コトバンクはYahoo!辞書と技術提携しています。

ホーネッカー Honecker, Erich

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説

ホーネッカー
Honecker, Erich

[生]1912.8.25. ザール,ノインキルヘン
[没]1994.5.29. サンチアゴ
東ドイツの政治家。 1929年ドイツ共産党に入党,30~31年ソ連留学,35年反ナチス活動を理由に逮捕され,ソ連軍によって解放されるまで 10年間獄中生活をおくった。第2次世界大戦後は青年組織づくりに活躍し,46年自由ドイツ青年同盟議長。社会主義統一党結成に参画し,49年人民議会議員。 56年から2年間のソ連留学後,58年に社会主義統一党中央委員会書記,同政治局員。対西ドイツ強硬派の W.ウルブリヒトの退陣に伴い,71年5月党第一書記 (1976年書記長と改称) に就任。同年6月には国防評議会議長も兼任し党と軍の最高指導者となった。西ベルリンの地位などについて妥協的態度をとり,ベルリン協定 (72.6.) ,東西両ドイツ基本条約 (72.12.) などの調印に好影響を与えた。 76年国家評議会議長 (元首) 就任。 80年以降東西対話を訴えて西側諸国との対話を促進,87年西ドイツへ公式訪問したが,東ドイツ国民の西ドイツへの大量流出,民主化要求を受けて,89年 10月すべての役職を辞任。東西ドイツ統一後ソ連へ出国したが,92年旧東ドイツ時代の「ベルリンの壁」逃亡者射殺命令により起訴され帰国後逮捕。裁判が開始されたが高齢と病気を理由に釈放,家族の住むチリへ出国した。

出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報

日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

ホーネッカー
ほーねっかー
Erich Honecker
(1912―1994)

ドイツ民主共和国(旧東ドイツ)の政治家。ザール地方ノインキルヘンに炭坑労働者の子として生まれる。小学校を終えて屋根葺(ふ)き職人の徒弟となる。1926年共産青年同盟に入り、1929年共産党員、1931年ザール地区共産青年同盟書記。1933年ナチス支配下で地下活動に入り、1935年逮捕、10年の懲役刑。第二次世界大戦後、1946年自由青年同盟(FDJ)の建設をゆだねられ、1955年まで同議長。1946年よりドイツ社会主義統一党(SED。現在の民主社会党の前身)幹部会員。1950~1958年政治局員候補、1958年以降政治局員。1955~1957年ソ連で訓練ののちSED指導部内で軍事・保安関係を担当。1958年より党中央書記および教育相、1971年ウルブリヒトの辞任後党第一書記、1976年以降国家評議会議長(元首)も兼務。1987年9月懸案のドイツ連邦共和国(旧西ドイツ)訪問を実現、両独関係の進展に新局面を開いた。1989年10月18日SEDの中央委員会において彼の後継者と目されたエゴン・クレンツおよび秘密警察長官エリッヒ・ミールケらは、現存社会主義の穏やかな体制内改革を策してホーネッカーに辞任を迫り党から追放したが、時すでに遅く民衆の激しい不満の前に党組織は瓦解(がかい)した。1989年11月ベルリンの壁が崩壊し、1990年4月ベルリン近くのソ連軍病院にかくまわれた。ドイツ再統一後の1991年3月、ドイツ当局がソ連軍に引き渡しを要求するとモスクワへ逃れた。1991年12月ソ連崩壊後モスクワのチリ大使館に庇護を求めたが、1992年7月29日ドイツへ護送され、ベルリンの壁越境者への殺人命令、汚職、背任の容疑で告発、11月12日裁判が開始された。明白な証拠が発見されず、憲法裁判所は彼の「不治の病」を理由に告訴を取り下げ、チリの家族のもとへ行くことを許可した。1994年5月29日死去。[中川原徳仁]

出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)日本大百科全書(ニッポニカ)について 情報 | 凡例

ホーネッカーの関連キーワード民主社会党[ドイツ]エゴン クレンツ東欧史(年表)8月25日シュタージ東方政策

今日のキーワード

桃李もの言わざれども下自ら蹊を成す

《「史記」李将軍伝賛から》桃やすももは何も言わないが、花や実を慕って人が多く集まるので、その下には自然に道ができる。徳望のある人のもとへは人が自然に集まることのたとえ。...

続きを読む

コトバンク for iPhone

コトバンク for Android