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ラブロフ Lavrov, Pëtr Lavrovich

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説

ラブロフ
Lavrov, Pëtr Lavrovich

[生]1823.6.14. メレホボ
[没]1900.2.6. パリ
ロシアの革命家,哲学者。ナロードニキの代表的理論家でマルクスらとも親交が深かった。 1870年亡命先のパリで発表された『歴史書簡』 Istoricheskie pis'ma (1868~69) は民衆に対するインテリゲンチアの歴史的義務を説き,「人民のなかへ (ブ・ナロード) !」運動の福音書となった。 73~76年農民革命を志向する新聞『前進!』 Vprëd!を発行した。

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世界大百科事典 第2版の解説

ラブロフ【Pyotr Lavrovich Lavrov】

1823‐1900
ロシアのナロードニキの理論家。プスコフ県の貴族出身。1844年から66年までペテルブルグのミハイル砲兵学校で数学教師を務める。1859年《人格論概要》と題する主体性重視の実践哲学を発表し,60年からチェルヌイシェフスキーピーサレフらと哲学論争を行う。66年逮捕されボログダに流刑,68‐69年に歴史発展における主体的・批判的に思考する個人の重要性を論じた代表作《歴史書簡》を発表。これを70年代のナロードニキは〈革命の福音書〉と呼ぶ。

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日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

ラブロフ
らぶろふ
Пётр Лаврович Лавров Pyotr Lavrovich Lavrov
(1823―1900)

ロシアの革命家、ナロードニキの理論的指導者。プスコフ県の地主貴族の家柄に生まれ、ペテルブルグの砲術学校を卒業後、軍の学校で数学を教えた。しかし、チェルヌィシェフスキーの救援活動から当局に目をつけられ、1867年ボログダ県に流刑となった。この流刑中に『歴史書簡』を執筆した。そのなかで革命闘争における「批判的に思考する個人」の重要性を説いて、ナロードニキの運動に大きな影響を与えた。1870年流刑地を逃亡してパリへ亡命し、第一インターナショナルに加盟するとともに、パリ・コミューンにも積極的に参加した。1871年コミューンによってロンドンに派遣され、そこでマルクスおよびエンゲルスと知り合う。ラブロフは、革命的プロレタリアートが社会変革の中心勢力である西ヨーロッパと違って、遅れたロシアではインテリゲンチャが人民のなかに社会主義思想の宣伝をすることによって、社会革命の準備をすべきであるとして、1873~1876年に雑誌『前進!』を発行した。しかし、1880年代になると革命党の政治闘争=テロの重要性を認め、「人民の意志」党と提携して『人民の意志通報』の編集にあたった。1900年亡命先のパリで死去。[外川継男]

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世界大百科事典内のラブロフの言及

【ナロードニキ】より

…その一つ,チャイコフスキーNikolai Vasil’evich Chaikovskii(1850‐1920)のサークルから70年代の主要な活動家がつくり出された。ラブロフの《歴史書簡》から,批判的に思惟しうる知識人は民衆に債務を返さなければならないという考えを与えられた学生たちは,バクーニンの農民反乱の切迫性の考えにも動かされ,74年,〈人民の中へ〉の運動をおこした。数千人が職人や人夫に姿をかえて村々をまわり,革命を宣伝しようとしたが,農民に受け入れられずに終わった。…

※「ラブロフ」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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