ドイツの社会主義者。1月6日ユダヤ人鉄道機関士の子としてベルリンに生まれる。16歳のときベルリンの銀行に見習いとして就職、のちロスチャイルド銀行に勤めたが、1872年社会民主労働者党に入党、1878年社会主義運動の後援者の秘書としてスイスに移住した。1880年ベーベルに伴われてロンドンにマルクス、エンゲルスを訪ね、その信頼を得て、1881年1月以降チューリヒでドイツ社会主義労働者党の非合法機関紙『ゾチアールデモクラート』の編集に携わったが、1888年スイスから追放され、ロンドンに移って1890年9月までこの地で同紙の編集を続けた。ロンドンではエンゲルスと親交を結んだが、一方、イギリス社会の実態を見聞してマルクス主義に疑問を抱き、1896年10月以降『ノイエ・ツァイト』に論文を連載してマルクス主義の修正を唱え、1899年『社会主義の諸前提と社会民主主義の任務』を公刊して党内に深刻な修正主義論争を引き起こした。彼の主張は党によって退けられたが、その影響は以後むしろ強められた。
1901年特赦を受けて帰国、翌1902年帝国議会議員となり、第一次世界大戦では初め戦時公債に賛成したが、1915年以降、政府の戦争政策に反対し、1917年独立社会民主党に参加した。しかし戦後、ただちに社会民主党に復帰して国会議員となり、1921年に同党が採択したゲルリッツ綱領(国民政党への転換をうたった)の作成に寄与し、1928年に引退、1932年12月18日、82歳で死去した。
[松 俊夫]
『佐瀬昌盛訳『社会主義の諸前提と社会民主主義の任務』(1974・ダイヤモンド社)』▽『ピーター・ゲイ著、長尾克子訳『ベルンシュタイン』(1980・木鐸社)』
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ドイツ社会民主党の理論家,文筆家。ベルリンの機関士の息子。16歳で銀行奉公に入ったが,独学で才能を伸ばした。1871年,社会民主労働者党に入党。社会主義者鎮圧法の時期には初めチューリヒ,ついでロンドンで党中央機関紙《社会民主主義者Der Sozialdemokrat》の編集を担当(1881-89)。1900年まで亡命を余儀なくされていたロンドンでは晩年のエンゲルスの信頼を得る一方,イギリスの改良主義的雰囲気に強い影響を受け,党是のマルクス主義を批判する《社会主義の諸前提と社会民主党の任務》(1899)を著すに至った。これはベーベルやカウツキーから〈修正主義〉として厳しく批判されたが,右派の密かな支持を受け,国際的にも〈漸進的社会主義〉論として反響を呼んだ。02年に初当選以来,28年まで,何期も国会議員を務め,他方,旺盛な文筆活動を行った。第1次大戦中,カウツキーらと独立社会民主党に参加したが,19年に社会民主党に復帰。《ベルリン労働運動史》3巻(1907)など歴史研究に対する寄与も大きい。
執筆者:西川 正雄
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1850~1932
ドイツの社会主義者。1872年社会主義労働者党(のちの社会民主党)に入党。78年スイスに亡命,ついでロンドンに亡命してエンゲルスと親交を結んだ。彼はこの地でフェビアン社会主義の影響を受けて議会主義的な方法による漸進的な発展を求めるようになり,96年以来修正主義理論を展開,『社会主義の前提と社会民主党の任務』(99年)を著した。第一次世界大戦では独立社会民主党に属したが,戦後社会民主党に復帰した。
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…その影響をうけた労働党も改良主義的である。しかし,〈改良主義〉という言葉が重要な意味をもって用いられはじめたのは,ドイツの社会民主党の党員ベルンシュタインが《社会主義の諸前提と社会民主主義の任務》(1899)で主張した路線をめぐってである。彼は社会的状況の変化に適切に対応すべきだとし,革命ではなく,資本の搾取的傾向を抑制するため議会を通じて民主主義を戦いとる運動,労働者の生活向上を組合を通じて実現する運動を進め,漸進的に社会主義をめざすべきだと説いた。…
…
[窮乏化説をめぐる論争]
マルクスの窮乏化説をめぐり,19世紀末のドイツ社会民主党の内部で,修正主義論争の一環として重大な論争がされた。その代表的理論家E.ベルンシュタインによれば,現実の資本主義の発展は,より少数の資本家と多数の労働者とへの両極分解とそれによる労働者の窮乏化をうながして社会主義革命を必然化する方向にない。マルクスの学説と革命路線は修正されるべきであり,社会主義はもっぱら日常的改良闘争のうちに実現されるべきである。…
…後者の面では修正主義論争と帝国主義論の形成が重要な意義をもっている。 すなわち,マルクスが1883年に,ついでその緊密な協力者F.エンゲルスが95年に亡くなると,その有力な後継者の一人とみられていたE.ベルンシュタインが,マルクスの学説,とりわけ資本家と労働者とへの社会の両極分解と労働者の〈窮乏化〉の理論(窮乏化説)は,19世紀末以降の資本主義の新たな発展にそぐわなくなっていると主張し,ドイツ社会民主党にマルクス主義から改良主義への修正を要求した。これに対しK.カウツキーは,当時の正統派を代表して反論を加え,たとえば大量に残存している農民層も事実上プロレタリア化していることなどをあげ,マルクスの学説の妥当性を擁護しようとした。…
…党の理論的指導者カウツキーは,経済関係の発展によって社会主義が必然的に到来するという経済決定論を唱えた。またベルンシュタインは,イギリスのフェビアン社会主義の影響を受け,他の進歩的政党と協力して議会立法を通じて社会を社会主義の方向に改革する路線を提唱した。ベルンシュタインの理論は,国家権力の核心がプロイセン陸軍の手に握られているドイツの現実を無視してはいたが,ドイツの党の活動の状態を率直に反映していた。…
…しばしば修正主義と同様の意味で用いられる〈改良主義〉についても,事情は同じである。 最初に修正主義の烙印(らくいん)を押されたのは,19世紀末にマルクス主義に対して理論的批判を企てたドイツ社会民主党のベルンシュタインの主張であった。彼の《社会主義の諸前提と社会民主主義の任務》(1899)における問題提起,すなわち労働価値説および恐慌論への批判,窮乏化説および中間階級の両極分解説の否定,労働組合運動と議会主義による経済的・政治的民主主義推進の提唱は,当時のマルクス主義正統派の理論的・政策論的基盤であった資本主義の自動的崩壊論に対する批判を意味していたからである。…
…1906年には組合が党と対等の発言権をもつに至り,同じころ,エーベルトのような社会主義者鎮圧法後の世代が要職につくとともに党組織の官僚化が進んだ。理論の次元でも,世紀の変り目ごろ,ベルンシュタインが漸進的社会主義を唱えて党是のマルクス主義に修正を加えようとした(修正主義)。彼の主張は,カウツキーやローザ・ルクセンブルクの反批判を招き(修正主義論争),1903年の党大会で否定された。…
… マルクス以後のマルクス主義の歴史においては,マルクスにみられるプロレタリアートの二つの概念規定,すなわち経済的概念規定と政治的ないし運動論的概念規定の関係,さらには,それ自体変化し発展する資本主義社会における階級構成の変化を理論的にいかに把握するかという問題が,さまざまな論争,対立を生み出してきた。19世紀末の資本主義の変容という現実を前に,E.ベルンシュタインが,中間階級(中間層)のブルジョアジーとプロレタリアートへの両極分解論,プロレタリアート絶対的窮乏化論として理解されたマルクスの階級理論を批判し,いわゆる〈修正主義論争〉を引き起こしたのもその一例である。 理論を現実に近づけようとするベルンシュタインとは逆に,V.I.レーニンは現実のプロレタリアートのもつ〈自然発生性〉と,革命運動の主体としてのプロレタリアートのもつべき〈目的意識性〉の乖離(かいり)を問題とし,〈革命党〉の指導によるこの乖離の解消を説いた。…
…
[マルクス主義]
マルクス=エンゲルスの思想を継承した自称他称の〈マルクス主義者〉たちにおける弁証法観や弁証法の処遇はかなり多様である。マルクス主義を社会主義思想の主流に押し上げたドイツ社会民主党の理論的指導者E.ベルンシュタインやK.カウツキーは,弁証法を一種の〈進化論〉と受けとり,マルクス=エンゲルスの弁証法にみられるそれ以上の諸契機は〈悪しきヘーゲル弁証法の残渣(ざんさ)〉として排除しようとした。ロシア・マルクス主義は弁証法を客観的存在界の一般的法則性として受けとるむきが強く,スターリンは〈否定の否定〉を弁証法の根本法則から除外した。…
…景気循環の変容,株式会社の急速な発達,経済政策の基調変化(自由主義から帝国主義への移行)がその主要な特徴であったが,これらの事実を背景に,まず19世紀末から第1次大戦前までのドイツ社会民主党内部で,《資本論》をめぐって激しい議論が闘わされた。 口火を切ったのは,E.ベルンシュタインであった。彼は,現実の資本主義の発展動向は,マルクスのいうような資本家と労働者の対立激化の方向にではなく,株式会社形態の発達による財産の分散化,中小経営の存続,そして恐慌の相対的緩和の方向に進んでいる,したがって,《資本論》の理論は基本的な点で〈修正〉されるべきである,と主張した。…
…しかしマルクス主義はとりわけエンゲルスの諸著作のなかでときとして通俗化されながらもしだいに影響を広げ,パリ・コミューン以後は労働運動のなかにも大きな支持層を獲得するようになった。やがてドイツ社会民主党の理論史のなかではエンゲルスが党の権威として君臨するようになったが,19世紀末になるとベルンシュタインが《社会主義の諸前提と社会民主主義の任務》(1899)を著し,いわゆる修正主義の考えを展開した。ベルンシュタインは旧来のマルクス主義を批判し,それはヘーゲル弁証法にとらわれたユートピア思想であり,それでは現在の〈帝国主義段階〉を説明できないとしたのである。…
※「ベルンシュタイン」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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