マンスール(読み)まんすーる(英語表記)al-Manūr Ibn Abī‘Āmir

日本大百科全書(ニッポニカ) 「マンスール」の意味・わかりやすい解説

マンスール(al-Manur Ibn Abī-‘Āmir)
まんすーる
al-Manūr Ibn Abī‘Āmir
(?―1002)

後(こう)ウマイヤ朝、ヒシャーム2世の宰相(称号はハージブ〈侍従〉)で、実質的支配者。ヨーロッパの歴史家によってアルマンソールAlmanzorとよばれる。彼の出自のアーミル家は、ターリクとともにスペイン遠征に加わったアラブ人。年少のカリフ、ヒシャーム2世の母親で、恋人でもあったといわれるスブフや、妻の父で将軍のガーリブらの支持を得て、978年ハージブの位についた。マンスールは年若いカリフを遊蕩(ゆうとう)にふけらせる一方、スブフやガーリブと対立し、981年にはガーリブを殺して絶対的支配権を握った。後ウマイヤ朝のベルベル人とキリスト教徒の傭兵(ようへい)を中核とする軍隊は強力で、レオンやカスティーリャのキリスト教国に対する遠征はしばしば勝利を収めた。権力増大に伴い、994年には「高貴なる王」という称号を用いたが、ブワイフ朝セルジューク朝君主と同様にカリフの位そのものは要求しなかった。1002年、遠征からの帰途メディナセリ(マドリードの北東250キロメートル)で没した。981年から息子ムザッファルが死ぬ1008年までは、アーミル家の独裁期とされる。

[私市正年]


マンスール(Abū Ja‘far al-Manūr)
まんすーる
Abū Ja‘far al-Manūr
(713ころ―775)

アッバース朝第2代カリフ(在位754~775)。異母弟の初代カリフ、サッファーフの4年間の治世の後を受けたアッバース朝体制の実質上の建設者。精力的で冷酷無残な人物とされていて、アッバース家カリフ位に反対するシーア派を弾圧したばかりでなく、自己の権力の確立に障害となる人物は、たとえ叔父アブドゥッラーや功臣アブー・ムスリムのような功労者であっても抹殺した。こうしてアッバース家の立場を強固にするとともに、帝国支配の理念としての神権的カリフ観念の確立と、権力の中央集権化を図り、そのための官僚機構や地方行政機構の整備、裁判官(カーディー)の直接任命による司法権の地方総督からの独立、駅逓(えきてい)制度の完備とその情報機関としての利用、歳入の増大と備蓄を行った。また762年から766年にかけて新都バグダードを建設して、後のアッバース朝繁栄の基礎を築いた。

[森本公誠]

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「マンスール」の意味・わかりやすい解説

マンスール
al-Mansūr, Abū Ja`far `Abd Allāh ibn Muḥammad

[生]? フマイマ
[没]775.10. メッカ
アッバース朝第2代のカリフ (在位 754~775) 。第1代カリフ,アブル・アッバースの兄で,同朝の事実上の創始者。その後 35代の同朝カリフはみな彼の子孫である。カリフ就任に際して,叔父であり,ザーブ河畔でウマイヤ朝軍を破った将軍アブドゥッラーが反旗を翻したが,マンスールはアブー・ムスリムを派遣してこれを破った。続いて同朝創設の功臣アブー・ムスリムを謀殺し,イランの宗教反乱を押え,シーア派のイブラーヒームとムハンマド兄弟が起した乱を鎮圧,内乱によって混乱していたイスラム世界を再統一した。一方外交政策では,ビザンチン帝国に繰返し攻撃をかけ,ササン朝の勢力が残存していたカスピ海南方の山岳地方を征服し,インドのカシミール地方までも手を伸ばした。カリフ就任後,クーファの近くにハーシミーヤの町を建設して首都としていたが,762年チグリス川の西岸に新城の建設を始め,完成した町を「平安の都 (マディーナ・アッサラーム) 」と名づけた。これがのちに人口 100万をこえる大都市に発展したバグダードである。マンスールは広大な帝国の統治のため,ウマイヤ朝カリフ,ヒシャームのつくった官僚制度を継承,整備し,行政・財政上の改革を行なった。またホラーサーン地方の軍人を中心に常備軍を創設して身辺を固めさせ,強力な常備軍と整った官僚制度をもって帝国を統治する,というアッバース朝政治構造の骨組みを築いた。

マンスール(満速児)
マンスール
Mansūr

[生]?
[没]1545
中央アジア,モグリスタン・ハン国のハン (在位 1503~45) 。モグリスタン本土のイリ地方とトゥルファン (吐魯番) ,カラシャハル,クチャ (庫車) などのウイグリスタンを統治し,カシュガル,ヤルカンド (ソーチョ) ,ホータン (和田) を統治した弟サイード・ハン (在位 14~33) とともに東トルキスタンを支配。イスラム教を信奉し,1517年以後異教の明を侵攻,対策に苦しんだ明朝は朝貢を許可した。

マンスール
Mansūr

インド,17世紀のムガル絵画宮廷画家。ジャハーンギール帝に仕え,アブル・ハサンと並び称されるミニアチュール画家で,ロマンチックな花鳥画を得意とした。主要作品『鷹』 (1619頃,ボストン美術館) 。

マンスール[後ウマイヤ朝]
マンスール[ごウマイヤちょう]

「アルマンソル」のページをご覧ください。

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改訂新版 世界大百科事典 「マンスール」の意味・わかりやすい解説

マンスール
al-Manṣūr
生没年:713ころ-775

アッバース朝第2代のカリフ。在位754-775年。異母弟の初代カリフ,サッファーフの4年間の治世の後を受けた,アッバース朝体制の実質上の創設者。精力的で冷酷無残な人物とされていて,自己の権力の確立に障害となる人物は,アッバース朝の成立に貢献した叔父アブド・アッラーフや功臣アブー・ムスリムのような者でも抹殺し,またアッバース家カリフ位に反対するシーア派を弾圧した。続いて762年から766年にかけて新都バグダードを建設し,帝国支配の理念としての神権的カリフ観念の確立と権力の中央集権化に努めた。すなわちアッバース朝革命に貢献したホラーサーン軍をカリフの軍隊として掌握する一方,ウマイヤ朝末期以来の官僚機構や地方行政機構の踏襲と整備,とりわけ地方総督の権限下にあった裁判官(カーディー)の直接任命による司法権の独立,駅逓(バリード)制度の完備とその情報機関としての利用,財政制度の改革を行い,国庫歳入の増収と備蓄を図った。
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山川 世界史小辞典 改訂新版 「マンスール」の解説

マンスール
al-Manṣūr

713?~775(在位754~775)

アッバース朝の第2代カリフアリー家などの反対勢力を弾圧し,アブー・ムスリムを粛清するなど不満勢力を排除。バグダードに首都「平安の都」を造営し,駅逓制度や諸官庁を整備。アッバース朝の支配体制を確立して,繁栄の基盤を築く。

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旺文社世界史事典 三訂版 「マンスール」の解説

マンスール(アッバース朝)
Abū Ja'far al-Manṣūr

713ごろ〜775
アッバース朝の第2代カリフ(在位754〜775)
初代カリフのサッファーフの後を継いだ,アッバース朝の事実上の創設者。ウマイヤ朝打倒の原動力となったシーア派を弾圧したほか,神権的カリフ観を取り入れ,行政機構も整えて中央集権化をはかった。762〜66年には新都バグダード(正式名マディーナ−アッサラーム,「平安の都」の意)を建設。また天文学を宮廷に導入し,シリア語・ペルシア語文献の翻訳を進めた。

マンスール(後ウマイヤ朝)
al-Manṣūr bn Abī‘Āmir

?〜1002
後ウマイヤ朝の宰相
後ウマイヤ朝のカリフのアブド=アッラフマーン3世に仕えた。

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世界大百科事典(旧版)内のマンスールの言及

【アンダルス】より

…スペイン南部のアンダルシア地方はこの呼称に由来する。アンダルスの範囲は時代によって相違し,その最大は後ウマイヤ朝の宰相マンスールal‐Manṣūr(?‐1002)の時代で,スペイン・ポルトガルの北部を除く半島の大部分を含んだ。最小はグラナダ周辺を領域とするにとどまったナスル朝(1230‐1492)の時代であった。…

【後ウマイヤ朝】より

…とくに,アラブの優れた灌漑技術による農地の拡大と農産物の量産が行われ,その集散地であるコルドバやセビリャは繁栄を極めた。幼少の君主ヒシャーム2世をめぐる宮廷内の権力闘争は,ワジール(宰相)でハージブであったマンスールal‐Manṣūr(?‐1002)の実権掌握で終わった。次いでマンスールは飽くなき対外戦争を行い,この結果同朝の領域は北アフリカの一部を含むにいたった。…

【ムガル細密画】より

…またこの時代には風景画や花鳥画も盛んであった。ビシャン・ダースBiṣan‐Dās,アブール・ハサンAbū’l Ḥasan,マンスールManṣūrらの画家がことに著名である。シャー・ジャハーン(在位1628‐58)の治世には,皇帝が絵画よりも建築を愛好し,画家たちは地方に拡散した。…

【駅伝制】より

…ウマイヤ朝の初代カリフ,ムアーウィヤ1世(在位661‐680)がササン朝ペルシアやビザンティン帝国の駅伝制を踏襲し,第2次内乱(683‐692)を平定した第5代カリフ,アブド・アルマリク(在位685‐705)はこれを組織化して帝国統治のかなめとした。アッバース朝時代になるとバリードはさらに重要な政府機関となり,第2代カリフ,マンスール(在位754‐775)はバグダードに駅伝庁dīwān al‐barīdを設置するとともに,地方の主都にも駅伝局を置いてそれぞれに腹心の部下を配した。彼らは公文書の伝達ばかりでなく,地方総督や裁判官の活動のようす,毎日の物価の動きなどを書き送る義務を負っていた。…

【バグダード】より

… アッバース朝(750‐1258)の首都は,初代カリフのサッファーフ(在位750‐754)がクーファで即位した後,短期間のうちにクーファから北方の新都ハーシミーヤḤāshimīya,さらにバグダード西方のアンバールal‐Anbārへとめまぐるしく変わった。第2代カリフ,マンスール(在位754‐775)は即位後まもなく都をアンバールからハーシミーヤへ戻したが,ここはシーア派住民の多いクーファに近く政情不安であったから,新王朝にふさわしい首都を他の地に求める必要があった。入念な調査の結果,ササン朝時代のイーサー運河やサラート運河などを活用できるティグリス川西岸の小村バグダードが選ばれた。…

【ラッカ】より

…ギリシア名はニケフォリオンNikēphorion,のちセレウコス2世の名にちなみカリニコスKallinikos。アッバース朝第2代カリフ,マンスールが772年に円形の都城アル・ラフィカAl Rafiqaを建設。カリフ,ハールーン・アッラシードの〈夏の宮〉の所在地として,またビザンティン帝国への前哨基地として知られたが,13世紀のモンゴル侵寇によって廃墟と化す。…

※「マンスール」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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