アメリカの大手医薬品企業。創業は1668年にドイツのダルムシュタットでメルク一族が薬局を買収したときにさかのぼる。1827年、化学者リービヒの協力を得て、モルヒネなどの医薬品の製造を開始。輸出も広く行われたが、1880年代にはアメリカ市場の開拓に力を入れ、1887年にニューヨーク支店を開設した。1891年ニューヨークに合名会社メルクMerck & Co.を設立、これが現メルクの直接の創立企業となる。1903年ニュー・ジャージー州ローウェイで医薬品製造を開始、1908年には株式会社に改組した。第一次世界大戦にアメリカが参戦したため、アメリカに住むドイツ国籍のメルク一族は1919年にアメリカ人投資グループへ株式を預けて、ドイツ法人のメルク社から法的に独立することで資産接収を回避した。
[田口定雄]
独立企業となったメルクは1927年に化学会社のPWRを買収、1933年ローウェイに近代的な研究所を開設し、有能な研究者を集めて発展の基礎を築いた。翌1934年、現社名に改めて再出発となる。1935年にはビタミンB1合成に成功、第二次世界大戦中はペニシリンの生産技術やストレプトマイシンの開発など多くの研究成果をあげ、その後1960年代にかけて高血圧・心臓病薬や関節炎の鎮痛・抗炎症剤、各種ワクチンなどの新薬を継続的に世に送った。1953年、1860年設立の名門医薬品企業シャープ・アンド・ドームSharp & Dohmeを買収して販売力を強化。1950年代なかばからは海外事業を本格化し、日本でも医薬大手の万有製薬(1915年創業)と合弁事業で提携した(1984年に過半数株式を取得して子会社化)。
[田口定雄]
1960年代後半から1970年代にかけて多角化にも乗り出し、1968年に水処理企業のカルゴン社、1972年特殊化学品のケルコ社、1974年家禽(かきん)育種のハッバード・ファーム社、1978年イギリスの七面鳥繁殖種大手ユナイテッド・ターキー社などを買収するが、水処理と化学品事業は1990年代に撤退。他方、1980年代から他社との戦略提携を進めた。1982年スウェーデンのアストラ社(現アストラゼネカAstraZeneca)との研究・販売提携を皮切りに、1989年にはジョンソン・エンド・ジョンソンとOTC薬(市販薬・大衆薬)の開発と販売で合弁会社を設立した。1991年、大手化学企業デュポンとも新薬開発と販売で合弁会社を設立している。1994年、カナダのコノート(現サノフィ・アベンティス)とヨーロッパにおけるワクチンの販売で合弁会社を設立。1997年フランスのローヌ・プーラン(現サノフィ・アベンティス)と折半出資で動物薬事業を統合したメリアル社を設立、動物薬最大手となる。また2000年、アメリカのシェリング・プラウSchering-Plough Corp.(当時)とコレステロール管理、呼吸器治療分野の新薬開発で提携した。
[田口定雄]
メルクは1980年代末からのアメリカにおけるマネージド・ケア(医療費高騰に対処した会員制の保健医療団体の活動)の普及に対応するため、1993年薬剤給付管理サービスの最大手メドコMedcoを買収して同事業に参入した。2001年までに、サービス対象人員を3300万人から6500万人に倍増し、売上げは22億ドルから260億ドルに拡大して医薬品事業をしのぐ規模となったが、利益率や業態が異なる両事業兼営の矛盾も拡大したため、2003年メドコを分離した。
2001年の売上高は477億1570万ドル、純利益は72億8180万ドルに上り、心臓血管系医薬品市場で高いシェアを誇る。医療用医薬品では脂質異常症治療薬「ゾコールZocor」の売上げ67億ドルを筆頭に、関節炎鎮痛剤「バイオックスVioxx」、高血圧薬、骨粗鬆症(こつそしょうしょう)薬、アレルギー性鼻炎薬など20億ドル前後の主力5品目が成長を支えている。なお、デュポンとの合弁事業は1998年にデュポンがメルク持分を買収して解消されたが、共同開発の心臓病薬「コザールCozaar」の権利はメルクに帰属し、北アメリカの利益は折半されている。
[田口定雄]
2009年、メルクはシェリング・プラウを411億ドルで買収した。これにより世界的に商号が統一され、アメリカとカナダでは「Merck」、その他の地域では「MSD」が使用されることとなった。2009年のメルクの売上高は274億2830万ドル、純利益は128億9920万ドル、総資産は1120億8970万ドル。なお、日本の万有製薬は2004年(平成16)にメルクの完全子会社となったが、親会社の統合に伴い、2010年10月にシェリング・プラウの日本法人と統合し、MSDとなった。MSDの資本金は263億4900万円、従業員数約4400人(2010年10月時点)。
[編集部]
ドイツの批評家、小説家。ダルムシュタット生まれ。鋭い批判精神で幅広い評論活動を展開、ヘルダーや若きゲーテに強い影響を与えた。若き日の旅の途上でメルクを訪れたゲーテは、その風貌(ふうぼう)をメフィストフェレスの姿に表したともいわれる。『フランクフルト学術通報』やウィーラントの『ドイチェ・メルクール』誌(1773刊)などに風刺的な詩や寓話(ぐうわ)、短編小説を書いて、市民的自由のために闘い、芸術家を擁護し、また鼓舞した。事業に失敗して自殺。主著に没後刊行された『文芸評論集』(1840)がある。
[今泉文子]
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
(2015-10-7)
…上流のパッサウからドナウ川に沿って下ってイップスYbbsをすぎると,ワインの産地ワッハウ谷に入ってくる。9世紀のワイテンエックの古城の廃墟を左岸に見て,しばらくするとメルクMelkの町に着く。ドナウ川右岸の断崖50m上にそびえる白亜の建物は,ベネディクト会修道院(メルク修道院)であり,バロック建築では最も壮麗なものの一つである。…
※「メルク」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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