ベネディクト(読み)べねでぃくと(英語表記)Ruth Fulton Benedict

日本大百科全書(ニッポニカ) 「ベネディクト」の意味・わかりやすい解説

ベネディクト
べねでぃくと
Ruth Fulton Benedict
(1887―1948)

アメリカの文化人類学者。ニューヨークに生まれる。1909年バッサー・カレッジ卒業後、1914年生化学者スタンレー・ベネディクトStanley Rossiter Benedict(1884―1936)と結婚するまで語学教師として数年を過ごし、結婚後は詩作に熱中した。1919年文化人類学の学習を始め、コロンビア大学ボアズの指導のもとに北米インディアンの民話や宗教の研究を行い、1923年論文「北アメリカにおける守護神の概念」によって学位を取得、そのまま同大に就職し、1936年ボアズ退任の後を受けて人類学科主任教授となった。1930~1940年代のアメリカ人類学界の主流であった文化とパーソナリティー研究において中心的な役割を演じた。彼女の学説は、後の心理人類学にも引き継がれた「文化と個人の関係」という問題視角とは別に、個別文化の全体を類型学的に把握しようという「文化のパーソナリティー」とでも名づけられるような問題視角に特徴がある。彼女によると、「一つの個別文化としての独自性は、諸々の文化要素の潜在的な可能性の円弧の一組の切片の選択によって生まれる」。こうした無数の可能性のなかからの選択は、文化ごとにある程度一貫した方向性をもち、「本質的には相互に無関係で、歴史的にも独立したものである」文化的諸要素を重ね合わせ、分解できない文化の個性のようなものにまとめあげているのである。『文化の型』(1934)は個別文化のこうした選択的動機を類型学的に把握する試みであった。第二次世界大戦における戦時研究の産物である『菊と刀』(1946)は、日本研究の書として有名であるが、『文化の型』においてはまだ直観的なきらいのあった文化の統合的形態の把握を、方法論的により洗練された分析にまで高めている。

[濱本 満 2018年12月13日]

『米山俊直訳『文化の型』(1973・社会思想社/講談社学術文庫)』


ベネディクト(16世)
べねでぃくと
BenedictusⅩⅥ
(1927―2022)

第265代ローマ教皇法王)。本名はヨーゼフ・ラッツィンガーJoseph A. Ratzinger。4月16日、ドイツ南部バイエルン州の小村に生まれる。父親は警察官で、13歳で神学校に入学した。第二次世界大戦中はナチスの青少年組織「ヒトラー・ユーゲント」に加わったといわれるが、「強制的に参加させられた」と本人は弁明している。ミュンヘン大学で神学、哲学を学び、1951年に司祭となる。大学教師を経て1962年から1965年まで、第二バチカン公会議神学顧問。この時期は若手リベラル派のホープとみられていたが、しだいに保守派に傾いていく。

 1969年、ドイツ・レーゲンスブルク大学副学長、1977年ミュンヘン大司教、同年枢機卿(すうききょう)。1981年にローマ教皇庁の教理省長官に就任し、保守派の代表格として前任の教皇ヨハネ・パウロ2世を支えた。2002年に首席枢機卿に就任。2005年4月のヨハネ・パウロ2世の葬儀でも主宰者を務めた。教皇選出会議(コンクラーベ)では本命候補の一人とされ、4回目の投票で新教皇に選出された。そのとき78歳で、教皇就任時の年齢としては20世紀以降で最高齢。ピアノが趣味で、モーツァルトベートーベンを愛好した。

[土生修一]

 2013年2月、辞意を表明し、同月28日に教皇を退位。退位後の称号は名誉教皇であった。

[編集部]

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「ベネディクト」の意味・わかりやすい解説

ベネディクト
Benedict, Ruth

[生]1887.6.5. ニューヨーク
[没]1948.9.17. ニューヨーク
アメリカの文化人類学者。 1909年バッサー・カレッジ卒業。 14年結婚するまでカリフォルニアで中学の英語教師をしていたが,人類学に転じ,コロンビア大学の F.ボアズのもとで博士号を取得。 30年同大学助教授,48年教授。北アメリカ南西部の諸民族やカナダのブラックフット族の現地調査をし,文化とパーソナリティとの関連を研究。 46年人類学の方法論を用いて日本人の行動様式を研究した『菊と刀』 The Chrysanthemum and Swordを発表。 47年アメリカ人類学会会長。主著『文化の型』 Patterns of Culture (1934) 。 (→心理人類学 , 文化類型 )  

ベネディクト[ヌルシア]
Benedicto a Nursia

[生]480頃.スポレト,ヌルシア
[没]547頃.モンテカシノ
ヌルシア出身のキリスト教の聖人 (祝日3月 21日。ヨーロッパ・カトリックでは7月 11日) 。ローマで学んだが,退廃した風紀を嫌い,アフィレに隠退。さらにスビアコ近くの洞窟で3年を過し,近くの修道院長となったが,改革の熱意が抵抗を受けて挫折し,洞窟に戻った。彼のもとに集った修道士のために 12の修道院を建立し,盛名を得たが,近くの司祭の反目からモンテカシノに移った。妹スコラスティカも近くに女子修道院を建てた。彼は修道会を創立したわけではないが,彼の著わした会則が7世紀中頃からヨーロッパ各地の修道院に取入れられたため,ベネディクト会の始祖とされる。彼は東方に発する修道院制を継承しつつ,西欧中世のそれの礎を築いた。 1964年全ヨーロッパの守護聖人とされた。

ベネディクト
Benedict, Julius

[生]1804.11.27. シュツットガルト
[没]1885.6.5. ロンドン
ドイツ生れのイギリスの作曲家。アベーユ,フンメル,ウェーバーに学び,1823年ウィーンのケルントナトール劇場の楽長を振出しに各地のオペラ劇場で活躍。 35年ロンドンに渡り,ドルアリー・レーン劇場,コベントガーデン劇場の楽長をつとめるかたわら,76~80年リバプール・フィルハーモニー管弦楽団の指揮者を兼ねた。『ベネチアの花嫁』 (1844) ほかオペラ多数がある。

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