デジタル大辞泉
「ラージン」の意味・読み・例文・類語
ラージン(Sten'ka Timofeevich Razin/Stepan Timofeevich Razin)
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ラージン
- ( Stjepan(Stjen'ka) Timofjejevič Razin ステパン(ステンカ)=チモフェービチ━ ) ロシアの農民反乱の首領。ドン‐コサックの長。一六七〇~七一年の農民反乱を指導したが、政府軍に敗れ、捕えられて刑死。(一六三〇頃‐七一)
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ラージン
Razin, Stenka; Stepan Timofeevich Razin
[生]1630頃.ドン川流域ジモベイスカヤ
[没]1671.6.16. モスクワ
ロシアの農民戦争 (1670~71) の指導者。富裕なドン・コサックの家に生れ,1662~63年ヘトマン (首領) としてクリミア・タタールやトルコに遠征。モスクワ政府の抑圧政策,特に彼の兄イワンに対する Yu. A.ドルゴルーキー公の残虐な処罰に憤って反乱を決意。 67年下層コサック (ゴルイチバ) を率いてボルガ川流域,カスピ海沿岸に遠征,ロシア政府軍やサファビー朝イラン軍と戦った。次いで 70年春 7000のコサックを率いて再度ボルガ流域に向い,ツァリツィン (現ボルゴグラード) ,アストラハン,サラトフを奪取。農民や都市下層民に貴族や官僚との闘争を呼びかけつつボルガを上り,同年 10月,約2万にふくれ上がってシンビリスクに迫ったが,皇帝アレクセイ1世に派遣された,ユーリー・バリャチンスキー指揮下の政府軍に惨敗。ラージンは負傷してドンに逃れ,カガリニツクで再起をはかったが,71年4月富裕なコサックらの裏切りによって捕えられ,政府軍に引渡された。モスクワの赤の広場で処刑された。民謡や伝説などで英雄とたたえられ親しまれている。
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ラージン
Stepan (Stenka) Timofeevich Razin
1630~71
ドン・カザークの首領で,1670~71年の反乱の指導者。67年貧乏カザーク軍を率いてヴォルガ川からヤイク方面,ついでカスピ海南岸に遠征。反乱を起こし,捕えられて刑死。
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世界大百科事典(旧版)内のラージンの言及
【土地台帳】より
…【岩見 宏】
[中東・イスラム社会]
他地域にもみられるように,為政者によって農業生産の実態をつかみ,的確な租税徴収を実施するために検地が行われ,土地台帳が作成された。1298年にマムルーク朝支配下のエジプトで実施されたスルタン,ラージン(在位1297‐99)の行った検地の結果作成された土地台帳qānūn al‐bilādには,耕地名,耕地面積,農産物の種類とその状態および土地の種類が記載され,それに基づいて軍人たちに土地の分与が行われた([イクター]制)。マムルーク朝(1250‐1517)の影響を受けたオスマン帝国(1299‐1922)では15世紀前半以来,アナトリアとバルカン領土において組織的に検地が行われて土地台帳tapu defteriが作成され,それに基づいてシパーヒーに〈封土〉が割り当てられた([ティマール]制)。…
※「ラージン」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」