免疫学者。ロンドンに生まれたが、両親はともにデンマーク人で、デンマークとイギリスの国籍をもつ。オランダのライデン大学で物理学を学んだが、デンマークのコペンハーゲン大学に移り、医学に転向、1951年に卒業した。デンマーク国立血清研究所、カリフォルニア工科大学、世界保健機関(WHO)で研究生活を送り、1960年にジュネーブ大学の生物物理学教授に就任した。その後、ピッツバーグ大学微生物学主任教授(1962~1966年)、ドイツのヨハン・ウォルフガング・ゲーテ大学実験治療学教授(1966~1969年)、バーゼル免疫学研究所長(1969~1980年)、パスツール研究所免疫学特別顧問(1981~1982年)を歴任した。
免疫システムの解明に取り組み、1955年に生体内には抗体を産生する細胞が先天的に存在するという「抗体形成の自然選択説」を提唱した。1971年には細胞が抗原に反応するリンパ球にかわっていく抗体産生のメカニズムを示した「体細胞変異理論」を発表し、さらに1974年には、免疫系は複数の抗体が相互作用するネットワークを形成しているという「ネットワーク説」を提唱した。これら一連の「免疫系の発達と制御の特定性に関する理論」を確立したことにより、1984年にノーベル医学生理学賞を受賞した。モノクローナル抗体の生産の原理を発見したG・J・F・ケーラー、C・ミルスタインとの同時受賞であった。
[編集部]
『石田寅夫著『ノーベル賞からみた免疫学入門』(2002・化学同人)』
ドイツの体操家。ドイツの体操をツルネンTurnen(ドイツ式体操)として発展させた。彼は作業の形式より、むしろ量を重視した巧技的な運動を選んだ。1811年ベルリン郊外のハーゼンハイデにドイツで初めて体操場を開き、競走、跳躍、闘技、登はん、懸垂、耐久力と闘争精神を形成させる自然で遊戯的な運動を採用した。最初は自然の障害物を使用していたが、のちに鉄棒、平行棒、木馬などの器具を考案した。彼はとくに、体操を通して青少年に力と勇気を与え、男性的な若者を養成することに目標を置き、ドイツ式体操として、スウェーデン体操とともに世界の二大潮流をなした。
またツルネン運動は「ドイツ統一と国民教育」を目標に掲げたため、学生たちに影響を与えた。そのため、ヤーンは逮捕されたこともあるが、のち再評価され、1840年鉄十字勲章を受け、後世に「ドイツ体育の父」とたたえられた。
[上迫忠夫]
ドイツの劇作家、小説家。ハンブルク生まれ。一貫して戦争を嫌い、両次世界大戦中は、ノルウェー、スイス、デンマークに亡命。25歳のときに戯曲『牧師エフライム・マグヌス』(1919)でクライスト賞を受賞。その後、悲劇『メデア』(1926)や長編小説『ペルージャ』(1929)などを次々と発表し、表現主義作家として名をあげる。代表作は三部作『岸辺なき流れ』(1949~61)。同性愛、近親相姦(そうかん)、動物偏愛などをモチーフに、人間存在を一個の肉とみなすところから生と死の謎(なぞ)めいた深淵(しんえん)を描き出している。
[今泉文子]
『種村季弘訳『十三の無気味な物語』(1984・白水社)』
ドイツ国民体育の確立者。ハレ,ゲッティンゲン,グライフスワルトの諸大学で古代言語学,歴史,神学を学ぶなかで,ドイツ国民への愛情とドイツ統一のための戦いを生涯の目標と認識するようになった。これはヨーロッパ征服をめざすナポレオンに対抗することでもあった。J.C.F.グーツ・ムーツの《青年のための体操》に触発されて,ドイツ国民の精神と身体の涵養のために体操を役だてようと考え,1811年ベルリン郊外のハーゼンハイデに体操場を開設,その活動をトゥルネンTurnenと名づけた。トゥルネンでは水平棒,平行棒,鞍馬(あんば),平均台などの器械運動を行い,E.W.B.アイゼルンと《ドイツ体育論》(1816)を著し,今日の器械体操を基礎づけた。このトゥルネン運動は〈ドイツ統一と国民教育〉を目標にかかげ,学生たちに思想的な影響を与え,愛国的秘密結社も生まれた。その後,メッテルニヒによる反動期を迎え,プロイセンの愛国者運動であるトゥルネンが禁止され,1819年ヤーンは逮捕された。25年に無罪となり,むしろ彼の活動が再評価され,40年に鉄十字勲章を受けた。42年の〈体育勅令〉でトゥルネン運動が再開され,後世〈ドイツ体育の父〉とたたえられた。49年には国民会議議員となった。
執筆者:広畑 成志
ドイツ表現主義の劇作家,小説家。ハンブルク近郊に生まれ,高校卒業後第1次大戦に反対の意思を示すためノルウェーに亡命。亡命中に書いた一連の戯曲中《牧師エフライム・マグヌス》(1919)によりクライスト賞を受賞した。20年代に長編小説《ペルージャ》(1929)を書く。またオルガン製作および演奏活動のかたわら信仰結社〈ウグリノUgrino〉を組織した。第2次大戦中はデンマークに亡命,大作《岸辺なき流れ》3部作(1949-61)を書きついだ。戦後は原水爆禁止運動に参加する一方で,バッハ以前のオルガン曲の楽譜を精力的に出版した。作品にはほかに《鉛の夜》(1956),《十三の不気味な物語》(1963)などがある。
執筆者:種村 季弘
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…この時点ではまだ徒手体操も器械体操も考えられておらず,視覚や聴覚などの感覚訓練をも含む広義の身体運動を体操と考えていた。今日の体操競技に発展した器械体操は,F.L.ヤーンによって考案されたものであるが,彼は体操ということばをギムナスティクGymnastikからトゥルネンTurnenに改め,統一ドイツ国家を建設するための青少年教育の意味で用いた。したがって,その内容には運動技術の習熟や意思の鍛錬を目的にした器械体操や行軍ばかりでなく,フォークダンスや政治討論集会なども含まれており,今日の体操の概念とはかなり異質なものを含んでいた。…
…英語ではホリゾンタル・バーhorizontal bar(水平棒)という。近代的な体操の創始者の一人とされるドイツのF.L.ヤーンが,1812年にハーゼンハイデの体操場に設置したレックReckが,その原型とされる。レックは太めの木製の丸太棒で,懸垂や上がり方や回り方や下がり方などの技が生み出された。…
…体操は古代ギリシア以来英語にすればgymnasticsだが,ドイツで19世紀以降行われた体操はトゥルネンTurnenと呼ばれた。これは,ナポレオンに支配されたドイツの解放運動の一環としてF.L.ヤーンが始めた身体運動中心の青少年教育活動である。ベルリン郊外のハーゼンハイデに運動場を開設(1811)したヤーンは,伝統的な運動や遊戯のほかに鉄棒,平行棒などを加え,練習方法も自由な種目を行う時間と規定された運動をする時間に分けるなど工夫し,多面的な運動による愛国教育を行った。…
※「ヤーン」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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