( 1 )本来は女性を敬う言葉で①②の意であったが、後に「俗に凡て女を女中と云」〔俚言集覧〕のようにその敬意は失われ、「女性」と同義に使用された。
( 2 )江戸後期には③のように下女をいうようになる。ただし当初は、敬称の名ごりとして「はした 今に女中のかろき役をはした女といふ。食事を調理する女をくりやめといふべき歟」〔俚言集覧〕などの記述があり、「はした・はしたもの」などよりも上の召し使いであったこと、もともとは台所まわりの下女(くりやめ・みずしめ)などを含めなかったことが考えられる。
家事手伝いの雇い女。本来は座敷方(上(かみ)女中)と台所方(下(しも)女中)の区別があり、女中の呼び名はおもに近世武家の「大奥女中」の伝統を受け継ぐ座敷方の接客応対にあたる雇い女に即して用いられた。台所方の炊事・清掃を勤める下女・水仕女(みずしめ)とはいちおう区別されていた。江戸城はじめ諸大名の「大奥」制度では、女中は上級の女子奉公人に限られていたことはいうまでもない。明治以後は一般上流家庭や料亭の使用人が主となったが、なおそこでも上女中、下女の区別は久しく残った。とくに関西方面には上流家庭での「上女中」奉公が家事見習いの修業課程として、久しくその伝統をとどめてもきた。しかししだいに、一般家庭や料亭の使用人が主体となるに及んで、女中も下女も区別がなくなり、むしろ貧農子女の最大の出稼ぎ場と化していくが、そこにもなおかなり、結婚準備の「行儀見習い」という古い意識をとどめた女中奉公がみられた。1930年(昭和5)の国勢調査では一般家庭約70万人、旅館・料亭約25万人の女中奉公人が数えられ、製糸紡績の女工数をはるかにしのいでいた。ほとんどが未婚子女の住み込み奉公で、給金よりむしろ衣食の給与が主であり、もちろん労働条件は劣悪であったが、反面、家族的恩情のまま結婚その他の世話で、主家との交渉を久しく生ずることも多かった。ともかく下層庶民子女の「食扶持(くいぶち)稼ぎ」と「家事見習い」の方途として、明治以後女中奉公の果たした役割は大きいものがあった。だが、子女の職業的自立の方途としては別段役だたぬまま、近年の家族情況の急変でいわゆる家事手伝い奉公人はほとんどなくなり、新しく家政婦やホームヘルパーの類が別の場面に登場してくる。そして、料亭・旅館などに女中稼ぎの名残(なごり)が若干みられるだけである。
[竹内利美]
…江戸時代には将軍家,大名,旗本など,身分ある武士の邸宅では“表”と“奥”の区別が厳重にたてられ,当主以外の男子は奥には入れなかったから,御広敷とよばれる奥向管理事務の男子役人以外は,奥向の諸事はすべて女性で弁じた。その武家奥向に仕える女中が奥女中である。有力大名の奥向は幕府大奥の制度に似たところも多かったが,多数の小大名では奥向の規模・組織もさまざまで,奥女中もそれぞれ独自の風俗習慣をもったという。…
…1851年には10歳以上の女性の9人に1人が家事使用人であった。その職種は,台所女中にはじまり,パーラーメイド,ハウスメイド,子守り女中,女主人付き侍女,料理人などと分化し,かつ序列づけられ,最上のポストは家政婦であった。だが,中産階級の下層では,1人で何もかもやる雑働き女中(ジェネラル・サーバント)が雇われた。…
※「女中」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
宇宙事業会社スペースワンが開発した小型ロケット。固体燃料の3段式で、宇宙航空研究開発機構(JAXA)が開発を進めるイプシロンSよりもさらに小さい。スペースワンは契約から打ち上げまでの期間で世界最短を...
12/17 日本大百科全書(ニッポニカ)を更新
11/21 日本大百科全書(ニッポニカ)を更新
10/29 小学館の図鑑NEO[新版]動物を追加
10/22 デジタル大辞泉を更新
10/22 デジタル大辞泉プラスを更新