。彼らの受ける職業教育には、おもにブルーカラー、たとえば女子は美容師や売り子、男子は大工、左官、自動車修理工に代表される職種が多い。実科学校では、義務教育よりレベルの高い学習内容を学び、卒業後にホワイトカラー、たとえば会社員、銀行員、一般公務員などの職業につくための職業教育を受ける。成績がよければ、さらにギムナジウムへの進学も可能である。3本目の進路であるギムナジウムは通常9年間学習し、卒業後は大学に進学する(職業教育を優先させる生徒もいる)。2000年ごろから8年間の短縮学習期間(急行アビトゥーアとよばれている)を導入する州およびギムナジウムが増えている。
ドイツの学校教育のもっとも大きな特徴は、10歳という非常に早い時期における進路決定である。これに対して、10歳までの学力は親の社会階層と教育レベル、つまり親の学歴と密接な関連があり、学校教育への出身階層による影響からの解放という近代学校の理念に反すると内外の進歩的な教育関係者から批判されている。この問題はすでに1970年代から保守党と進歩的な政党の間で争われ、社会民主党政権の州では3本の進路に分けない統合学校の導入が進められたが全国的な広がりはみせておらず(全生徒の約10%)、2010年時点でも複線式が一般的である。早期進路決定制度は、成績の差の大きいクラスの授業が成績のよい生徒にも悪い生徒にもよい教育効果をもたらさないからだと理由づけられている。前者の場合は勉強をしなくてもよい成績がとれるので怠け者が育ち、後者の場合は成績の差が開くにつれ勉学意欲をなくしてしまう。そのため、生徒の学力に見合った学校の選択がだいじであるといわれている。ちなみにタイプの異なる学校間の移動は可能だが、基幹学校からギムナジウムへの移動は非常に少ない。逆は多い。二度落第すると下のレベルの学校に転校させられるからである。落第は基礎学校の段階からあり、日常茶飯事といえる。成績のよい児童が上のクラス(学年)に行ける飛び級も少なくない。落第予防も含めてきめ細かい学習指導には、現在の1クラス20名から25名の生徒数を15名に減らすことを教員組合などは求めている。さらに生徒への指導を強める目的でこれまでの半日制(午後1時、2時で下校)を全日制に改める改革が進められている。
ドイツは連邦制なので、教育についても州がそれぞれ独自に改革を進めている。ベルリンやブランデンブルク州などでは、基幹学校は落ちこぼれの通う学校とみなされ、生徒数が激減している(15%以下)ので、その廃止が2009年に決まった。だが、バイエルン州などでは正常に機能している(30%以上)として、3本線制度を維持している。ギムナジウムは全国を通じて評価が高いため、この数十年間生徒数が増え続けている(40%以上)。教育方針としては暗記力に頼る正解主義ではなく、思考力の強化に重点を置き、レポート、つまりあるテーマについて書かせる試験が多い。さらにドイツでは受験勉強がないのも大きな特徴といえる。ギムナジウム卒業時に取得するアビトゥーア(大学入学資格)のみで原則的にすべての大学、かつ学科に入学できるからである。ただ、医学部など志願者が殺到する学科ではアビトゥーアの成績順に選ばれる。なお、大学入学資格は一生有効なので、何歳になろうと入学可能である。
もう一つの特徴は、学校教育を学習はもちろんだが、職業への準備段階ととらえる面が強いことである。そのため、8、9年生(14、15歳)からインターンシップが学習要項に取り入れられている。さらに一般学校卒業後にデュアルシステムとよばれる職業訓練制度の下で企業でのインターンシップ(週に3日間)と職業学校への通学(週2日間)という3年間の職業教育期間が設けられている。習得職種は実社会における職種がほとんど網羅されている(約400種)。受け入れ企業は訓練期間中、訓練生に月400ユーロから800ユーロ(職種および訓練年度によって異なる)の見習い手当を支給し、社会保険料も負担している。商工会議所が企業における訓練ポスト(毎年約60万人)を学校卒業者(6月に卒業し、9月あるいは10月から訓練開始)に斡旋(あっせん)し、修了後は職業教育修了書を発行する。修了者は訓練を受けた職種に沿って就職先を探す。
大学は2008年時点で、学生数193万人、391校をかぞえるが、そのうち90%以上が州立大学で残りは私立大学である。私立大学と分類されていても学生からの授業料収入をおもな財源とする日本型私立大学と異なり、公立大学に近い(連邦政府による防衛大学なども私立に含まれる)。州立大学は2007年から七つの州(保守党政権)で年間1000ユーロ程度の授業料を徴収し始めたが、残りの州は徴収していない。大学には総合大学(176校)と専門大学(215校)があり、前者はより理論に、後者は応用に重点をおいた教育を行っている。ドイツの大学は2004年ごろまで修士卒業(学士卒業はなし)が一般的で、4年から5年間のカリキュラムが組まれていた。ところが、EU内における高等教育制度の統一化を目的としたボローニャ・プロセスが1999年に決定され、2010年までに実施されることになった。そのため、2005年ごろ(州や大学や学科によって取り組み方が異なるため一斉にスタートとはならない)3年間の学士課程(BA)が導入され始めた。6学期間(3年間)の勉学後学士号を取得し卒業する。その後で、マスター(旧修士に準ずる)課程(MA)に入り、4学期(2年間)で卒業する。ただし、大学あるいは学科によってはBA課程4年、MA課程1年、あわせて5年間のところもある。医学部と法学部は国家試験の合格をもって卒業とみなされるので、別のカリキュラムが組まれている。
ドイツの大学は、入学は容易だが卒業は難しい。その結果卒業率が70%弱と低い。そのうえ旧修士課程における卒業年齢は男子学生の徴兵期間も影響し、28歳と非常に高い。さらに大学間移動が自由なこと、人文科学や社会科学系での複数学科専攻(主専攻と副専攻)が特徴にあげられる。複数学科専攻のため、BA課程終了後、MA課程において専攻学科の変更も比較的自由である。卒業論文提出および卒業試験が終了した段階でそれぞれ卒業していくので、全員で祝う卒業式はない。入学式もない。就職活動は卒業後大学のサポートなしで、個人が行う。学内組織は、「1968年世代」(全共闘世代に相当)による政治闘争の後、民主化が進み、学部評議会(日本の教授会に相当)をはじめほとんどの学内組織に学生代表が参加し、票を投じている。教授の招聘(しょうへい)、学長選挙などの人事に関しても同様である。なお、大学も含めて学校教育は州文科省の管轄下にあるが、州の間での合意および連絡事項の交換の場として、州文科大臣会議(KMK)がある。連邦文科省は学術研究および育英資金、全国横断的な問題への対応、さらに教育制度に関する外国機関との連絡事項、協定の締結などを管轄業務としている。
[福沢啓臣]
女性・青少年
女性に関して戦後の歴史を振り返ってみると、1950年代まではさまざまな形で差別されていた。1957年までは夫が一方的に妻を退職させることが可能であったし、バイエルン州では1950年代まで、女性教師は結婚すると退職を余儀なくされていた。それが1957年の基本法(ドイツ連邦共和国基本法)および夫婦財産法において男女同権がまず法的に整備された。その後「1968年世代」の学生闘争をきっかけに生まれた女性解放運動と1970年代の社会民主党政権による進歩的な政治とが相まって女性の意識を高め、多くの分野で男女同権が実現した。とりわけ進んだのは教育の分野で、高等教育に占める女性の割合は大きく伸びている。アビトゥーア(大学入学資格)試験の合格者の男女比率では女性が56.3%と男性を圧倒し、大学では学生数の49%を占めるようになっている。大学卒業率も52.2%、さらに博士課程においても43%と高い比率を示している。だが、大学教員の比率になると31.4%と下がり、教授にいたっては15.2%と低い。
労働の世界においても、女性の平均賃金は男性に比べて24%も低い。女性の従事する職種にはもともと低賃金が多いからである。さらに派遣労働に占める女性の割合は85%と非常に高い。女性の就業率は64%(男性76%)である。ドイツでは出産休暇を14週間(出産前6週間、後8週間)、さらに育児休暇を3年間とることができる。育児休暇は男親にも認められているが、女親が圧倒的に多い。育児休暇後の職場復帰は法的に保証されているが、女性の出世のチャンスは男性に比べて低い。ドイツではこれまで全日制学校が少なく、子供が昼過ぎには帰宅するので、家計に余裕があれば子育てと家事のために出世をあきらめる女性が少なくない。女性の社会進出と出世の可能性であるが、上場企業における女性役員の割合は13%で、イギリス12%、フランス9%、EU平均の11%より多い。だが、憲法や男女平等法が要求するレベルにはまだほど遠いといえる。
選挙権も含めて法律による成人年齢は18歳である。ただ、半分以上の青少年が大学で学ぶか、職業教育を受けているので、実際の社会人になるのは20歳を過ぎてからである。青少年のライフサイクルは階層によって大きな違いがある。中流層の場合、11歳からギムナジウム(8年から9年間の中高一貫校)あるいは実科学校に通い、受験勉強もないうえに、大学に進学すれば28歳ぐらいで卒業するので、非常に豊かな青春期を過ごすことができる。残り(約3分の1)の青少年は基幹学校卒業後16歳から18歳までの間に職業教育を受けて、修了後職業につくので早い時期に人生の厳しさを経験するといえる。さらに男子の場合は18歳になると10か月の徴兵がある。徴兵を拒否すると代替役務という形で同じ期間奉仕活動を行う義務がある。女子(男子も可)にも社会奉仕ができるように社会年という制度が設けられている。申請後、社会年が青少年局に認められると、社会保障費の肩代りおよび生活費の一部が国庫によって負担される。このように、ドイツでは若者の社会奉仕を奨励する制度が整っている。青少年にとっても社会にとっても大きな問題は、成績が極端に悪いか、不登校などによって学校を卒業できなかった場合(8%)である。職業教育も受けられず、就職のチャンスがないからである。そのため、犯罪者予備軍になるか、ネオナチなどのグループに参加するなど問題を引き起こしやすい。一般にドイツでは、未成年の飲酒や喫煙に関しては学校側や青少年局も含めて厳しくない。そのせいか14歳、15歳からの喫煙はよくみかける。また、飲酒も15歳、16歳を過ぎてからは大目にみられている。
[福沢啓臣]
宗教
ドイツ社会におけるキリスト教および教会の存在は21世紀に入っても大きい。それは社会を形成する根本的な価値観と多くの制度上の催し事がキリスト教に由来していることでわかる。祝日はクリスマス(キリストの誕生)から始まってキリストの受難日と復活祭(イースター)、昇天祭、精霊降臨祭と続く。政教分離がうたわれているにもかかわらず、教会税(所得税の8~9%)が源泉徴収されている。さらに、重要な政治や社会の問題に関する教会関係者の発言は重くみられ、マスコミにも頻繁に登場している。その反面、最近の10年間における国民の教会離れの傾向は顕著である。ドイツのあらゆる都市、村に教会があるが、全席が埋まるのはクリスマスのミサぐらいで、普段は日曜日の礼拝でも空席が目だつ。ただし、葬式はキリスト教のしきたりに則(のっと)って行われるのが多い。その場合霊園の礼拝堂で故人の好んだ音楽を聴かせた後、牧師あるいは司祭が家族や友人から聞き取った話をもとに故人の一生をなぞり、故人をしのぶ。
歴史をさかのぼってみると、宗教改革者ルターが生まれた国であるドイツでは、近世以来プロテスタントが多数であった。ところが第二次世界大戦後、プロテスタントが多数を占める東ドイツが分割されたために、西ドイツではカトリックの信者数が上回った。1990年の再統一後ふたたびプロテスタントが過半数を占めるようになった(1997年はプロテスタント41%、カトリック35%)が、近年のプロテスタントの退潮(2009年までの12年間で10%減)で拮抗(きっこう)している。2009年現在、それぞれ国民の31%を占めているが、数的には2510万人対2568万人とわずかにカトリック信者の数が上回っている。2005年にドイツ人のローマ法王(教皇)選出(ベネディクト16世)もありカトリックへの改宗者が増えている。教会組織は、プロテスタントはルーテル派、連合プロテスタント教会派、改革派に属する22の地区教会の連合体であるドイツ福音派教会(EKD)に、カトリックは23の司教区を含む五つの大司教区に組織されている。
21世紀になって、多文化社会への意識が強まるにつれて、公立学校では宗教の授業が倫理の授業にとってかわられた。10年前までは、カトリック教会の影響力が強いバイエルン州などでは公立学校の教室には十字架がかけられていたが、政教分離を推進する保護者の抗議で裁判になり、取り除かれた経緯がある。また、多文化社会への傾向が強まり、イスラム教信者の多い大都市ではモスクなどがみられるようになった。
[福沢啓臣]
マスコミ
ドイツ社会におけるもっとも重要なマスコミ媒体はテレビである。テレビには公共放送局として第1(ARD)総合チャンネルと第2(ZDF)チャンネルの二つがあり、それぞれ24時間放送を行っている。第1総合チャンネルは各州(2州合併局もある)の放送局が構成する全国ネットワークだが、各地方局も自前のチャンネルをもち独自の番組を放送している。さらに芸術放送局(Arte)などもあり、10局以上の公共放送が受信できる。日本の教育テレビ並みの番組がゴールデンタイムに放送されることもありレベルは非常に高いといえる。スポーツなど生中継の場合、途中での打ち切りがない。民放は20年ほど前にスタートし、現在10局ほどある。60分の番組で12分間のCMが放送されている。民放の番組内容は娯楽性が高く、スポーツ専用チャンネルも2局ある。大都市においてはデジタル放送が開始され、2010年時点で地上アンテナで29チャンネル受信できる。衛星アンテナを使えばヨーロッパ中の局の受信が可能で、その数は数百局にものぼる。ラジオは中波、長波もあるが、地元放送局(FM放送)がおもに聴かれている。全国放送局にはクラシック、ポップス、ジャズなど音楽の専門局(FM放送)が多い。
プリントメディア(印刷媒体)では知識層向けの「ディ・ツァイト」(50万部)、ニュース性の強い「デア・シュピーゲル」(105万部)、リベラルな「シュテルン」(96万部)などのニュース週刊誌はよく健闘しているが、日刊紙はテレビとインターネット、さらに携帯電話による速報網の充実により厳しい状況におかれている。とくに若年層における新聞離れは著しい。全国紙には大衆紙の「ビルト」(290万部)と「ディ・ウェルト」(25万部)の2紙があるが、両紙とも保守寄りである。中立系の高級紙といわれる「フランクフルター・アルゲマイネ・ツァイトゥンク」(36万部)と「ジュートドイッチェ・ツァイトゥンク(南ドイツ新聞)」(42万部)は本来フランクフルトやミュンヘンを中心とする地方紙であったが、レベルの高さからクオリティーペーパーとして政界、経済界、文化人の間で全国的に読まれている。代表的な経済紙は「ハンデルスブラット」(15万部弱)である。
[福沢啓臣]
真の統一への課題
1990年に、西ドイツによる東ドイツの吸収という形で東西ドイツが再統一された当時は、一党独裁政治による抑圧から解放されると同時に長年待ち望んだ自由が得られ、旧東ドイツの住民は喜びに沸き立った。また旧西ドイツの政治家や専門家は一世代もあれば東西間の格差は解消され、真の統一が達成されるだろうと楽観的な発言をしていた。それ以来、総額4000億ユーロもの巨大な額が公共投資あるいは税制優遇措置として新連邦州(旧東ドイツ)につぎ込まれてきた。さらに1991年以来連帯税が課せられ、当初所得税あるいは法人税の7.5%、現在は5.5%が徴収されている。2019年までさらに1600億ユーロの援助措置が準備されている。このような努力にもかかわらず、ドレスデンやライプツィヒなどの大都市およびその周辺を除いて自立的な経済発展があまりみられない。構造的な経済停滞地域が多く、多くの若手および中堅勤労者が仕事を求めて古連邦州(旧西ドイツ)に移住してしまっている。その数は家族も含め300万人弱といわれている。中堅勤労者を失った地域は消費も伸びず、企業やスーパーの進出も望めないので、失業者、とくに長期失業者が増えている。また、長期失業中の若者が不満を募らせ極右政党に共感し、外国人排斥などの行動に走る例が少なくない。そのため、外国からの投資にも影響し停滞の連鎖に陥っている。2009年7月の失業率は、全ドイツで8.2%(345万人)、古連邦州で7%(236万人)、新連邦州では倍近い13%(109万人)となっている。
統一以来20年を経た2010年時点では、多くの面で格差はなくなったが、旧東ドイツ住民の多くは不満を抱いている。イエナ大学(新連邦州の大学)の統一20周年をきっかけに行われた調査によると、旧東ドイツの人たちの58%が昔の東独時代のほうがよかったと感じ、さらに23%が社会主義に戻りたいと答えている。これからも連邦政府による優遇措置を継続して行い、企業の生産性を改善し、できるだけ早く東西の賃金格差を是正する必要がある。新連邦州の学校および大学のレベルの高さはPISA調査(OECD生徒の学習到達度調査)などにより周知のことなので、優秀な人材確保の面から企業の進出が伸びる可能性がある。これらの課題が達成されたうえで、旧東西時代を知らず、意識もしない年齢層が住民の過半数を占めるようになれば、真の統一がなされたといえるだろう。
[福沢啓臣]
文化
伝統と特質
古代地中海世界が崩壊して西欧世界が成立する過程で、今日まで続く西欧の社会的・文化的特質が形成された。それは近世国民国家に分断されたのちも、ドイツを含めた西欧諸国群に共通している。「ドイツ」の文化的伝統といっても、それはこの共通性を基盤としたうえで生じた、相対的な「差異化」のプロセスである。その出発点にはもちろんキリスト教と古代文化の遺産の亀裂(きれつ)をはらんだ同化過程があった。ドイツ、イギリス、フランス、イタリアの文化的伝統と特質は、すべてこの同じ同化過程の偏差である。しかし西欧が近世において世界の文化的中心となったため、この偏差の文化的価値もそれ自体が普遍的な意味をもつほど大きなものとなった。
そうした観点で「差異化」されたドイツの文化的伝統をみていくと、キリスト教と古代文化の直接の継承者であるラテン的文化世界に対するアンビバレンス(両面価値性)の意識のうえに、理想主義的な普遍的「クルトゥーア(文化)」意識と民族主義的なゲルマン「ガイスト(精神)」との、矛盾した結合をつくってきたことに、その特質がある。それはまた、ドイツの政治・社会が分権的傾向をエスカレート(拡大)させ、ドイツが国家としての実質をもたなかったこととも相まって、具体的・外面的性格よりも理念的・内面的性格を、場合によっては著しく観念的・超越的・神秘的性格を特徴とする文化を育てた。絵画ひとつとっても、世俗的・官能的性格の人間主義が可視的なものになったイタリア・ルネサンス絵画を、「原理」として賛美しながら、超俗的、心的な傾向との葛藤(かっとう)のなかから、極度に計算され、手法化されたフォルムを生み出したドイツ・ルネサンス絵画のアンビバレンスは、フランス絵画に対立する現代ドイツ・アバンギャルド(前衛)絵画の逆説にも受け継がれている。
こうした傾向は一般にドイツ文化の観念性、内面性と規定されているが、それは両面価値的・弁証法的葛藤のドイツ的現象形態が、社会にも国家にもよりどころを求めることのできないドイツ人の自意識に投影された標識である。理念的・思想的・哲学的傾向がドイツ文化の著しい特徴であるが、それはドイツ人一般の生活意識の俗物性からみれば、まったくの逆説である。ルネサンスのヒューマニズムを前提としながら、それと対立する形で西欧近代の新しい精神を成立させたマルティン・ルターの内面性の教義、その西欧近代ブルジョア社会を、徹底したニヒリズムによって否定するニーチェの超人の教義、同じく徹底的に弁証法を駆使する唯物論によって資本主義を否定したマルクスの教義は、その逆説と標識によって、ドイツの文化伝統の特質を体現している。
[平井 正]
思想と学問
それは歴史的に形成された標識にすぎないが、ドイツ近代の政治的・社会的後進性と、それと表裏一体をなす社会的・文化的中心をもたない地方的郷土意識は、抽象的な西欧個人主義と共同体感情が結合したドイツ的「ゲミュート(心情)」を育ててきた。寒い冬の荒涼とした風土のなかで、赤々と燃える暖炉のそばに集う家族だけのくつろぎを何よりもたいせつにする心である。それは、普遍的なドイツ文化を担うドイツ特有の教養市民層にも、偏狭な小市民的郷土意識に生きるドイツ的俗物にも共通した性格として、ドイツ的内面性と称されてきた。それが近世ドイツ観念論に始まるドイツ思想界の体質となった。カントやハイデッガーの思想は、ドイツ的郷土意識に深く根ざしている。都市の物質文明に対立する「精神文化」というのが、ドイツの文化をはぐくんだ教養市民層の自意識だった。一般にはドイツ人の「自然」志向となって現れ、「森」を心の故郷とし、徒歩で野山を歩き回るワンダーフォーゲルのような運動が、都市住民の「大地」への回帰を促した。歴史的・社会的条件の帰結として、ドイツにはベルリン以外には巨大都市が一つもないが、そのベルリンすら基層においては水郷と森林と砂地で、市民の心のよりどころは窓辺の花と郊外の家庭菜園である。一木一草もない石畳で固められたイタリアの都市が西欧市民の生活の場の原型であるとすれば、ドイツの市民は、都市住民ですら反都市的性格の都市民である。「森」はカオスでありデーモン(魔神)の住み所でもある。内にそうした神秘的、非合理主義的な暗い衝動を宿したドイツ人の心情は、マイスター・エックハルトの昔から神秘主義の思想を育ててきた。その伝統は19世紀のロマン主義の哲学から20世紀の神話的思考につながっている。そうした意識が近代西欧合理主義と結合したとき、その合理主義は非合理主義的にエスカレートし、抽象的に形式化された「秩序」感覚となって、「ドイツ的徹底性」と称される。「時間厳守」「秩序維持」を非人間的なまでに強調する国民性、理屈で割り切った抽象的計画性の支配は、東西分裂時代を通じても変わることはなかった。ドイツ科学も非合理主義的心情を基盤として、逆説的に合理主義を徹底したことによって、かえって抽象的、無機的なテクノロジーの巨大科学を成立させた。19世紀の段階ではまだそれが、アカデミックな大学を中心とする教養市民層の思想と学問のなかに包摂されていたが、学問と技術の乖離(かいり)が進行した20世紀においては、ドイツ的基盤の脆弱(ぜいじゃく)性が露呈し、ドイツ的教養と学問は転機を迎えている。
[平井 正]
文化施設
ドイツの文化施設は前述のドイツ的学問と地方分権主義を二つの柱として発展してきた。ドイツは博物館王国であるが、私立の施設も国立の施設も少なく、ほとんどが州と地方自治体によって設立されたものだった。東西に分裂したあともその性格は続き、大英博物館のような巨大な施設はないが、自然、民族、絵画、いずれをとっても、全体としては科学的に組織された世界有数の文化施設である。
ドイツはまた出版王国であった。その中心はライプツィヒで、そこで開かれる書籍見本市は世界最大のものだったが、東西分裂の結果、出版社は各地に分散し、見本市もライプツィヒとフランクフルトが併存するようになった。
図書館も国立の中央図書館はなく、書籍業者の設立したライプツィヒのドイッチェ・ビューヒェライ(ドイツ図書館)がその機能を代行してきた。第二次世界大戦後はフランクフルトにもつくられ、ミュンヘンの州立図書館なども、全体としてその役割を果たしている。伝統あるベルリン州立図書館は、東西分裂時代に旧西ベルリンにつくられた館を統合し、統一後、役割分担によっていっそう拡大された。そして教養的文化から大衆的文化への移行という局面に対応すべく、組織的努力がなされている。
[平井 正]
文学・芸術
ドイツの文学は、イデアリスムス(観念論)の思想が開花したドイツ古典主義・ロマン主義の時期に、西欧市民ヒューマニズム文学のドイツ的形態を成立させた。それは、ゲーテ、シラーに代表されるワイマール宮廷の教養貴族共同体、シュレーゲル兄弟やノバーリスらのロマン派の小サロン共同体を基盤とする普遍的な精神の王国の文学だった。社会の枠組みが大衆文化社会へ変容し、この古き良き時代が過去のものとなったとき、ドイツ文学は東西分裂という次元を超えた亀裂(きれつ)を露呈し、その傷あとの上に現代の文学的諸傾向が生まれている。しかしドイツを代表する芸術は文学ではなく、なんといっても音楽である。文学も小説よりはむしろ演劇に中心があった。19世紀に西欧音楽の支配的地位を確立したドイツ音楽の基盤は、その源流にあるバッハから今日に至るまで、やはり中小の宮廷や都市に散在している。地方の市民生活に根ざした多元的な音楽環境こそ、ドイツ音楽の養い親である。ワーグナーの楽劇はそうしたドイツの文化的伝統と状況の音楽的集大成として、ドイツ的特質をもっともよく体現している。
[平井 正]
東西ドイツ統合の文化的影響
ドイツ統合が、東ドイツの西ドイツへの吸収という結果に終わったことは、東ドイツの硬直した社会主義体制に対する反体制的抗議運動の希望した路線とは違うものであった。このことは社会的に旧東ドイツ地域住民の二級市民意識を生み、さらに所得格差の持続と相まって、東西ドイツ人の心理的壁が容易に消えない状況を継続させている。文化的にみても東ドイツでは党政治による規制が消えたものの、劇場や映画は財政的危機に直面し、民衆は反体制的文化に興味を失い、さらに伝統音楽の世界が維持していた人間味のある伝統をも動揺させ、文化的統合の困難を認識させた。国としてアイデンティティを失った東側は精神的にも地方化した。
この東西の文化的違和感の克服こそが、統合後のドイツの重要な課題の一つである。政府は財政的支援などを通じて文化的融和を図っているが、現在でも、その課題は新世代の意識変革に託されているといえる。
[平井 正]
新しい文化状況
西側では消費文化の浸透と文化のレジャー産業化が、イデオロギー的に大衆福祉社会として謳歌(おうか)されている。また文化も福祉として、スポーツ施設の組織化と同じ意識で組織化されて、「余暇社会」の制度に組み入れられ、それが文化制度のニュー・スタイルとして習俗化している。そのことを東側が資本主義的頽廃(たいはい)とけなして、社会主義的国民文化の優位を誇示し、対峙(たいじ)していた時代は、ベルリンの壁崩壊によってだけでなく、バブル経済の崩壊による福祉国家の後退によっても過去のものになった。
たとえば分裂時代においてもドイツは音楽文化の国として、東西が競合するようにオーケストラやオペラに手厚い保護を与えていた。また現代的音楽状況に対応して、前衛的、大衆的なニュー・ミュージックにも市民権を与えて、東ドイツ出身の歌手も含めたジャーマン・ロックの隆盛が注目を受けていた。しかしこのような状況は、東西統一のコストの重圧の下で泡のように消え去った。「ニュー・ジャーマン・シネマ」や「ニュー・ジャーマン・ペインティング」として世界的な評価を受けたが、その名声の割に国民の支持を得なかった分野、あるいは反体制的姿勢を存在理由とした分野は、補助する側が採算重視の姿勢をとったこと、また統一による社会的基盤の変化のなかで、その意味を失ってしまい、過去のものとなった。
こうした喪失状況を踏まえて、ギュンター・グラスのような有力な作家が、「ドイツ統一」は災いを呼び寄せるとした『鈴蛙(すずがえる)の呼び声』(1992)のような作品を発表した。また旧東ドイツで党のイデオロギー的硬直に対峙し続けた作家クリスタ・ウォルフは、ドイツのアメリカ化、コンピュートピア化に対する批判を展開し、ハイナー・ミュラーは『ハムレット/マシーン』(1990)や遺作『ゲルマーニア3 死者にとりつく亡霊たち』(1995)のようなドラマで、政治の季節に言語で挑戦した。一方、作家マルティン・ワルザーは「救助のテンポ」には速さが必要であるとして、ドイツ再統一の急展開を歓迎しており、論議は白熱している。
[平井 正]
文化機関の再構成
博物館王国ドイツは、フランクフルトに新たに「建築博物館」が加わって、博物館地区の充実が図られるなど、文化機関の整備が進んでいる。統一によって旧東西ベルリンの博物館群も、「プロイセン文化財財団」の下での統合が進み、長く切り離されていた作品の合体も進展し、再編成と復旧が急テンポで展開している。問題の解決に手間どった「ユダヤ博物館」も開館した。同時に建築文化財保護も旧東ドイツ地区を加えて、地域全体をアンサンブルとみる立場で、記念物の新しい景観をつくりだす作業が進められている。
書籍見本市は西のフランクフルト、東のライプツィヒと、二つの見本市が併立することになったが、前者のショー的性格に対して、後者は東欧とのつながりを重んじるスタイルをとり、共存の道が模索されている。また1992年に発足したライプツィヒの「中部ドイツ放送」が、東部の有力な放送局に成長するなど、新しい連邦制度のなかでの文化機関の再編成も、しだいに軌道に乗ってきており、ドイツは文化の多中心性を統一性のなかに位置づける方向を模索しつつ、再編成の動きを進めている。
[平井 正]
日本との関係(第二次世界大戦前)
江戸時代の日独関係
幕末の黒船来航まで鎖国していた日本は、長崎出島のオランダ商館を通じてわずかに世界とつながっていた。そのようななかで、オランダを介して西洋の諸科学を日本に紹介し、日本についての詳細な知識をヨーロッパに提供した二人のドイツ人がいた。一人は東インド会社の船医E・ケンペル(1690~1692年滞日)で、ドイツ系医学を日本に伝えるとともに、来日中に収集した膨大な資料をもとに『日本誌』(1727年遺稿の英訳出版、ドイツ語版1777~1779刊、今井正訳著・1973・霞ヶ関(かすみがせき)出版)を著した。もう一人は、P・F・B・v・シーボルト(1823~1828年、1859~1862年滞日)で、英仏の東洋進出に伴い対日関係を強化するために優れた博物学者である彼に白羽の矢が立てられ、医師として派遣された。彼は西洋のあらゆる知識を日本に伝え、高野長英(ちょうえい)など蘭学(らんがく)の門弟を育成し、洋学興隆に大きな役割を演じた。帰国後の1832~1851年に名著『日本』(全9巻・岩生成一監修・1977~1979・雄松堂書店)を刊行している。また、杉田玄白(げんぱく)がオランダ語を介して翻訳した『解体新書』(1774刊)は、ドイツ人J・A・クルムスJohann Adam Kulmusの手による解剖学の名著である。開港後の1860年(万延1)にはプロイセン艦隊が来日し、当時はまだドイツ統一国家が建設されていなかったため、日本・プロイセン修好条約を締結した。
[姫岡とし子]
明治国家体制とドイツ
明治新政府にとって最大の課題は新国家体制の整備であり、まず幕末の政局に大きな影響を与えた英・米・仏にその先例を求めた。しかし、1870年のプロイセン・フランス戦争でフランスが敗北し、1871年にプロイセンを中心にドイツ帝国が成立すると、ドイツがにわかに注目の的になった。1873年3月には岩倉使節団がベルリンに到着し、宰相ビスマルクと歓談するなど3週間滞在したのを契機に、日本のなかで君主制国家ドイツの比重は非常に大きくなる。
1882年に伊藤博文(ひろぶみ)は憲法制定の準備を進めるためドイツに滞在し、R・v・グナイストやL・v・シュタインの講説を受けた。大日本帝国憲法草案作成にあたっては、1878年(明治11)に外務省公報顧問として来日したK・F・H・ロエスレルやドイツ在日大使館顧問を経て1886年に来日したA・モッセの協力によるところが大きかった。モッセは地方自治制度の制定に、ロエスレルは商法典作成に関与し、ビスマルクの推挙で来日した法律顧問は民事訴訟法案や裁判所構成法案の作成にかかわっている。
さらに、当初はフランス式の採用が決定していた陸軍軍政においても、ドイツ軍政を詳細に研究した桂太郎(かつらたろう)の進言のもとに1878年に参謀本部条例や陸軍職制が施行され、ドイツ式への移行が始まる。1885年に来日したJ・メッケル少佐は陸軍大学校教官として後に日清・日露両戦争を指導することになる参謀科将校を養成し、野戦型の近代陸軍の創出をはじめドイツ式の軍事組織確立に多大な貢献をした。このようにドイツは、日本の新国家体制確立の際に教師として決定的な役割を果たしたのである。
[姫岡とし子]
ドイツ学とドイツ文化の受容
教育組織の整備でも科学技術や思想などの分野でも、ドイツの影響は多大であった。ドイツの学問のなかで明治初期にいち早く日本に移入されたのは医学で、1871年(明治4)にドイツ軍医ミュラーとホフマンTheodor Eduard Hoffmann(1837―1894)が東京大学医学部の前身である大学東校(とうこう)に教員として招聘(しょうへい)され、その後、1876年にかけて薬学、解剖学、博物学、生理学など十数人のドイツ人教官が来日して日本医学の基盤構築に関与した。なかでも若き森鴎外(もりおうがい)の師でもあり、30年近く日本に滞在したE・v・ベルツの日本近代医学発展への貢献は大きく、明治日本の社会・文明批評である『ベルツの日記』(岩波文庫)が公刊されている。明治政府内でドイツの比重が高くなるとともに1876年から東京大学文学部および理学部でドイツ語が必修となり、同年に青木周蔵、品川弥次郎(しながわやじろう)ら在独経験者による独逸学協会(どいつがくきょうかい)が設立されて日本のドイツ学派の拠点となった。
それとともに人文科学系でもドイツの影響が強くなり、アメリカ人だが東京大学でドイツ古典哲学を講じたE・F・フェノロサ(1878年来日)や1893年(明治26)の来日以降、21年間東大に在職したR・v・ケーベルらによってドイツ哲学が浸透し、英仏哲学を圧倒するようになった。軍医としてドイツに留学して1888年に帰国した森鴎外は、『舞姫』(1890年)など「ドイツ三部作」を執筆するとともに、ゲーテやシラーなどのドイツ文学の本格的紹介と普及に貢献した。明治末期にはドイツの思想や文芸は広く受容され、知識人や学生の必須の教養となるとともに、多くの日本人がドイツに留学するようになる。
[姫岡とし子 2018年9月19日]
外交関係
日本のなかでドイツの評価は高かったが、19世紀末になると、対外膨張の道を歩み始めた日独両国の間で東アジアの権益をめぐる政治的・軍事的対抗関係が生じた。ドイツは日清戦争後の戦後処理に介入し、日本が1895年(明治28)に講話条約で割譲させた遼東半島(りょうとうはんとう)を三国干渉によって返還させた後、1898年に膠州湾(こうしゅうわん)を租借する。日本は日清・日露戦争勝利による対外的地位の上昇を背景にして、明治政府の悲願であった通商関係の不平等条約改正を実現させ、ドイツとの間では1886年に治外法権を撤廃し、1911年には関税自主権を獲得している。
大陸進出をねらう日本は、第一次世界大戦時に日英同盟を口実にドイツに宣戦布告して膠州湾要塞(ようさい)を陥落させ、太平洋上のドイツ植民地も制圧した。旧ドイツ領土をめぐる葛藤(かっとう)はその後も継続したが、他方で敗戦後も日本におけるドイツ評価は低下せず、両国間の関係は比較的平穏に推移していた。1933年のナチス政権の誕生はこうした日独関係の転換点となり、1931年(昭和6)の満州事変以来、軍国主義の道をひた走っていた日本ともども拡大志向をとったため、両国は政治的にも外交的にも接近し、1936年には共産主義ソ連への対抗という共通の関心に基づき日独防共協定を結ぶことになる。それでも両国には中国をめぐる対立や、英米との関係悪化という懸案事項があり、緊密な関係は形成されなかった。
しかし、1940年6月のドイツの対フランス戦勝利を契機として日本は再度ドイツに接近し、対米戦争の危険性を認識したうえで9月に日独伊三国同盟を締結するに至る。第二次世界大戦において日独は枢軸国として連合国と戦ったが、それぞれの国の状況に規定されて同盟関係は大きな実質的効力を発揮したわけではなかった。また戦時経済協力においても期待された成果はあがらなかった。
[姫岡とし子]
日本との関係(第二次世界大戦後)
ドイツは第二次世界大戦後にソ連および英米仏に分割占領されたため、1949年の独立の際にドイツ連邦共和国(西ドイツ)とドイツ民主共和国(東ドイツ)に分裂した。西ドイツとの国交は1952年(昭和27)に再開したが、東とは1973年(昭和48)まで待たねばならず、日独関係は同じ自由主義陣営に属する西ドイツを中心に展開した。日(西)独両国はともに敗戦国として瓦礫(がれき)の状態から復興事業に取り組み、飛躍的な経済成長を達成している。しかし、西ドイツは戦後の四半世紀あまり戦前から引き続いて日本に対して経済的に優位な状況にあり、これに学問の師であった伝統やカント、ゲーテ、ベートーベンに代表されるドイツ的教養の流れ、さらに日本の欧米志向などが重なって、文化交流においては日本側のドイツへの関心がドイツの日本への注目をはるかに凌駕(りょうが)していた。
1963年の海外渡航自由化以前にフンボルト財団やドイツ学術交流会の援助でドイツに留学した人は数多い。1970年代初頭までは、ドイツにとって日本はアジアにおける近代的な国ではあったが、経済力よりもむしろ西欧と異なる異文化の地としての関心が強く、黒澤明の映画や禅、碁などが知識人を中心に静かに浸透していった。日本への関心が飛躍的に増大するのは1980年代後半以降のことで、日本的経営やトヨタ生産方式など経済的側面が脚光を浴びた。それまでは一握りにすぎなかった大学での日本語学習者の数も著しく増加し、現在ではわずかとはいえ中等教育段階において日本語の履習プログラムを設けているギムナジウムもある。とはいえバブル経済崩壊後の「失われた10年」の間にドイツの日本経済への関心は薄れ、かわって21世紀にはアニメーションを中心とする文化的なものに移行している。
東ドイツに対しては、1973年の国交回復時には東西の経済格差が著しかったため、日本は経済や技術援助も含めて鉄鋼や電気製品などの工場建設支援を行ってきた。日独関係は以前のドイツが先達という立場から対等なパートナーへと移行したが、それでもドイツは多くの事柄で存在価値を示している。
第二次世界大戦期の戦争犯罪の克服に関しては、ドイツのほうが先行かつ徹底していて、1970年に当時の首相ブラントがワルシャワ・ゲットーの慰霊碑の前に跪(ひざまず)いて行った謝罪を契機に、1979年には西ドイツ国会におけるナチス戦犯の時効廃止の決定、1985年には良識派保守のワイツゼッカー大統領による連邦議会での「過去の責任」に関する演説などが続き、こうした対応は日本にも大きな感銘を与えた。1990年代に入っても現在まで、強制労働者への補償、ホロコースト犠牲者の記念碑の建設、独ポーランド・独仏共通教科書の策定など、過去の償いと記憶、国際相互理解促進のための事業が続き、戦争責任をめぐり隣国との争いが絶えない日本としばしば対比されている。
1968年学生運動世代に支えられて1983年に連邦議会に進出した緑の党が先鞭(せんべん)をつけたことにより、女性の政治参加や環境問題において抜本的な意識変革が浸透し、とりわけ環境政策ではゴミの分別収集などで日本のモデルとなった。社会福祉に関しては、日本で2000年(平成12)に施行された介護保険がドイツ(1995年)の例を参照している。福祉制度は日独ともに男性稼得と専業主婦という保守型モデルが基盤になっており、女性の就業増加や家族の多様化により見直しを迫られているが、夫婦別姓や婚外子の法的平等は、ドイツではすでに1990年代に導入済みである。
ドイツは貿易相手国としても重要で、1990年代にはEU内ではトップ、世界でも5位(1995年4.4%)の位置を占めていたが、21世紀になると比率は低下し、2008年度は10位(2.9%)に後退している。貿易収支は日本の黒字で、2008年度は輸入(自動車、医薬品、有機化合物など)2.2兆円、輸出(自動車、半導体等電子部品、化学光学機器など)2.5兆円であった。ただし、EU内での貿易比率の高いドイツでは対日比重は下がり、輸入が13位、輸出が18位となっている。
全体として日独関係はきわめて友好的に推移し、政府および民間レベルでともに相互交流を強化してきたが、2000年(平成12)には日独協力の新たな基盤として「21世紀における日独関係、七つの協力の柱」が合意され、政治、経済、文化の各領域における関係強化とグローバル時代の国際貢献が推進されている。1999年1月から2000年9月までの「ドイツにおける日本年」に続き、2005年から2006年にかけて「日本におけるドイツ年」が開催され、良好なドイツイメージをとりわけ若い世代に拡大していくために、文化、経済、科学を中心に多くの行事が行われ、メディアを通じて情報が発信された。開幕にあたっては、ケラー大統領夫妻が来日している。同じ敗戦国からアメリカにつぐ経済大国へと変化した日独は、21世紀の新たな国際秩序形成にあたり、PKOへの参加や国連安保理事会の常任理事国入りをめぐり共通の課題に直面している。
[姫岡とし子]
『E・ヨーハン、J・ユンカー著、三輪晴啓・今村晋一郎訳『ドイツ文化史』(1975・サイマル出版会)』▽『加藤雅彦著『ドイツとドイツ人』(1976・日本放送出版協会)』▽『佐々木博著『現代のドイツ――風土・民族・産業』(1977・二宮書店)』▽『出水宏一著『戦後ドイツ経済史』(1978・東洋経済新報社)』▽『出水宏一著『日独経済比較論』(1981・有斐閣)』▽『前川恭一・吉田敬一著『西ドイツの中小企業』(1980・新評論)』▽『A・グロセール著、山本尤他訳『ドイツ総決算――1945年以降のドイツ現代史』(1981・社会思想社)』▽『大西健夫編『現代のドイツ3 経済とその安定』(1981・三修社)』▽『大西健夫編『現代のドイツ8 職場と社会生活』(1982・三修社)』▽『大西健夫編『現代のドイツ10 文化と伝統』(1982・三修社)』▽『大西健夫編『ドイツの政治――連邦制国家の構造と機能』(1992・早稲田大学出版部)』▽『大西健夫編『ドイツの経済――社会的市場経済の構造』(1992・早稲田大学出版部)』▽『西尾幹二編『ドイツ文化の基底』(1982・有斐閣)』▽『九州大学経済研究会著『統合ドイツの経済的諸問題』(1993・九州大学出版会)』▽『大野英二著『ドイツ問題と民族問題』(1994・未来社)』▽『W・グラッツアー著、長坂聡・近江谷左馬介訳『統一ドイツの生活実態』(1994・勁草書房)』▽『高橋俊夫・大西健夫編『ドイツの企業』(1997・早稲田大学出版部)』▽『渡辺重範編『ドイツ ハンドブック』(1997・早稲田大学出版部)』▽『足尾正敏著『現代ドイツ経済――統一からEU統合へ』(1997・東洋経済新報社)』▽『星野智著『現代ドイツ政治の焦点』(1998・中央大学出版部)』▽『羽森直子著『ドイツの金融システムと金融政策』(1998・中央経済社)』▽『W・レンチェ著、伊東弘文訳『ドイツ地方財政調整発展史――戦後から統一まで』(1999・九州大学出版会)』▽『大西健夫、U・リンス編『ドイツの統合』(1999・早稲田大学出版部)』▽『ドイツ連邦統計局『統計年鑑』(1999・ドイツ連邦統計局)』▽『経済諮問委員会(五賢人会)『年次報告』(1999/2000)』