日本大百科全書(ニッポニカ) 「マケドニア王国」の意味・わかりやすい解説
マケドニア王国
まけどにあおうこく
Makedonia
ギリシア北部の古代王国。住民はドーリス系ギリシア人に近い。アレクサンドロス大王を出した古マケドニアの王統(アルゲアダイ、別称テーメノス家。前7世紀初め?~前310/309)およびヘレニズム時代のアンティゴノス朝(前306~前168)をいう。この王国が歴史に現れるのはペルシア戦争を介してペルシアに臣従した時からであるが、その後ペルシアと関係を絶ってギリシアへの接近を深めた。積極的なギリシア文化摂取も始まる。国力の強化と国土の拡大とに画期を示したのはフィリッポス2世(在位前359~前336)である。彼は、カイロネイアの一戦でギリシアの覇権を握った(前338)が暗殺され、遺策たるペルシア領小アジアへの進攻は息子アレクサンドロス大王(在位前336~前323)が継ぐ。彼はアケメネス朝ペルシア帝国全版図を征服したうえ西北インドまであわせたが、マケドニアはその遠征の間および以後の計10年以上、実質的には宿臣アンティパトロスの統御のもとにあった。大王の急逝により王族、近臣、諸将の間に激しい権力闘争が展開され、傀儡(かいらい)として擁立された大王異母弟フィリッポス3世(在位前323~前317)は紀元前317年太后オリンピアスに殺され、また翌年彼女が、さらに前310/309年には大王の妃(きさき)ロクサネーと幼い遺児アレクサンドロス4世とがともに、アンティパトロスの息子カッサンドロスに弑(しい)されて王統は断絶した。カッサンドロスのマケドニア王位は2代で終わった。その間ディアドコイ諸将は一斉にマケドニア王を呼号し、王位は転々定まらなかったが、アンティゴノス2世(在位前276~前239)に至ってようやく安定する。ここにヘレニズム時代のマケドニア王国としてアンティゴノス朝が確定した。地中海世界進出の雄図を抱くフィリッポス5世(在位前221~前179)に至ってローマと衝突し、最後の王ペルセウスがピドナで敗れて王国は滅亡した。
[金澤良樹]