翻訳|Medina
アラビア半島の西側にある都市。メッカとともに,イスラムの〈二聖都〉と称される。アラビア語でマディーナal-Madīnaといい,預言者の町Madīna al-Nabīの略。人口91万8889(2004)。預言者ムハンマドが没した地で,現在でも彼の墓廟がある。その墓廟は預言者のモスクと呼ばれる豪壮な建造物の一隅にあり,モスク自体は生前のムハンマドの住居兼モスクの位置にあたる。
市街は南から北に向かう緩い斜面をなす平原のなかにあり,平原の東西は溶岩台地で区切られ,北は山並みによって区切られている。平原の東西の幅は10kmを超え,市街の中心から北のウフド山までは6~7kmで,市街の南は平原が続く。平原を南から北へいく筋かのワジ(涸れ谷)が走り,雨季には川となって北の山の麓に湖をつくる。夏の乾季でもワジの伏流水は豊富で,平原は農耕の適地となっている。おそらく古くから農牧業が行われ,集落も発達していたと思われるが,イスラム以前数十年より前の歴史は不明である。2世紀のプトレマイオスの《地理学》にあるイアトリッパIathrippaはこの平原にある町と考えられており,預言者ムハンマドの時代でもメディナはヤスリブYathribという名で知られていた。
ムハンマドが622年にメッカからメディナへ移住(ヒジュラ)を行う前のメディナには,平原の方々に小集落が散在し,小規模な砦が数十あって人々は戦時にはそこに立てこもった。住民はアラブのアウスとハズラジュの二つの兄弟部族とユダヤ教徒のいくつかの集団で,いずれも農牧業や商業に従事していた。アラブはいくつもの集団に分かれて内戦を繰り返していたが,ムハンマドを招き,彼の調停を受け入れて内戦を終結した。
ムハンマドは彼を支持したメディナのアラブ(アンサール)と,彼とともにメッカから移住した人々(ムハージルーン)とで一つの社会をつくった。メディナのユダヤ教徒の集団は次々と追放ないし撲滅されていった。ムハンマドがメディナでつくった社会はウンマと呼ばれ,後世のイスラム教徒にとって理想の社会とみなされる。ムハンマド没後,メディナは広大な世界を征服・統治するカリフの本拠地となった。初代カリフから第3代カリフまでの治世約25年間は,メディナは拡大するイスラム世界の首都であった。各地から多数の奴隷や解放奴隷がもたらされ,住民は増加し多様化した。第4代カリフ,アリーはイラクを政権の本拠地とし,ウマイヤ朝初代のカリフ,ムアーウィヤ1世はシリアを本拠地としたが,この時期のメディナはまだ多くの政界有力者の居住する重要な政治都市であった。683年,メッカでカリフ位を宣言しウマイヤ朝に敵対することを明らかにしたイブン・アッズバイルに対し,ウマイヤ朝軍がメディナを襲った。メディナ市民は郊外の溶岩台地(ハッラ)でウマイヤ朝軍と戦って敗れ,メディナはウマイヤ朝軍によって破壊された。この時をもって政治都市としてのメディナの地位は無になった。
ウマイヤ朝からアッバース朝にかけて,すなわち8世紀から10世紀まで,メディナは学問の府であった。預言者ムハンマドのスンナ(言行)に関する伝承(ハディース)を求めて,全イスラム世界から学者がこの地に遊学した。ハディース学,言語学,法学などの分野でメディナ学派ともいうべきものが形成された。11世紀以後,アッバース朝中央政権の衰退とともに,メディナの学芸サークルの規模は小さくなったが,学問の府としての伝統は消えず,今日にいたっている。
10世紀半ば以後,メディナはメッカとともに,シリア・エジプトを支配した王朝の保護下に入ることが多かった。974・975年,ファーティマ朝が二聖都を保護下に置いていた時代に,預言者のモスクを中心とする市街を囲む城壁が初めてつくられ,以後何回か改修・拡大された。16世紀からはオスマン帝国の支配下に置かれ,中央から役人が派遣されてきて統治にあたった。1908年,オスマン帝国政府はヒジャーズ鉄道をシリアからメディナまで開通させたが,メッカまで延長するという所期の目的は達せられなかった。
第1次世界大戦中,オスマン帝国政府はメディナに守備隊を置いてヒジャーズ地方の押えとしていたが,メッカのシャリーフ,フサインの反乱に遭って19年守備隊は引き揚げ,以後メディナはフサインの統治下に入った。24年以後は,フサインをアラビア半島から追ったサウード家の領土に組み込まれ,現在ではサウジアラビア王国のメディナ州の州都となっている。
メディナとその郊外は,イスラム時代になってから,メッカとともに聖域(ハラーム)とされ,そこでの流血は禁じられ,異教徒の立入りも禁じられている。メディナへの巡礼(ハッジュ)は義務づけられていないが,メッカ巡礼の際にメディナの預言者のモスクに立ち寄る巡礼者は多い。
執筆者:後藤 晃
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
サウジアラビア北西部の宗教都市。メッカの北約340キロメートルに位置する。人口84万3000(2003推計)。古くはヤスリブYathribとよばれたオアシス農業地で、交通の便もよくユダヤ人も多く居住していた。622年、ムハンマド(マホメット)がメッカの異教徒たちによる迫害を逃れてこの地に聖遷(ヒジュラ)してから、メッカに次ぐイスラム教第二の聖地となり発展した。メディナはアラビア語ではマディーナMadīnahとよぶが、これは「預言者の町(マディーナ・アン・ナビー)」の略である。ムハンマドの没(632)後も初代カリフから第3代カリフまでは政権をここに置いた。市内には「預言者のモスク」とよばれるモスク(マスジッド)があり、その一隅にムハンマドの墓廟(ぼびょう)がある。メッカへの巡礼の前後、巡礼者はかならずメディナ参りをする。メッカ同様、非イスラム教徒は立ち入り禁止だが、メッカと異なり平地に位置するため遠景は望める。周辺はナツメヤシの大産地である。
[片倉もとこ]
メディナの古名ヤスリブは、2世紀のプトレマイオスの地図や、古代南アラビアの碑文に現れ、町の起源は古くさかのぼることは想定できる。しかし、その歴史が明らかになるのは6世紀末からである。その時期、メディナには、かつて南アラビアから移動してきたアラブと意識する人々と、ユダヤ教徒と意識する人々がいた。前者は内戦を繰り返し、622年、イスラムを受け入れ、預言者ムハンマドを迎えることによって内戦を終結した。以後メディナのアラブはムハンマドの下にまとまり、ユダヤ教徒を追い、外部のイスラム教徒を受け入れて発展した。
ムハンマド没後も、メディナは正統カリフの政治の根拠地で、ここからの指令でイスラム教徒は広大な地域を征服、支配した。ウマイヤ朝以後、政治の中心はアラビアを離れたが、メディナはメッカとともにイスラムの二聖都としての地位を保った。またイスラムの学問の中心地の一つとしての地位も長く保った。1924年以後は、メッカとともにサウジアラビア王国の領土に組み込まれている。
[後藤 明]
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正しくはマディーナ。アラビア半島,ヒジャーズ地方の都市。622年にムハンマドがメッカからこの地にヒジュラを行った。ムハンマドのモスクと墓とがあり,メッカにつぐイスラームの聖地とされる。1924年,サウジアラビア王国領に編入された。
出典 山川出版社「山川 世界史小辞典 改訂新版」山川 世界史小辞典 改訂新版について 情報
出典 旺文社世界史事典 三訂版旺文社世界史事典 三訂版について 情報
「メジナ」のページをご覧ください。
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
…ヨーロッパ風の新市街の発展した今日でも,中庭型住居は中東地域に広く見られる。とくに北アフリカのマグリブ地方では,中庭型住居の密集する旧市街は〈メディナmadīna〉(アラビア語で〈都市〉の意味)と呼ばれ,伝統的な中東の集落形態をよく示している。このほか,乾燥地域を主とする中東においても,山岳地帯や大河の湿地帯といった自然条件の下にある地域があり,そこでも特異な自然条件に対応した居住形態が見られる。…
…それゆえ,彼と信徒への迫害は急速に厳しくなっていった。 622年,ムハンマドと70余名の信徒とその家族がメッカを棄て,メディナに移住した。彼は移住から死までの11年余りの期間に,メディナを中心とする教団国家を建設した。…
※「メディナ」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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