改訂新版 世界大百科事典 「医薬品工業」の意味・わかりやすい解説
医薬品工業 (いやくひんこうぎょう)
日本の医薬品工業は第2次大戦後,急成長をとげてきた。1950年の生産額319億円が70年に1兆円を超え,81年には3兆6800億円,95年には6兆1680億円に達した。このような急成長の原因としては,所得の上昇や衛生意識の向上のほか,1961年から国民皆保険制度(国民皆年金・皆保険)が発足したことがあげられる。医薬品製造事業所は約2000社あるが,その大半は製剤,小分けを主にする零細企業である。医薬品製造企業(製薬会社)には,専業企業のほかに,化学,食品などの異業種から進出した兼業企業(明治製菓,協和醱酵工業,呉羽化学工業など),外資系企業(日本ロシュ,日本チバガイギー,台糖ファイザー,日本ヘキストなど)がある。売上高からみると,武田薬品工業が最大で,三共,山之内製薬,藤沢薬品工業,塩野義製薬などが続く。大衆薬のトップ・メーカーは大正製薬である。なお日本では,医薬品の資本自由化が輸入販売業については73年に,製造業については75年に実施され,現在外資系企業が100社ほどある。
医薬製品の種類はきわめて多い。薬価収載品目で約1万3000あり,大手メーカーでも,自社で製造しうるのは,せいぜい数百種にすぎない。このため,医薬品全体でみると企業の上位集中度は低いが,品目別にみると集中が進んでいる。大手メーカーは,比較的量のまとまるものをみずから生産し,需要量の小さいものは中小メーカーから仕入れて販売している。薬効大分類別生産額の内訳では,循環器官用薬が16%と最も多く,中枢神経系用薬,消化器官用薬,抗生物質製剤などが続く。最近は生物学的製剤(血液製剤,ワクチン等)や腫瘍用薬(抗癌剤等)の伸び率が高い。医薬品はまた医療用医薬品と一般用医薬品(いわゆる大衆薬)とに大別でき,前者は医師の指示のもとで使用され,後者は一般小売店で消費者が自由に購入できる。第2次大戦直後は大衆薬のウェイトが過半を占めていたが,(1)1961年から国民皆保険制度が発足し,しかも医療費のうち患者の負担がしだいに軽減され,医師にかかりやすくなったこと,(2)後述する薬価差益の問題から医療機関が薬の過剰投与をしがちであったこと,(3)1956年のペニシリン・ショック事件,61年のサリドマイド事件,65年の風邪薬アンプル剤事件,70年のキノホルム事件など薬禍問題が相次ぎ,大衆薬に対する不信が生じたこと,などの理由から,相対的に医療用医薬品のウェイトが高まった。近年の両者の比は生産額ベースで,医療用医薬品85%,大衆薬15%となっている。
医療用医薬品のほとんどは健康保険制度に組み込まれており,医療機関が治療に用いた医薬品の代金は,薬価基準で保証されている。このため,購入価格が保険請求価格(薬価基準)より安ければ,それだけ医療機関の収入が増える。こうした構造のもとで,製薬企業は販売拡大のため値引競争に走りがちとなり,他方,医療機関は収入を増やそうと大量に薬を投入する傾向が生じた(いわゆる薬漬医療)。医薬品業界において値引販売が常態化しているもう一つの原因に,他企業が類似製品を簡単に製造できることがある。すなわち,新薬開発にはかなりの年数と費用がかかるが,すでに明らかにされた薬効・成分に応じて類似のものを生産することは比較的やさしく,設備投資も少額で足りる。したがって特許期限が切れると薬効のほとんど等しい医薬品がつぎつぎと製造販売される傾向があり,先発メーカーにとってみると,開発コストを回収しにくい傾向があった。こうした状況がまた一面で日本の医薬品メーカーの新薬開発意欲をそいできたが,従来の製法特許に代わる76年スタートの物質特許制度によって,改善が図られた。
研究開発の推移
日本の医薬品メーカーは,企業により相違はあるものの,世界的にみると,これまでおしなべて新薬開発力に劣っていた。第2次大戦中から戦後にかけて,欧米では軍需産業の一環として新薬開発に莫大な投資がなされた。ペニシリンの実用化はその最大の成果である。アメリカでは,その後も豊富な研究資金とドイツからの亡命者を含む科学者を背景に,大型新薬がつぎつぎと開発された。日本ではこの間,研究開発の空白期間が生じていたので,戦後の医薬品産業は,欧米諸国に追いつくことを当面の目標とし,欧米から新薬を競って導入する形でスタートした。このため日本の医薬品メーカーは,主として販売力の強化に力を注ぎ,新薬開発にはあまり力を入れなかった。日本の新薬開発のための本格的な研究所設立は1958年で,武田薬品中央研究所が第1号である。65年前後には他社も相次いで研究所を設立し,新薬開発が本格化したのは70年代に入ってからであった。しかし,国民医療費が増大し,保険制度の維持が難しくなってきたことや,企業の開発力を欧米並みに高める必要性が認識されるようになって,80年代に入ると医療制度が見直され,既存の医薬品の薬価基準が引き下げられる一方,1975年特許法改正が公布されて翌年1月から物質特許制度がスタートし,新薬の収益性が確保されるようになった。このため,従来の価格競争に代わって,新薬開発力が競争力のポイントになってきた。開発力の劣るメーカーは存立しにくくなっており,開発力のある外資系企業や他産業からの参入企業と連携するなど,業界再編成が進行しつつある。
日本企業の新薬開発は,スタートが遅れたものの,制癌剤や抗生物質など欧米企業の研究開発が手薄な分野に力を集中することによって,成果を生むようになった。藤沢薬品工業や山之内製薬のセフェム系抗生物質は70年代初めから海外に技術輸出され,80年代に入ると第2,第3世代の抗生物質の開発が進んだが,この分野では日本が圧倒的に世界をリードしている。医薬品の技術貿易動向をみると,1951-71年の累積で,輸出件数91,輸入件数248と大幅な入超である。しかし71-80年では,輸出件数149,輸入件数140と逆転するに至り,技術力の向上がうかがえる。さらに今後も,日本の新薬開発力は高まると予想される。というのは,医薬品工業の基礎技術を大きく変えるといわれているバイオテクノロジーにおいて,日本には,みそ,しょうゆなど,その重要な柱の一つである発酵技術の蓄積があるからである。冒頭に記したように,食品,繊維,化学など,発酵技術の蓄積をもつ異業種企業も,この分野に進出してきている(医薬品の貿易についてみると,1995年の輸出額は512億円,輸出先はアメリカ,中国,ドイツなど。輸入額は5891億円,輸入先はドイツ,アメリカ,イギリスなど)。
執筆者:富沢 このみ
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報