ホー・チ・ミン(人名)(読み)ほーちみん(英語表記)Ho Chi Minh

翻訳|Ho Chi Minh

日本大百科全書(ニッポニカ) 「ホー・チ・ミン(人名)」の意味・わかりやすい解説

ホー・チ・ミン(人名)
ほーちみん
Ho Chi Minh
(1890―1969)

ベトナム民主共和国初代大統領、ベトナム労働党中央委員会主席。ベトナム民族解放の最高指導者で、国民から「ホーおじさん」と敬愛された。伝統的に愛国運動の盛んな中部ベトナム、ゲアン省の貧しい儒者の第3子として生まれる。幼名グエン・シン・クン、のちグエン・タト・タイン。

 13歳のとき「自由・平等・博愛」の語を通じてフランスへの知識欲に目覚める。1905~1910年ユエのコクホク大学で学ぶ。1911年バーと名のりフランス船のコックとなり、欧米、アフリカ各地で被抑圧人民の惨状に接し、植民地解放の使命感を固めた。1917~1923年のフランス滞在中にグエン・アイ・コックの名で社会主義運動に参加。1919年のベルサイユ会議にベトナム人民の自決などを求める8項目要求を提出し、一躍その名を高めた。新設コミンテルンを率いるレーニンの「民族・植民地問題に関するテーゼ」に深い感銘を受け、1920年フランス共産党創設に参加、一愛国主義者から共産主義者に脱皮した。翌1921年フランス植民地人民連盟を組織し、機関紙『ル・パリア』(賤民(せんみん))の刊行にあたった。1923年ソ連入り、1924年コミンテルン第5回大会でプロレタリア革命と植民地革命の同盟関係を強調して注目を浴びた。同年コミンテルンから中国に派遣され、まず広東(カントン)でベトナム青年革命同志会を結成、ついで1930年に九竜(きゅうりゅう)でベトナム共産党(その後インドシナ共産党改称)を創立。1931年香港(ホンコン)でイギリス官憲に捕らわれ、1933年釈放されソ連に赴きレーニン大学で学ぶ。1938年延安で毛沢東(もうたくとう)ら中国共産党指導部、八路軍幹部とともに活動。1940年フランスの対独降伏と日本軍のインドシナ侵攻をみて1941年帰国、共産党を中核とするベトナム独立同盟(ベトミン)を結成。1942年闘争への支援を求めて訪中したが国民党に逮捕され、1943年まで下獄。ホー・チ・ミンと名のり始めたのはこの時期からである。1944年ボー・グエン・ザップを長とするベトナム解放武装宣伝隊を組織。1945年8月日本軍降伏の翌日ベトナム民主共和国臨時政府を樹立。9月2日同大統領として独立を宣言、植民地におけるマルクスレーニン主義の最初の勝利と位置づけた。

 1946年末、植民地復活を目ざすフランスとの交渉を断念し、全人民の徹底抗戦を指導した。1954年ディエン・ビエン・フー攻略でフランスの抗戦意欲を粉砕し、ジュネーブ会議でラオス、カンボジアを含むインドシナ全域の独立を獲得した。フランスにかわってアメリカがジュネーブ協定を無視して南ベトナム経営に着手したため、北部防衛、南部解放、祖国再統一に向けての闘争継続を訴え続けた。1965年のアメリカ軍の北爆開始とアメリカ地上軍の大量投入にも屈せず民族解放の大義の最終的勝利を確信し、1966年「独立と自由ほど尊いものはない」とのアピールを発して全党全軍全人民の革命精神を鼓舞した。同時に救国抗米闘争を支持する中ソ両国の不和を悲しみ、プロレタリア国際主義に基づく連帯を主張し続けた。半世紀に及ぶ献身的闘争の渦中で病を得たホー・チ・ミンは1969年9月3日、79歳の生涯を閉じた。質素な軍服をまとったホーの遺体の足元には愛用のゴムのサンダルが供えられたという。レ・ズアン、ファン・バン・ドンらホーの忠実な後継者は「悲しみを革命的エネルギーへ」と訴え、1975年4月ついにサイゴンを制圧、翌1976年南北統一のベトナム社会主義共和国の実現に成功した。

[黒柳米司]

『内山敏訳『ホー・チ・ミン語録』(1968・河出書房新社)』『J・ラクーチュール著、吉田康彦・伴野文夫訳『ベトナムの星――ホー・チ・ミン伝』(1975・サイマル出版会)』『チャールズ・フェン著、陸井三郎訳『ホー・チ・ミン伝』上下(岩波新書)』

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