マルゼルブ(その他表記)Chrétien Guillaume de Lamoignon de Malesherbes

改訂新版 世界大百科事典 「マルゼルブ」の意味・わかりやすい解説

マルゼルブ
Chrétien Guillaume de Lamoignon de Malesherbes
生没年:1721-94

フランスの政治家。大法官ギヨーム・ド・ラモアニョンの息子。イエズス会の教育を受けた。司法官僚の道を歩み,1744年パリ高等法院の評定官,50年父の後を継いで租税法院長となり,図書監督局長も兼務した。この時代から,彼の良心的傾向が社会的に発揮され始める。租税については割当上の不正や浪費に断固反対して正義感を示し出版については革新的であってもそれほど危険でないと判断される本により多く暗黙の許可を与え,検閲制度を緩和している。また,私的には啓蒙思想家と《百科全書》を保護するようになり,言論の自由に賛意を表明し,受けた教育とは異なって王政内では進歩派となった。しかし,このような態度は反動的な大法官モープーに危険視され,71年追放処分をうけた。74年ルイ16世が即位すると租税法院に復職するが,この頃から王政の改革を必要とみていたようである。75年内務大臣に就き,封印状の使用制限等を行ったが,翌年反動派の陰謀により,チュルゴとともに辞職に追い込まれた。87-88年にも国務大臣となり,改革を要望したが受け入れられず,引退した。フランス革命初期は,自分の所領で過ごしたが,92年国王が国民公会で起訴されると,自ら弁護を買って出て,忠臣の道を選んだ。ここに彼の進歩派の限界がみられる。しかし,公会では圧倒的多数により国王の処刑が決定し,彼の努力はむだに終わった。翌93年,今度は自ら反革命容疑者として逮捕されたが,抗弁を拒否し,娘らといっしょにギロチンで処刑された。彼は文芸を好み,75年以来アカデミー・フランセーズの会員で,主著に《プロテスタントの婚姻についての二つの覚書》(1787),《ルイ16世回想》(1794),《出版業と出版の自由についての覚書》(1809)等がある。
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日本大百科全書(ニッポニカ) 「マルゼルブ」の意味・わかりやすい解説

マルゼルブ
まるぜるぶ
Chrétien-Guillaume de Lamoignon de Malesherbes
(1721―1794)

フランスの政治家。革命前の旧制度下の法服貴族の名門に生まれる。多くの官職を歴任、図書検閲局長のときルソーや百科全書派の言論活動に対し理解を示す。1774年チュルゴーとともに招かれ内相。2年後辞任したが、1787年ふたたび法相として司法改革を断行した。革命の初期に亡命したが、1792年7月、立法議会末期の激動期に国王ルイ16世に仕えるべくあえて帰国し、国民公会における国王裁判にあたっても、危険を顧みず進んでルイ16世の弁護の衝にあたった。「恐怖政治」のもとで自分が反革命容疑者として逮捕され、1794年4月ギロチンの犠牲となった。

[樋口謹一]

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「マルゼルブ」の意味・わかりやすい解説

マルゼルブ
Malesherbes, Chrétien-Guillaume de Lamoignon de

[生]1721.12.6. パリ
[没]1794.4.22. パリ
フランスの政治家。法曹界の名門出身で父は大法官。 1744年パリ高等法院評定官,50年租税院院長ならびに出版業監督長官となる。開明派官僚として『百科全書』の刊行を支援。のち国璽尚書となり,88年5月,高等法院の権限収奪を目的とする6つの王令を作成,公布したが,この改革 (ラモアニヨンの司法改革) を契機に貴族の反乱が激化しフランス革命への導火線となった。革命勃発後は王政維持に尽力したが,93年 12月反革命容疑者として逮捕され,翌年娘や孫たちとともに処刑された。

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