イタリアの作曲家。1月4日イタリア中部マルケ州アンコーナ近郊のイエージに生まれたが、おそらく幼少から病弱だったと思われる。同地の楽長フランチェスコ・サンティに音楽の基礎教育を受けたのち、派遣されて1723年ごろから31年にかけてナポリ音楽院に学んだ。32年に初演したオペラ・セリア『サルスティア』は不成功に終わったが、同年、ナポリのスティリアーノ公の楽長となり、ナポリ方言を用いた初の音楽喜劇『恋する修道士』を同地のフィオレンティーニ劇場で上演し、大成功を収める。翌33年、オペラ・セリア『誇り高い囚人』をサン・バルトロメオ劇場で初演、これも大成功だったが、その幕間劇(インテルメッツオ)として作曲されたのが代表作で、オペラ・ブッファの先駆となった『奥様女中』である。おそらくミサ曲ヘ長調のローマでの成功が契機となり、34年には同地のマッダラーニ公の楽長となった。チェロ・ソナタは、チェロの名手だった同公のための作品である。翌35年夏、健康を損ねたが、秋には最後のオペラ・ブッファ『フラミニオ』をナポリで上演。しかし、病状が悪化したため、36年ナポリ近郊の保養地ポッツォーリのフランシスコ会修道院にこもり、同年3月16日、26歳の若さで世を去った。この最後の療養生活のなかで作曲されたのが屈指の名作『スターバト・マーテル』である。
ペルゴレージの名声は、その死後、伝説的なまでに高められた。『奥様女中』は旅回り劇団の十八番として全ヨーロッパを駆け回り、1752年のパリでの再演はフランスとイタリアのオペラの優劣を争ういわゆる「ブフォン論争」の引き金となった。また『スターバト・マーテル』の叙情性は、バッハによる改作まであるように、新しい時代の宗教音楽の典型とみなされた。反面、こうした死後の人気は、多くの作品を誤って彼に帰すという結果を生んだ。歌曲『ニーナ』や『コンチェルト・アルモニコ』などがそれである。
[樋口隆一]
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
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