ドイツの社会主義者。3月29日、官吏の子としてギーセンに生まれる。神学、哲学、言語学を学んだが、サン・シモンの著書などに親んで社会主義的思想を抱き、1847年スイスに赴いて活動した。1848年3月、二月革命に魅せられてパリを訪れ、その後、同年9月および1849年5月のバーデンの蜂起(ほうき)に参加したが敗北し、スイスに亡命した。しかし1850年スイスからも追放されたため、ロンドンに赴き、ここでマルクスを知り、彼を師と仰いだ。1862年恩赦を受けて帰国し、ラッサールの組織した全ドイツ労働者協会に参加してベルリンで活動したが、1865年プロイセンから追放されたためライプツィヒに移り、ベーベルと交わって翌1866年ザクセン人民党を組織し、1867年北ドイツ連邦の議員となった。この間、第一インターナショナルへの参加を支持し、1869年にはベーベルとともにマルクス主義を基調とする社会民主労働者党(アイゼナハ派)を結成した。
1870年のプロイセン・フランス戦争では、アルザス・ロレーヌの併合に反対して戦時公債を拒否したため逮捕され、1872年には反逆罪に問われて禁錮刑に処せられた。1874年以降、帝国議会議員となり、その間、1875年ラッサール派と合同してドイツ社会主義労働者党を結成、マルクスやエンゲルスの批判を受けながらも党の発展に献身し、第二インターナショナルの指導者としても活動した。1900年8月7日ベルリンで死去した。
[松 俊夫]
『メーリング著、足利末男他訳『ドイツ社会民主主義史』上下(1969・ミネルヴァ書房)』▽『フリッケ著、西尾孝明訳『ドイツ社会主義運動史』(1973・れんが書房)』
ドイツの社会主義者。8月13日ウィルヘルム・リープクネヒトの次男として生まれる。ライプツィヒ、ベルリン両大学で法学、経済学を学び、弁護士となる。1900年ドイツ社会民主党に入党、1906年反軍国主義的演説を行い、翌1907年それに加筆して『軍国主義と反軍国主義』を出版し、反逆罪に問われて1年半の刑を受けたが、出獄後の1908年プロイセン下院議員、1912年帝国議会議員となり、ローザ・ルクセンブルクとともに社会民主党の左翼急進派の指導者となった。
第一次世界大戦では、党の戦争協力政策に反対、1914年12月には第2回の軍事公債に反対投票を行い、そのため翌1915年党から事実上除名され、また政府からは作業兵として召集された。しかし彼は1916年1月、ルクセンブルクらとスパルタクス派を組織、5月1日のメーデーの日にベルリンのポツダム広場で集会を開き、政府の打倒を叫んで逮捕された。1918年10月、釈放されるとただちにスパルタクス派を率いて活動、ベルリンに革命の起こった11月9日には王宮のバルコニーから「自由社会主義ドイツ共和国」の建設を呼びかけたが、革命の主導権を握ることはできなかった。革命後、社会民主党との協力を反革命として終始反対、12月末にはルクセンブルクらとドイツ共産党創立大会を開いて革命の推進を図ったが、1919年1月の蜂起(ほうき)に参加して捕らえられ、同月15日、ルクセンブルクとともに政府軍によって虐殺された。
[松 俊夫]
『中村丈夫他訳『スパルタクス書簡』(1971・鹿砦社)』
ドイツの革命家。W.リープクネヒトの次男。ライプチヒおよびベルリン大学で法学を修め,1899年ベルリンで弁護士事務所を開く。1900年父の死の直後その志を継ぎドイツ社会民主党に入党,02-13年ベルリン市会議員,08-16年プロイセン邦議会議員,1912-16年帝国議会議員を務めた。とりわけ反戦活動と青年運動に情熱を傾け,1907年《軍国主義と反軍国主義》を公刊し,そのため1年半投獄される一方で,同年,社会主義青年インターナショナルが結成されるとその会長に推された(1910まで在任)。13-14年には,帝国議会で軍需産業と陸軍省の癒着を暴露。第1次大戦が勃発すると14年12月,ただ一人,党議に背いて帝国議会で戦時公債に反対投票を行い,反戦の象徴的存在となった。スパルタクス・グループの一員として非合法活動に従事,16年5月1日,ベルリンで反戦デモを敢行して逮捕・拘禁された。18年10月,恩赦で出獄,ドイツ革命に身を投じ社会主義革命を目ざす指導的人物として活躍,ドイツ共産党創立者の一人となったが,19年1月,ローザ・ルクセンブルクとともに反革命暴力団によって虐殺された。
執筆者:西川 正雄
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1826~1900
ドイツの社会主義者。1848年三月革命に参加し,スイスついでロンドンに亡命,マルクス,エンゲルスの影響を受けた。62年帰国しラサール派の労働運動に参加,のちベーベルと協力して社会民主労働者党(アイゼナハ派)を設立した。プロイセン‐フランス戦争では政府を批判。ラサール派との合同を推進し,ゴータ綱領の作成に参加した。ベーベルとともに社会主義者鎮圧法に対する闘争を指導し,また修正主義に反対した。
1871~1919
ドイツの革命家。ヴィルヘルム・リープクネヒトの子。社会民主党最左翼に属し,軍国主義に対する青年労働者の闘争を組織,指導した。第一次世界大戦では軍事公債反対の先頭に立ち,スパルタクス団を組織,反戦デモを指導して投獄された。1918年10月出獄後スパルタクス団を率いてドイツ革命に参加,ドイツ共産党を創立。19年1月蜂起の際右翼将校により虐殺された。
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…社会民主党内に開戦当初から存在した〈帝国主義戦争〉反対派もしだいに勢力を強め,戦争支持派による抑圧と排除に抗して,17年4月,ついにドイツ独立社会民主党を結成した。同党は,ハーゼ,カウツキーら平和主義的な党指導部から,ローザ・ルクセンブルク,カール・リープクネヒトを中心とする反戦革命派のスパルタクス派まで,さまざまな流れから構成されていた。 ロシアに革命が勃発したこの1917年は,ドイツでも大衆行動が大戦下最初の高揚を見せた年となった。…
…第1次大戦前のドイツ社会民主党左派から発展して大戦中に独自の組織を形成したスパルタクス派Spartakus Gruppe(インテルナツィオナーレ派Gruppe Internationale)と,ブレーメン左翼急進派Bremer Linkeなどから1918年に結成された。 スパルタクス派は,ローザ・ルクセンブルク,K.リープクネヒトらを指導者として組織され,政府の戦争政策を支持する党主流派に反対し,反戦と革命行動を唱えて非合法誌を発行し,この誌名がグループの呼称となった。1917年独立社会民主党(USPD)が創設されると独自の組織を維持しつつこれに属した。…
…しかしここでも労働者の自立の傾向が強まり,68年には,VDAVもADAVと同様,国際労働者協会(第一インターナショナル)の立場に支持を表明するに至った。 69年8月,VDAVのベーベル,W.リープクネヒトら労働者派は,ラサールの後継者J.B.vonシュワイツァーと対立してADAVの分派を形成していたブラッケWilhelm Bracke(1842‐80)らとともに,アイゼナハで集会を開き,アイゼナハ綱領を採択し社会民主労働者党Sozialdemokratische Arbeiterpartei(SDAP)を創立した。新党(アイゼナハ派)と,ラサールの影響のいっそう強いADAV(ラサール派)とは競合を続けたが,普仏戦争の後半,プロイセンの征服政策にはともに反対の声をあげた。…
…2月前に公表された草案に対し,マルクスはアイゼナハ派のブラッケWilhelm Bracke(1842‐80)に徹底的な批判を書き送った。この《ゴータ綱領批判》は,理論より合同の実現を重視したW.リープクネヒトら当事者によってほとんど生かされなかったが,マルクス晩年の国家論,ラサール批判を示す文書として重要であり,次のエルフルト綱領の作成過程でエンゲルスによって公表された(1891)。アイゼナハ綱領エルフルト綱領【西川 正雄】。…
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[労働者文化と農業界]
ビスマルクによって〈帝国の敵〉とされたもう一つの勢力は,形成途上の社会主義労働運動であった。とりわけ,プロイセンの反自由主義に鋭く反発するその指導者ベーベルとW.リープクネヒトが,独仏戦争に際し戦費協賛に保留,次いで反対の態度をとり,さらにパリ・コミューンに共感を表明したことは,ビスマルクに大きな衝撃を与えた。しかし,1878年の社会主義者鎮圧法,また83年に始まる一連の労働者保険も,労働者街とりわけ酒場での仲間づきあいや各種の文化(合唱,演劇など)・スポーツ団体を中心に独自の〈労働者文化〉と相互扶助の世界を形成しつつ発展するこの運動を抑え込むことはできなかった。…
…しかしここでも労働者の自立の傾向が強まり,68年には,VDAVもADAVと同様,国際労働者協会(第一インターナショナル)の立場に支持を表明するに至った。 69年8月,VDAVのベーベル,W.リープクネヒトら労働者派は,ラサールの後継者J.B.vonシュワイツァーと対立してADAVの分派を形成していたブラッケWilhelm Bracke(1842‐80)らとともに,アイゼナハで集会を開き,アイゼナハ綱領を採択し社会民主労働者党Sozialdemokratische Arbeiterpartei(SDAP)を創立した。新党(アイゼナハ派)と,ラサールの影響のいっそう強いADAV(ラサール派)とは競合を続けたが,普仏戦争の後半,プロイセンの征服政策にはともに反対の声をあげた。…
…前身として1844年から45年にかけてパリでドイツ人亡命者が発行した週刊紙があり,これにはマルクスやH.ハイネなどが協力した。その後ドイツ社会主義労働者党ゴータ会議の機関紙統一決議に基づき,76年W.リープクネヒトらによりライプチヒで創刊された。ビスマルクの社会主義者鎮圧法(1878制定)により発行を禁止されたため,84年から《ベルリーナー・フォルクスブラットBerliner Volksblatt》と改題刊行されたが,90年の鎮圧法廃止とともに,党名を社会民主党に改称したのとあわせ,《フォアウェルツ》に復題した。…
※「リープクネヒト」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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