リトビノフ(読み)りとびのふ(英語表記)Максим Максимович Литвинов/Maksim Maksimovich Litvinov

デジタル大辞泉 「リトビノフ」の意味・読み・例文・類語

リトビノフ(Maksim Maksimovich Litvinov)

[1876~1951]ソ連政治家。1930年に外務人民委員(外相)となり、近隣諸国との不可侵条約締結国際連盟への加盟など協調外交推進枢軸国に対しては集団安全保障を主張した。1939年、解任

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精選版 日本国語大辞典 「リトビノフ」の意味・読み・例文・類語

リトビノフ

(Maksim Maksimovič Litvinov マクシム=マクシモビチ━) ソ連の外交官。革命後初代駐英大使を勤め、一九三〇年から三九年にかけては外相として隣接諸国との不可侵協定の締結、国際連盟への加盟など平和・協調外交を展開、のち駐米大使となった。(一八七六‐一九五一

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「リトビノフ」の意味・わかりやすい解説

リトビノフ
Litvinov, Maksim Maksimovich

[生]1876.7.17. ポーランド,ビャリストク
[没]1951.12.31. ロシア,モスクワ
ソ連の外交官。本名 Meir Walach。ユダヤ人中流階級の出身。 1898年ロシア社会民主労働党に加入。 1901年に投獄され,翌年脱獄亡命。革命成功まで国外で活動。 19年帰国して外務人民委員部に参加,その後長期にわたって外交面で活躍。 21年外務人民委員代理。 22年ジェノバ会議,23年ハーグ国際会議のソ連代表,27~30年ジュネーブ海軍軍縮会議予備委員会のソ連首席代表。 30年外務人民委員。 33年米ソ国交樹立交渉を成功させた。 34~38年国際連盟ソ連代表,この間ファシズムに対する国際的統一戦線を呼びかけ,リトビノフ外交の名を国際的に高めた。 39年5月ソ連外交政策の急転に伴い,外務人民委員の職を V. M.モロトフに譲った。 41年アメリカ駐在大使として公職に復帰。 43年8月帰国し,46年まで外務人民委員代理をつとめた後,引退

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「リトビノフ」の意味・わかりやすい解説

リトビノフ
りとびのふ
Максим Максимович Литвинов/Maksim Maksimovich Litvinov
(1876―1951)

本名ワラフMeer Genoh Moissevich Vallah(英語ではMeyer Wallach)。ソ連の政治家。ロシア領ポーランドのベロストク(現ポーランドのビャウィストク)のユダヤ人の家庭に生まれる。父は製造販売業、のちに銀行員。実科学校を卒業後、帝政ロシア軍隊に入る。1898年にロシア社会民主労働党に入党。1901年に逮捕され、1902年に脱獄、亡命。1917年の革命をイギリスで迎え、最初の駐英ソビエト大使に任命される。1918年に帰国。1921年に外務人民委員代理、1930年に外務人民委員(外相)となり、1934年に党中央委員に選ばれる。1939年に外務人民委員を解任されたが、1941年に独ソ戦勃発(ぼっぱつ)後、外務人民委員代理兼駐米大使として復帰。1943年以降外務人民委員代理専任。1946年8月に引退。アメリカ、イギリス、フランスなどとの関係の改善・強化に努める。1951年12月31日に死去

中西 治]

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