ホーチミン

精選版 日本国語大辞典 「ホーチミン」の意味・読み・例文・類語

ホー‐チミン

(Ho Chi Minh)
[一] ベトナム革命家政治家。早くから独立運動に従事。一九四一年、抗仏・抗日のベトナム独立同盟ベトミン)を組織。四五年、ベトナム民主共和国建国を宣言し、初代大統領となる。五一年ベトナム労働党主席。その後も五四年のジュネーブ協定をはさみ、抗仏・抗米闘争を堅持してインドシナ戦争ベトナム戦争を戦い抜き、独自の社会主義建設を推進した。(一八九〇‐一九六九
[二] ベトナムの最大都市。旧称サイゴン。→サイゴン

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改訂新版 世界大百科事典 「ホーチミン」の意味・わかりやすい解説

ホー・チ・ミン[市]
Ho Chi Minh

ベトナム南部の都市。旧名サイゴンSaigon。1975年まで南ベトナムの首都であったが,北ベトナムによる統一とともに現名に改められた。人口345万(2004)は同国最大である。広大なメコン川デルタの北に連続するサイゴン川デルタ上に位置し,河口から97km上流にある。標高10mで,河港をもち,サイゴン川の川幅はここで250~300m,水深も10mに及ぶため,外洋船もらくに遡航できる。この地方は元来カンボジアの勢力圏でクメール族が多く住み,近世には地方的な商業地であった。17世紀にベトナム中部のチャム族を滅ぼしたベトナム人が,勢いに乗じてこの地方に進出した。サイゴンとはクメール語のプレイコル(〈カポックパンヤノキ)の茂る森〉の意)のベトナム訳といわれる。18世紀末にはのちのザロン(嘉隆)帝がフランス人に委嘱して城塞をつくった。また当時清朝の支配を逃れて中国からこの地方に移住する人が多く,南西に隣接するチョロンショロン)はその結果,1778年に建設された中国人の町であった。19世紀中ごろからフランスのインドシナ侵略の焦点となり,1862年コーチシナ植民地の主都となった。港は市の生命であり,植民地時代にはフランス領インドシナ貿易の70%はここを経由し,輸出の70%までは開拓の進んだ後背地メコン川デルタの米であった。

 市街はサイゴン川の西岸に広がり,いくつかの地区に分かれるが,サイゴン川と運河に囲まれた中心部にはかつての政府機関,公園,植物園,中央市場などがある。ここはフランス風の都市計画に従ってつくられた美しい市街で,かつては〈東洋のパリ〉と称された。港はこの中心部をやや離れたサイゴン川下流部にあり,チョロンに至る運河沿いの一画は商業地区,港湾地区である。チョロンは旧都心部の南西方に隣接する中国的雰囲気の商業地区であり,旧都心部とチョロンとの間は第2次大戦後に急速に都市化した地域で,スラムも混在する最もベトナムの庶民的な居住地区となっている。市の人口はフランスの占領当時1万3000にすぎなかったが,第2次大戦直前には15万となり,ベトナム戦争の末期には地方からの難民が集中して350万を超えた。南ベトナム政府の崩壊,北による統一とともに社会主義的政策が施行され,資本主義色の払拭(ふつしよく)が図られている。このためそれになじまない市民や,とくに富裕な中国系家族の大量脱出があり,ベトナム難民として世界に大きな問題を投じた。統一ベトナム政府のもとでホー・チ・ミン市は新たな生き方を迫られているわけである。現在は米の輸出も減少し,港もかつての活気に乏しい。交通上の大きな要地であり,ベトナム戦争中は途絶していた縦貫鉄道も再開されたが,経済不振が交通の面でも強くあらわれている。かつての国際空港タンソンニュットも今は国内線に使われているにすぎない。新政府は市の人口を減らす政策をとっているが,流入人口が多く,顕著な減少をみせていない。
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ホー・チ・ミン (胡志明
)
Ho Chi Minh
生没年:1890-1969

ベトナム共産党の創立者で,ベトナム民主共和国初代国家主席(大統領)になった革命家。幼名はグエン・シン・クンNguyen Sinh Cung(就学後グエン・タット・タインNguyen Tat Thanh)で,ベトナム中部ゲアン省ナムダン県キムリエン村の,貧しい儒学者の家庭に生まれた。幼少の時から民族主義運動の影響を受けて育ち,フランス植民地支配下の祖国ベトナムの救国の道を宗主国の社会に見いだすべく,1911年フランス船の見習コックとなり出国した。19年ベルサイユ講和会議にグエン・アイ・クオックNguyen Ai Quoc(阮愛国)名で提出した〈安南人民の要求〉は,彼の名を有名にした。その後フランス社会主義者との交際を通じ急速に共産主義に接近し,フランス共産党の創立に参加した。23年ソ連に行って農民インターの大会に参加して以降は,コミンテルンの活動家として国際的に活躍するようになった。この時期の活動は,民族主義から出発して共産主義を受容した革命家として,国際共産主義運動が植民地の被抑圧民族に,積極的関心を払うよう訴えることを軸としていた。植民地人民の民族的エネルギーの強さを実証したのが,彼の指導する祖国ベトナムの解放運動であった。24年中国国民党政府へ派遣されたソ連顧問団の一員として広州に出かけた彼は,そこでベトナムの民族主義的青年を組織し,翌25年にベトナム青年革命同志会を樹立し,これを母体に30年2月にホンコンでベトナム共産党を結成した。その後,投獄や病気のため30年代にはベトナムの運動から離れていたが,41年には30年ぶりに帰国し,ベトミン(ベトナム独立同盟会)の結成を提唱して,45年の八月革命を成功に導いた。彼が独立宣言を起草したベトナム民主共和国の初代国家主席となり,51年の党大会で正式に党主席に選出され,死までその職にあってフランス,アメリカとの戦いに指導的役割を果たした。

 〈ホー翁の政府〉〈ホー翁の軍隊〉という表現に示されるように,彼は抗仏・抗米戦争を通じてベトナム人の民族的団結のかなめであった。また中ソ対立が激化してからは,国際共産主義運動の団結を説く指導者として重要な役割を担った。〈独立と自由ほど尊いものはない〉という彼の言葉は,その思想をよく表している。なおホー・チ・ミンという名は1942年中国へ行った時使用した彼の変名の一つであるが,ベトナムの独立後,一般化した。
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世界大百科事典(旧版)内のホーチミンの言及

【インドシナ戦争】より

…11月ハイフォン港がフランス軍に砲撃され,次いで12月ハノイでフランス,ベトナム両軍が交戦した。20日臨時政府主席ホー・チ・ミンはここに対フランス全面抗戦を宣言した。 カンボジアでは45年10月,プノンペンに進駐したフランス軍が独立宣言を取り消したが,ソン・ゴク・タン派は北西部に逃れてクメール・イッサラ(自由クメール)を結成して,対仏抗戦を開始した。…

【ベトナム】より

…年平均降水量は1800mmで,大部分は5~9月に降るが,とくに1~3月にはベトナム特有の霖雨(りんう)(クラシャンと呼ぶ)があって米の2期作に有利である。南のメコン・デルタのホー・チ・ミン市では年平均気温27.6℃,年較差も3℃ほどであり,年平均降水量は2000mm,その90%は5~10月に集中し,11~4月は乾季である。中部のアンナン海岸は高温多湿で,フエの年平均降水量は3000mmに及んでいる。…

【ベトナム青年革命同志会】より

…ベトナムにおける民族解放革命の達成を第一の戦略目標に掲げ,ホー・チ・ミンが1925年6月に中国の広州(広東)で創立した革命的秘密組織。この同志会の活動を通して,30年に創立されるベトナム共産党の政治・思想・組織面の基盤が形成されたといわれる。…

※「ホーチミン」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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