マナスル山(読み)まなするさん(英語表記)Manaslu

日本大百科全書(ニッポニカ) 「マナスル山」の意味・わかりやすい解説

マナスル山
まなするさん
Manaslu

ネパールヒマラヤ山脈にある世界第8位の高峰。標高8163メートル。カトマンズの北西115キロメートル、西のマルシャンディ峡谷と、東のブリ・ガンダキ渓谷との間を南北に延びる山稜(さんりょう)上に位置する。南4.5キロメートルのピーク29(7835メートル)、南南東15キロメートルのヒマル・チュリ山(7893メートル)とともにマナスル三山とよばれ、マナスル山北峰(第一峰7154メートル、第二峰7157メートル)なども含めてマナスル山群を構成する。古くはインド測量局の記号でピーク30として処理されていたが、1933年初めてクータンⅠ KutangⅠ とよばれた。これはクータン地方にあるためつけられた名称で、クータンとはチベット語で「平坦(へいたん)な場所」をさす。やがてマナスルという名のあることが判明して定着したが、これはサンスクリット語で「霊魂の土地」を意味する。そのほか現地ではチベット語のプン・ギェンPung Gyen(腕輪または守護神の名)などの名称も報告されている。地元民には神聖な山である。

 1950年、イギリスの登山家ティルマンHarold William Tilman(1898―1977)が初めてマナスル周辺を探ったが、試頂するまでに至らなかった。52年(昭和27)日本山岳会が登山隊を派遣することになり、8月踏査隊(隊長今西錦司(いまにしきんじ))がルートを探すために出発、53年、第一次隊(隊長三田幸夫(ゆきお))が北東のマナスル氷河から攻撃し、7750メートルまで登ったが失敗した。続く54年の第二次隊(隊長堀田弥一(やいち))は宗教的理由によるサマ集落民の反対で登山を断念し、東方のガネッシュ・ヒマールへ転進を余儀なくされた。56年、第三次隊(隊長槇有恒(まきありつね))がふたたび挑戦、5月9日今西寿雄(としお)(1914―95)、ギャルツェン・ノルブGyltsen Norbuによって初登頂に成功した。これは日本人による初めての8000メートル峰の登頂であった。

[金子史朗]

『吉沢一郎著『ヒマラヤの賦 ギャチュン・カン/バインダー・ブラック/マナスル』(1980・桐原書店)』『槇有恒著「マナスル登頂物語」(『槇有恒全集1』所収・1991・五月書房)』『日本ヒマラヤ協会監修『ヒマラヤへの挑戦2 8000m峰登頂記録』(2000・アテネ書房)』

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改訂新版 世界大百科事典 「マナスル山」の意味・わかりやすい解説

マナスル[山]
Manaslu

中部ネパール・ヒマラヤ,マナスル山群の主峰。標高8156m。山名はかつてピーク30と記されたが,サンスクリットで〈霊魂の土地〉を意味するマナスルと命名された。地元民はチベット語で〈カン・ブンゲン〉(雪の肩)または〈プンギェン〉(腕輪または守護神の名)という。

 ネパールが鎖国を解いた第2次大戦後のW.ティルマンの偵察ののち,日本山岳会が計画を進め,1952年秋の偵察隊(今西錦司ほか5名),53年の第1次隊(三田幸夫ら13名)が頂上まで400mと迫る。翌54年は村民に阻止されたが,56年春に槙有恒率いる第3次隊によって北東面ルートから初登頂に成功した。この成功は日本人によるヒマラヤ登山史上最大のエポックとなり,ヒマラヤ登山隆盛の原動力となった。その後,71年に日本隊が西稜伝いに第2登,74年には日本女性隊も登頂している。
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世界大百科事典(旧版)内のマナスル山の言及

【登山】より

…64年までに8000m峰は全部登頂されたが,このエベレスト登頂がヒマラヤ登山の黄金時代を飾る偉業であった。そのなかには1956年日本の槙有恒隊のマナスル登頂も含まれている。 フランス隊に始まるナイロン装備や酸素器具など装備の急速な発達,高所における人体生理の研究に伴う行動の可能性の追求,さらにこれらを背景とした技術の発達により,困難なバリエーションルートの登攀,困難な季節の登攀が指向され,アイガー,グランド・ジョラス,マッターホルンのアルプスの三大北壁を一人で冬季に攻撃するなどの登攀,アンナプルナ,エベレストなどの巨大な氷壁の登攀,ヒマラヤやアンデスにおける高峰の縦走などが試みられている。…

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