リベリア(読み)りべりあ(その他表記)Liberia

翻訳|Liberia

共同通信ニュース用語解説 「リベリア」の解説

リベリア

大西洋に面し、人口は約470万人。ダイヤモンドや金など天然資源に恵まれるが、国民の大半が貧しい生活を送る。1980年にドウ曹長がクーデターで政権を奪取し、大統領に就任。チャールズ・テーラー氏率いる武装勢力が89年に蜂起し内戦になった。テーラー氏は97年に大統領に就いたが、反政府勢力との戦闘が継続。同氏が2003年に亡命し内戦が終結するまでの14年間に約27万人が死亡した。(モンロビア共同)

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精選版 日本国語大辞典 「リベリア」の意味・読み・例文・類語

リベリア

  1. ( Liberia ) 西アフリカの南西部にある共和国。一八二二年からアメリカ合衆国の解放奴隷が入植し、一八四七年独立。ゴム、鉄鉱石を産出。便宜置籍船が多いため、世界的な船舶保有国となっている。首都モンロビア。

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「リベリア」の意味・わかりやすい解説

リベリア
りべりあ
Liberia

西アフリカ南西部の国。正称はリベリア共和国Republic of Liberia。南西は約560キロメートルの海岸線で大西洋に面し、北西はシエラレオネ、北はギニア、東はコートジボワールに接する。1847年7月、アメリカから移住したアフリカ系解放奴隷が建設した、アフリカ最初の共和国として知られる。面積11万1369平方キロメートル(2020)、人口291万(2000推計)、347万6608(2008センサス)。首都はモンロビア。

[中村弘光]

自然

大西洋沿岸の平坦(へいたん)地帯は16~80キロメートルの幅で、マングローブ沼地、環礁、入り江がつながり、その内陸部にニンバ山地、ウティビ山地などの高原地帯がある。大西洋に直角に流入するセント・ポール川など六大河川が国土を横断している。大部分が熱帯雨林地帯であるが、北部はサバナ地帯である。気候は熱帯性で湿度が高く、年較差は小さく年平均気温は27℃前後である。年降水量は沿岸部では5100ミリメートル、内陸部では2000ミリメートルに達し、雨期(4月下旬~11月中旬)が長く、乾期(12月~3月)にはハルマッタン(サハラ砂漠の砂塵(さじん)を含む風)が吹き、涼しくなる。

[中村弘光]

歴史

リベリアの先住民は、12~16世紀に北方および東方のサバナ地帯から移動してきた人々と推定されている。1461年にポルトガル人のペドロ・ダ・シントラPedro da Cintraが来訪し、以後沿岸地帯で先住民とヨーロッパ人との間でコショウなどの取引が行われ、この地域は胡椒(こしょう)海岸とよばれた。1822年にアメリカのキリスト教団体が設立したアメリカ植民協会が、アフリカ系解放奴隷を現在のモンロビアの地域に入植させた。彼らは1847年7月26日に独立を宣言して憲法を制定、1865年までに約2万人の解放奴隷が入国した。入植者によってサトウキビ、タバコ、綿花、果樹類、野菜などが栽培され、コーヒーおよび砂糖のプランテーションが発達し、とくにリベリア・コーヒーは品質のよさで知られた。しかし、1870年代にコーヒー、砂糖はブラジルやキューバとの競争に敗れ、国家財政は破綻(はたん)し債務が累積され、国の経済は約50年間停滞した。

 1926年にアメリカのファイアストン社が世界最大のゴム・プランテーションを建設し、1934年からゴムの輸出が開始された。第二次世界大戦中にはアメリカの空軍基地が建設され、モンロビアの港湾施設がアメリカ軍によって改築された。また、1944年大統領に就任したタブマンWilliam Vacanarat Shadrach Tubman(1895―1971)による門戸開放政策(外資の導入)や国内統一化政策(入植者系住民と内陸部に住む先住民との格差の縮小)は、リベリアの経済開発に刺激を与えた。1971年タブマンが死去し副大統領のトルバートWilliam Richard Tolbert Jr.(1913―1980)が大統領に就任した。トルバートはタブマンの政策を継承し、1975年の大統領選挙では無競争で選出された。

 しかし1970年代末には、石油価格の高騰および鉄、ゴムなど輸出産品価格の下落によって経済状況が悪化した。1979年3月、国内産米の増産を意図した消費者米価の引き上げに反対して、首都モンロビアで暴動が起こり死者は100人を超えた。同年9月には進歩人民党(PPP)が結成され、1980年3月にPPPは全国ストライキを呼びかけた。トルバート政府はPPPの指導者マシューズGabriel Baccus Matthews(1948―2007)らを逮捕したが、マシューズらの裁判の直前の4月12日、内陸部の先住民クラーン出身のサミュエル・ドウSamuel Kanyon Doe(1951―1990)曹長によるクーデターが起こった。トルバートは殺害され、憲法、国会は停止され、国家救済評議会(PRC)による軍政が始まり、従来のアメリカ系支配層の一掃が図られた。

 1982年12月、PRC議長ドウは民政復帰を約束し憲法委員会を設置、1984年7月の国民投票で新憲法を制定し、新政党の結成を認めるとともにPRCを解散した。

[中村弘光]

政治

1984年制定された憲法は、1847年憲法と同様にアメリカ憲法をモデルとし、上院(26議席)、下院(64議席)の二院制をとり、立法権と行政権の分離を明確にしている。1985年の選挙では、ドウ党首の率いる国家民主党(NDPL)が、上院26議席のうち22議席、下院64議席のうち51議席を獲得。大統領選挙では、ドウ候補が50.9%の投票を獲得して当選した。この選挙の1か月後の11月には、アメリカに亡命していたキウォンパThomas Gunkama Quiwonkpa(1955―1985)准将によるクーデター未遂事件が起こり、600人に及ぶ死者を出した。キウォンパは殺害され、野党指導者は拘束された。

 1986年1月ドウが大統領に就任し、民政に復帰した。しかし国内政治は不安定な状況が続き、1988年3月には、野党リベリア統一党(UP)党首ガブリエル・クポレWilliam Gabriel Kpollehが政府転覆謀議のかどで拘束、投獄された。

 1989年12月ドウならびにクラーン人支配に反対する武装蜂起が、北東部ニンバ郡において、チャールズ・テーラーCharles McArthur Ghankay Taylor(1948― )を指導者とするリベリア国民愛国戦線(NPFL)によって開始された。NPFLは、1990年前半には首都モンロビアを除くリベリアの大半の地域を支配下に収めた。モンロビアではNPFLから分かれたプリンス・ジョンソンPrince Yormie Johnson(1952― )のリベリア独立愛国戦線(INPFL)とドウの政府軍とが対立していた。こうした混乱状態に際し、8月には西アフリカ諸国経済共同体(ECOWAS)の介入が決定。ECOWAS監視軍(ECOMOG)が派遣され、諸武装派間の調整にあたった。ドウは9月11日に、INPFLによって殺害された。同年11月22日ECOWASの支持を得て、アモス・ソーヤーAmos Claudius Sawyer(1945―2022)が暫定大統領に就任した。

 内戦終結への武装各派との交渉は、ECOWASおよび近隣西アフリカ諸国、あるいはアフリカ統一機構(OAU)などを通じて行われ、ヤムスクロ、コトヌ、ジュネーブなど各地で和平協定が選ばれた。しかし完全に戦闘が停止し、武装解除が進められるには、長い時間がかけられた。また、前大統領ドウ支持派は、1991年6月武装グループをリベリア民主統一解放戦線(ULIMO)として再編、組織した。

 1993年7月、ジュネーブにおいて国連・ECOWAS支援の下で和平会議が開催され、7月5日ベナンのコトヌで包括的和平協定が締結された。9月には、国連安全保障理事会が国連リベリア監視団(UNOMIL)の派遣を決定した。またこの協定で1990年9月に始まった暫定国家統一政府(IGNU)を再編することが認められ、1994年5月にリベリア暫定国家評議会(LNTG)が発足した。これが1995年5月には、テーラー(NPFL)が主導する暫定国家評議会(LNTG)に再編成され、ジョージ・ボーリーGeorge Eutychianus Saigbe Boley(1949― 。LPC、リベリア平和協議会・クラーン派)、アブラハム・クロマー(ULIMO―M、リベリア民主統一解放戦線―マンディンゴ派、イスラーム)らも副議長として参加した。

 1996年4月、モンロビア市内においてNPFLとULIMO―K(リベリア民主統一解放戦線―クラーン派)とが衝突し、激しい戦闘が5月末まで続いた。アメリカは在留アメリカ人保護のため艦船を派遣し、救出作戦を行った。8月に、アブジャで開かれたECOWASリベリア問題会議において、武装各派間の停戦についての合意ならびに武装解除、派閥解体、大統領選挙、議会選挙などの民政への移行までの日程が確定された。

 1997年7月19日の総選挙において、国民愛国党(NPP、旧NPFL派)が上院26議席のうち21議席、下院64議席のうち49議席を占めた。大統領選挙では党首テーラーが約66%の得票で、エレン・ジョンソン・サーリーフ(リベリア統一党、UP、15.9%)に大差をつけて勝利した。テーラーは、約8年間続いた内戦から民政への移行過程を経て、8月2日に大統領に就任した。1999年、内戦が再燃。2002年2月反政府勢力のリベリア民主和解連合(LURD)の蜂起により、国家非常事態宣言を発令(9月解除)。2003年6月には首都モンロビア近郊での政府軍と反政府軍による戦いが劇化、LURDは大統領テーラーの辞任を迫った。9月テーラーが大統領を辞任しナイジェリアに亡命、副大統領モーゼス・ブラーMoses Blah(1947―2013)が大統領に昇格した。同月、ブラー政権と反政府組織2派(LURD、リベリア民主運動=MODEL)は和平協定に調印。反政府組織2派を取り込んだ暫定政府をつくり、2005年に選挙を実施することを決めた。2003年10月暫定政府が発足、議長にジュード・ブライアントCharles Gyude Bryant(1949―2014)が就任し、ブラーは政権を譲渡した。2005年11月に行われた内戦後初の大統領選挙では、サーリーフと元プロサッカー選手ジョージ・ウェアGeorge Tawlon Manneh Oppong Weah(1966― )による決選投票が行われサーリーフが当選。アフリカ初の女性大統領が誕生した。

 外交は、建国以来アメリカとの関係が強く、第二次世界大戦後も親欧米的中立政策を堅持してきた。ドウ軍政期には一時的に社会主義圏との交流もみられたが、1973年に国交を断絶したイスラエルと1983年に復交、ふたたび親欧米的傾向を強めている。近隣アフリカ諸国との外交関係では、元大統領タブマンは汎(はん)アフリカ主義運動の穏健派の中心的指導者として、OAUの結成に寄与した(OAUは2002年7月アフリカ連合に改組)。1973年に隣国シエラレオネとともに関税同盟、共同市場を目的としたマノ川同盟(MRU)を結成し(1980年にギニアも加盟)、1975年にはECOWASの創設にも参加している。

 また1989年末からの内戦以降、ECOWAS、OAU、ならびに国際連合のリベリアに及ぼす影響力が大きくなっていること、近隣諸国とくにシエラレオネ、コートジボワールとの間に、難民移動、密輸、反政府活動をめぐっての紛争の可能性があることが注目される。

 軍隊は志願兵制で、陸軍5300人、海軍450人、総兵力5750人。2001年の国防費は推定1500万ドル。

[中村弘光]

経済・産業

経済は、人口の大半が従事する小規模自給農業と、鉄鉱石、ゴムなどの第一次産品の輸出に依存している。1926年にアメリカのファイアストン社が広大なゴム・プランテーションを開発して以来1950年代末まで、ゴムの輸出がリベリア経済の最大の支柱であった。1950年代に、鉄鉱山の開発が始まり、1961年には鉄鉱石の輸出額がゴムの輸出額を超え、1980年代には輸出総額の70%を占めた。リベリア最大の鉄鉱山は、高品位の鉄鉱石を10億ないし23億トン埋蔵すると推定されるニンバ鉱山である。ギニア国境に接したニンバ郡にあり、リベリア・アメリカ・スウェーデン鉱山会社(LAMCO)によって1963年から開発された。輸出港ブキャナンとの間にはLAMCOによって274キロメートルの鉱石運搬専用鉄道も建設された。1980年代には世界経済の不況によって、LAMCOの生産量は、1981年の1000万トンから200万トンへ急落した。ダイヤモンドはローファー川下流地域で1957年に発見され、輸出額は1973年に4940万ドル(81万2000カラット)に上昇したが、1988年には880万ドル、総輸出額の2%を占めるにとどまった。

 おもな輸出用農産物はゴムがもっとも重要で、コーヒー、ココアも輸出されている。ゴムは、ファイアストン社のハーベル、カバラの大プランテーション、グッドリッチのプランテーションが主要な生産者であったが、東南アジア(マレーシア)の生産者との競争に敗れ、ファイアストン社は、1983年にそのリベリア系株式を、ブリヂストン社(日本)に譲渡し、同年、グッドリッチ社はマレーシア系ガスリーグループにプランテーションを譲渡した。一方、リベリア人小規模生産者の多くもゴム生産を停止した。国際ゴム研究グループの推定によれば、ゴム生産量は1989年の10万6000トンから1995年には1万3000トンに低下した。コーヒー、ココアはおもに小規模農業者によって生産されている。コーヒーはロブスタ種が北部で栽培され、内戦以前には8000ないし1万トンを生産、その半分が輸出されていたが、FAO(国連食糧農業機関)の推定によれば、1994年の生産量は300トンに低下した。ココアはメリーランド州に導入されたが、内戦期に、生産量は激減した。

 貿易は、内戦直前の1989年に、輸出ではドイツ32.2%、アメリカ19.3%、イタリア15.7%、輸入ではアメリカ32.2%、ドイツ9.7%、日本8.4%であり、欧米日先進諸国が圧倒的な比重を占め、近隣アフリカ諸国との貿易額はきわめて少ない。貿易品目別にみると、輸出では鉄鉱石55.1%、ゴム28.0%、木材8.4%、輸入では機械・輸送機器31.1%、石油・同製品22.7%、軽工業品16.4%、食料16.4%がそれぞれ上位を占める。

 リベリアは便宣置籍船制度によって1992年までは、世界最大の船舶保有国であったが、1993年にはパナマに次いで第2位となった。1995年登録の船舶登録トン数は9229万1000トン(12.2%)で、パナマの9840万9000トン(14.6%)に次いで世界第2位である。しかし、これは名目上の船舶登録数の多さを示すもので、実際のリベリア船のほとんどは、アメリカ人やギリシア人など欧米の船主の持ち船である。この便宣置籍船制度による収入は、歳入の10%を占めている。

 中央銀行としてリベリア国立銀行National Bank of Liberiaがリベリア・ドル紙幣を発行している。リベリア・ドルとアメリカ・ドルとは平価で交換可能であったが、1982年から1989年に至る時期の新5リベリア・ドル貨幣の乱発により、アメリカ・ドルの退蔵化が始まり、内戦がさらにそれを悪化させた。アメリカ・ドル紙幣は、リベリア・ドル紙幣の30倍以上の交換比率となり、1996年4月から5月の戦闘時期には、72対1の比率になった。1992年1月に発行された新5リベリア・ドル紙幣(通称リバティー・ダラー)は、NPFLが非合法通貨とみなしていたが、1994年3月に暫定国家評議会(TCS)成立後、旧紙幣・新紙幣とも合法とされた。

[中村弘光]

社会・文化

住民は、約26の部族からなる先住民のスーダン系黒人が96%を占める。言語系でみれば、マンデ系(北部・西部)、クル系(東部・南東部)、メル系(北西部)に分けられる。建国時にアメリカから入植した解放奴隷の子孫であるアメリコ・ライベリアンAmerico-Liberianは人口の約3%にすぎないが、支配勢力であった。また、レバノン系移住者を中心とする外国人の勢力も根強く、おもに商工業を支配している。公用語は英語であるが、各部族語も日常的に使用される。

 宗教は31%がイスラム教、アメリコ・ライベリアンを中心に10%がキリスト教(ローマ・カトリック系がもっとも多い)、59%が部族宗教と推定(1994)されている。

 教育は、第二次世界大戦時までは公的教育の約80%が伝導団などによるものであった。現在は、7~16歳までの9年間が義務教育で、初等教育(6年間)の就学率は35%、成人識字率は、40%(男性50%、女性29%)と推定されている(1990)。高等教育機関としては、1862年にリベリア・カレッジとして創設され、1951年に改称したリベリア大学がモンロビアにある。新聞は、『デイリー・オブザーバー』(日刊紙)、『サンデー・エキスプレス』(週刊紙)などいずれも英語紙である。テレビ放送は政府系のELTV(リベリア放送システム)1局のみであるが、ラジオ放送は政府系のELBCのほか、LAMCO放送局(ニンバ)もELBCと協力して英語、リベリア諸語による放送を行っている。

 医療は、内戦前の1985年には、医師が住民9687人につき1人、病院ベッドが653人につき1台で、サハラ以南アフリカ諸国の平均を超えている。平均余命は、1990~1995年の推計で男54歳、女57歳とされ、1980~1985年推計の男50歳、女53歳より上昇している。

 1989年12月に始まった内戦によって、1990年には約100万人の難民が近隣諸国に流出した。戦闘状態の変動に伴って、難民数は増減したが、1995年1月にはギニアに47万1000人、コートジボワールに36万人、シエラレオネに1万6000人、ガーナに1万4000人、ナイジェリアに4000人のリベリア難民が流出し、また、リベリア国内にはシエラレオネ難民が約12万人流入していると、国連難民高等弁務官事務所(UNCHR)は報告している。1996年4~5月のモンロンビア近辺における戦闘は、難民数をさらに増加させ、15万ないし20万人の一般市民が死亡したと推定されている。

[中村弘光]

日本との関係

1962年(昭和37)5月に日本との外交関係が樹立され、1969年2月に在日リベリア大使館が、1973年1月に在リベリア日本大使館(1990年内戦激化のため一時閉鎖)が設置された。また、1978年8月には青年海外協力隊の派遣が決定した。経済協力では、1993年まで有償で道路建設機械購入(68億5000万円)、無償で食糧援助、モンロビア病院設立(75億3700万円)などがあり、技術協力では1958~1985年に、研修員13名、専門家29名、調査団87団、協力隊50名が派遣されている。日本との貿易は輸出が機械類など900万円、輸入が786億7900万円(2000)で大幅な輸入超過となっている。これはリベリアの便宜置籍船制度によるもので、輸入額の約80%は船舶輸入である。

[中村弘光]


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改訂新版 世界大百科事典 「リベリア」の意味・わかりやすい解説

リベリア
Liberia

基本情報
正式名称=リベリア共和国Republic of Liberia 
面積=11万1369km2 
人口(2009)=360万人 
首都=モンロビアMonrovia(日本との時差=-9時間) 
主要言語=英語,多くの民族語 
通貨=リベリア・ドルLiberian Dollar

西アフリカ南西部,大西洋に面し,アフリカで最も古い共和国。アメリカから入植した解放奴隷が樹立した国で,国名はリバティ(自由)にちなむ。

国土は北西から南東方向に海岸線に沿ってのびている。地勢は海岸から内陸に進むにしたがって高度が高まり,起伏が大きくなる。北端のギニアとの国境付近では,標高1000m前後のウォロギシ山地となる。リベリアとギニア,コートジボアールの3国の接する位置にあるニンバ山は標高1752mに達する。こうした北部の山地から幾筋かの河川が流れ下り,各地に河谷平野を形成している。海岸はところどころに入江や湿地がみられるが,全体的には単調な砂浜海岸である。気候的には国土のほとんどが熱帯モンスーン気候に属し,雨季と乾季に分かれる。4月から11月までの雨季には大西洋からの南西の季節風が吹く。全体的に高温多雨で,年降水量の多いところでは5000mmにも達する。そのため海岸地帯のすぐ背後から熱帯雨林地帯が始まり,ここから種々の木材,とくにマホガニーなどを産する。
執筆者:

人口の90%は原住のアフリカ人で,マンデ系など28の部族に分かれる。そのほかは,アメリコ・ライベリアンAmerico-Liberiansと呼ばれる,かつての解放奴隷の子孫が8%を占め,さらにアメリカ人を筆頭として,イタリア,スペイン,オランダ,イギリス,ドイツからの白人が居住する。またレバノン人が商業に従事し,ガーナ人なども出稼ぎに来ている。アメリコ・ライベリアンは,19世紀前半にアメリカから送り返されてきた奴隷の子孫で,黒人のほかに混血(ムラート)も含まれる。モンロビアなどの都市に居住し,欧米式の教育を早くから受け,ほとんどがプロテスタントで,教育水準も高いので,国の支配階層を形成した。

 原住のアフリカ人は,言語の上から四つの大きなグループに分かれる。バイ,マンディンゴなどのマンデ・タンMande-tanは,北西のシエラレオネから移住してきた諸部族を含んでおり,全体で人口は10万(1970年代。以下同じ)を数える。第2のグループはペレに代表されるマンデ・フMande-Fuで,全体の人口は40万に及ぶ。以上二つのグループはニジェール・コンゴ語派のマンデ語群に属する言語を話す。第3のグループはコートジボアールとの国境に近い東部に住むクワ語系のクルKruで,バサ,クラーンKrahnなどが代表的であり,人口は40万に達する。第4のグループは大西洋側語群に属する言語を話す人々で,ゴラやキシであるが,それぞれ人口5万の小部族である。これら原住のアフリカ人は村落に居住し,米,キャッサバなどの作物を栽培する焼畑農業に従事している。またコーヒー,カカオ,アブラヤシ,バナナ,ラッカセイなどの商品作物も栽培している。海岸に居住するクルは,船員として活躍する者も多く,また赤道ギニアのカカオやゴムの農園に出稼ぎに行っている。村落に居住する大多数の住民は伝統的な宗教を重んじているが,イスラム教徒も少数ながら東部に居住している。
執筆者: 第2次世界大戦期まで,教育はほとんどミッション系学校で行われていた。現在,6歳から16歳までが義務教育となっているが,就学率は40%であり,識字率は38.3%(1995)と推定されている。高等教育機関としてはモンロビアに国立リベリア大学(1862設立),エピスコパル・チャーチ(監督教会)系のカッティントン大学(1889設立)がある。
執筆者:

この地方に住むアフリカ人社会の古い歴史については,ほとんど知られていない。15世紀前後にヨーロッパ人が来航するようになってから,沿岸地方は胡椒海岸と呼ばれた。

 19世紀初頭,アメリカで奴隷制反対運動が活発になり,黒人解放奴隷のアフリカ再入植を企図したアメリカ植民協会によって,1822年モンロビアの町が入植の基地として建設された。町の名は当時のアメリカ大統領J.モンローにちなんで名づけられた。47年7月26日,入植者たちはアメリカ合衆国憲法に基づいた憲法を制定して独立を宣言し,ロバーツJoseph Jenkins Roberts(1809-76)が大統領になった。イギリスは翌48年に,アメリカは62年に独立を正式に承認し,財政援助を行った。独立後もアメリカからの解放奴隷の入植は続いたが,19世紀末でもアメリコ・ライベリアンの人口は約2万で,原住のアフリカ人と対立し同化は進まなかった。78年には真正ホイッグ党(TWP)による事実上の一党支配が確立した(後述するように1980年まで続く)。19世紀後半には,自国船による貿易が活発に行われ,また西アフリカにおける欧米型教育の中心地としてエリートを輩出した。

 20世紀に入って,内陸部住民による差別と圧政への抵抗が強力になり,財政状態も悪化した。1912年アメリカに負債返済のために関税徴収権限をゆだね,26年にはアメリカのゴム会社ファイヤストーン社とゴム園用地100万エーカーを99年間貸与する契約を結んで財政援助を受けた。30年代後半以降,アメリカとの関係はさらに強化され,アメリカ・ドルがそのまま公式通貨として使われた(現在まで続いている)。第2次世界大戦中の42年にはアメリカと防衛協定を結び,ロバーツフィールド空港などの施設が整備された。

 44年タブマンWilliam Tubman(1895-1971)が大統領に選出された。彼はアメリコ・ライベリアンと原住民との間における差別を縮小する政策をとり,原住民の政治的権利も認めた。経済的には門戸開放政策をとり,欧米の民間資本の積極的導入をはかった。ニンバ山地やボミ丘陵などでの鉄鉱山開発が,外国資本主導で50年代から始められた。タブマンはまたアメリカならびに西欧諸国と緊密な外交関係を保ち,反共産主義であったが,56年にはソ連とも外交関係を開いた。50年代末期からのアフリカ諸国の独立に際しても,近隣諸国との友好関係を維持し,59年にはガーナのエンクルマ,ギニアのS.トゥーレとリベリアのサニケリで会談した(この会談でアフリカ合衆国構想が出された)。またパン・アフリカニズム運動では対抗しあう諸派間の仲介役をつとめ,63年のアフリカ統一機構(OAU)設立に貢献した。

 71年タブマンの死去により,副大統領のトルバートWilliam Richard Tolbert(1913-80)が大統領に昇格した。トルバートは,すべてのリベリア人の平等を表明し,縁故主義的支配の廃止,行政の改革を進め,輸入が増加しつつあった主食の米の自給化に努力した。対外的には73年に隣国シエラレオネとマノ川同盟(マノ川は両国の国境を流れる川。のちにギニアも加盟)を結成し,地域協力を推進した。79年に入って政府は米価の値上げを発表したが,市場の女商人,学生,アメリカに留学していた学生によって1975年に組織されたリベリア進歩同盟(PAL)が,4月にモンロビアで反対デモを行った。デモには多くの失業者も参加して暴動となり,軍隊が出動して鎮圧したが,70~100名の死者があったと推定されている。デモの指導にあたったPAL,1973年に在米リベリア人によって組織された知識人層を中心とするアフリカ正義運動(MOJA)は政府批判を継続し,79年12月にPALは進歩人民党(PPP)として合法化された。PPPは80年3月にゼネストを呼びかけてトルバート体制の打倒をはかったが,党首のマシューズをはじめ指導部が逮捕された。マシューズらの裁判は4月に開かれる予定であったが,公判当日の未明,PPPに同調するドエSamuel Kanyon Doe(1952-90)曹長が軍事クーデタを決行し,大統領ら閣僚13名を処刑した。ドエはクル・グループに属するクラーンの出で,このクーデタによりアメリコ・ライベリアンによる少数支配体制は倒された。

 ドエを議長に最高機関として人民救済評議会(PRC)が設立され,新しい軍民内閣にはマシューズが外相に就任したのをはじめ,PPPやMOJAのメンバーも入閣した。81年8月,83年11月にクーデタ計画があったがおさえられた。84年7月には複数政党制をとる新憲法が国民投票で承認されてPRCは解散し,1980年のクーデタ以来の政党活動禁止が解除された。85年10月に大統領選挙,国会選挙(上院・下院)が行われ,大統領にはドエが当選,国会では両院ともドエの率いる国家民主党が大勝した。86年1月にドエが大統領に就任し,民政に復帰した。

 89年12月,テーラーCharles Ghankey Taylor(1948- )率いるリベリア国民愛国戦線(NPLF)が,かねて拠点をおいていたコートジボアールからリベリア北東部ニンバ州に進撃を始め,内戦状態となった。NPLFはニンバ州住民を加えて勢力を増し,90年の前半には首都モンロビアを除いたリベリアの大半の地域を制圧した。モンロビアでは,NPLFから分かれたリベリア独立国民愛国戦線(INPLF。指導者プリンス・ジョンソンPrince Yormie Johnson)と政府軍が対峙していた。多数の死者と難民を出す状況に対して,アフリカ諸国経済共同体(ECOWAS)は仲介に積極的姿勢を示し,90年8月にはECOWAS停戦監視団(ECOMOG)が派遣された。こうしたなか9月ドエ大統領はINPLFに殺害されて政権は崩壊,混乱が増したが,ECOWASの支持でガンビアで樹立された国民統合暫定政府(INUGU)のもと,11月ソーヤーAmos Sawyerが暫定大統領に就任した。

 何度も和平と国家再建への合意がなされたが,その間もECOMOGによる各派の武装解除ははかどらず,断続的に戦闘が続いた。96年8月にナイジェリアの首都アブジャで開かれた和平会議において,武装各派による停戦,武装解除,選挙による民主政体の選出が合意された。これにもとづいて97年7月に行われた総選挙では,国民愛国党(NPP。元NPLF勢力)が大勝。大統領選挙でもNPPのテーラーが当選し,8月に大統領に就任した。

1926年にアメリカのファイヤストーン社が広大なゴム農園を開発して以後,50年代末まで,ゴムの輸出がリベリア経済の支柱であったが,61年に鉄鉱石の輸出額がゴムの輸出額を超えた。内戦直前の88年には,鉄鉱石の輸出額が55.1%,ゴムが28.0%,木材が8.4%を占めた。鉄鉱石の開発は1951年に始まり,現在はナショナル鉄鉱石会社(85%政府所有),リベリア・アメリカ・スウェーデン鉱山会社(50%政府所有),ドイツ・リベリア鉱山会社(50%政府所有)などが生産にあたっている。しかし88年には1290万tであった生産は,内戦を経て一時は170万tまでに激減した(国連推定)。ダイヤモンドはローファー川下流に産出し,88年には輸出総額の2.1%を占めた。

 輸出農産物としてもっとも重要なゴムは,ファイヤストーン社,グッドリッチ社などが主要な生産者であったが,東南アジアのゴムとの競争に敗れ,1983年に両社は株式,プランテーションなどを譲渡した。またリベリア人小規模生産者の多くもゴム栽培を停止した。生産は89年10万6000tから95年には1万3000tまで激減した(国際ゴム研究グループ推定)。そのほかの輸出作物は,コーヒー,カカオ,アブラヤシが小農によって栽培されている。広大な熱帯雨林をもち,マホガニーなどの木材を産出する。

 リベリアは船舶に対する税金を安くしているため,外国の船主が便宜上船籍をリベリアに置くことが多く,船籍登録による収入は国家財政の約10%を占めている。この便宜置籍船制度によってリベリアは1992年まで世界一の商船保有国であるが,93年にはパナマが1位となった。95年の登録船舶トン数は9229万1000トンである。

 1960年代後半から鉄鋼山開発を中心に経済の多角化政策が進められ,64年から74年にかけてのGDP(国内総生産)成長率は年平均5.7%を記録したが,74年以降,石油価格高騰と世界市場の停滞の影響を受けた。また,80年代の政情不安,89年末からの内戦によって,経済活動はきわめてとどこおっている。1人当りGNP(国民総生産)は90年で498ドル(世界銀行推定)である。
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百科事典マイペディア 「リベリア」の意味・わかりやすい解説

リベリア

◎正式名称−リベリア共和国Republic of Liberia。◎面積−9万7036km2。◎人口−410万人(2010)。◎首都−モンロビアMonrovia(97万人,2008)。◎住民−アフリカ系95%(クペレ人25%,バサ人25%,バイ人など),アメリコ・ライベリアン2.5%,白人,レバノン人など。◎宗教−土着宗教,キリスト教,イスラム教。◎言語−英語(公用語),各民族語。◎通貨−リベリア・ドルLiberian Dollar。◎元首−大統領,サーリーフEllen Johnson-Sirleaf(2006年1月就任,2012年1月再任,任期6年)。◎憲法−1986年1月公布。◎国会−二院制。上院(定員30,任期6年と9年),下院(定員64,任期6年)。最近の選挙は2011年10月。◎GDP−9億ドル(2008)。◎1人当りGNI−140ドル(2006)。◎農林・漁業就業者比率−66.0%(2003)。◎平均寿命−男59.6歳,女61.5歳(2013)。◎乳児死亡率−74‰(2010)。◎識字率−59.1%(2009)。    *    *アフリカ西部,大西洋岸の共和国。海岸部の平野は熱帯降雨林におおわれ,内陸部はサバンナの低い高原。米国から移住してきた奴隷の子孫,いわゆるアメリコ・ライベリアンのほかクペレ,バサ,バイはじめ約30の民族が住む。農業国で,ゴムのプランテーション栽培が行われ,ほかに米,カカオ,コーヒー,ヤシ油などを産する。木材の産も多い。鉄鉱の産に恵まれ,鉄鉱とゴムが主要輸出物。船舶税が安いため外国船主の便宜置籍船が多く,登録船数は世界屈指。 かつてヨーロッパの航海者はリベリア海岸を指して胡椒海岸(日本では穀物海岸と誤訳されたこともあった)と呼んだ。1822年米国の植民協会が解放奴隷を入植させ,当時の米国大統領モンローの名をとったモンロビアの町を建設したのが国の始まり。1847年独立した。名は〈自由の国〉の意で,アフリカではエチオピアに次いで古い独立国である。1926年米国のファイヤーストーン・タイヤ社と,広大なゴム園用地を99年間貸与する契約を結んで財政援助を受けるなど,独立後も米国との関係は深い。社会の上層部を占めたアメリコ・ライベリアンが先住のアフリカ人を差別,統治してきた体制は1980年のクーデタで崩壊したが,1989年末からアフリカ人の間での民族対立が内戦に発展し,多数の死者,難民を出した。1996年各派の間で停戦協定が結ばれ,新しい国づくりがスタートした。テーラー大統領の就任後,ほどなくして戦闘状態が再燃。2003年8月同大統領はナイジェリアに亡命し,同年12月ダイヤモンド違法取引に関して国際刑事機構から指名手配された。2003年10月,反政府勢力2派が参加した暫定政権(議長ブライアント)が発足し,2005年10−11月議会選挙と大統領選挙が実施された。決選投票で大統領に選出されたサーリーフは,アフリカ初の女性大統領。
→関連項目サーリーフボウィー

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「リベリア」の意味・わかりやすい解説

リベリア
Liberia

正式名称 リベリア共和国 Republic of Liberia。
面積 9万7036km2
人口 491万3000(2021推計)。
首都 モンロビア

アフリカ大陸西部の国。北西はシエラレオネ,北はギニア,東はコートジボアールと国境を接し,南は大西洋に臨む。国土の大部分は丘陵で,沿岸の平野部は高温多湿な熱帯雨林地帯。内陸に進むにつれて森林を含むサバナとなる。熱帯季節風気候で乾季と雨季 (4~11月) が明瞭。年降水量は西部海岸で 5200mm,内陸中部で 1800mm程度。 1364~1413年フランス人が沿岸部に交易所を建設,1461年ポルトガル人,1663年イギリス人,翌年オランダ人が到来,「楽園の穀物」と呼ばれるマラゲータコショウを主とする貿易が行なわれていたことから「穀物海岸」として知られた。 19世紀,解放奴隷の入植地に選ばれ,1821年アメリカ植民協会が,アフリカ人族長からモンロビア近くのメスラド岬を譲り受け,翌 1822年最初のアメリカの解放奴隷がプロビデンス島に到着。続いて白人のアメリカ人総督が着任してしだいに入植地を拡大。 1847年入植者が共和国として独立を宣言,アフリカ初の黒人独立国となり,1945年発足の国際連合の原加盟国の一つとなった。自給農業が主で,経済は鉄鉱石,ゴム,ダイヤモンドの輸出に依存。ゴム栽培は 1920年代にアメリカ資本が着手,鉄鉱石の開発は第2次世界大戦中にアメリカの援助で開始され 1951年から輸出。ほかにカカオ,コーヒー,パーム油,木材などを産する。住民は多様で,アメリコ=リベリア人と呼ばれるかつての解放奴隷の子孫 (約3%) と約 30種のアフリカ人部族が居住。部族間の主導権争いで 1989~91年内戦が起こり,75万人がコートジボアールなどに流出,難民となった。大多数が部族固有の伝統宗教をもち,ほかはキリスト教とイスラム教。外国資本進出に有利な税制のため,便宜的に船籍をおく船舶の登録数は世界有数 (→便宜置籍船 ) 。公用語は英語であるが,部族固有の言語も広く用いられる。

リベリア
Liberia

コスタリカ北西部の都市。グアナカステ州の州都。首都サンホセの北西約 170km,グアナカステ山脈西部南麓にあり,テンピスケ川支流リベリア川にのぞむ。牧牛を中心に果樹,穀物,サトウキビなどを栽培する農業地帯の中心地で,農産物の集散を行う。鉄道は通じていないが,パンアメリカン・ハイウェーが通り,ニコヤ半島へ延びる道路が分岐する。人口2万 9751 (1991推計) 。

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旺文社世界史事典 三訂版 「リベリア」の解説

リベリア
Liberia

アフリカ大陸の西岸にある共和国。首都モンロビア
15〜16世紀からヨーロッパ人が来航して交易を行い,沿岸地域は胡椒 (こしよう) 海岸(穀物海岸ともいう)と呼ばれた。1822年アメリカの植民協会が解放奴隷を入植させ,1833年リベリア(liberty〈自由〉が語源)と命名。1847年,アフリカで最初に独立し,共和国となった。

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山川 世界史小辞典 改訂新版 「リベリア」の解説

リベリア
Liberia

西アフリカの小国。1822年,アメリカ植民協会が解放奴隷を送りこみアメリカ黒人移住区として建設され,47年にアフリカで初めて独立を宣言。現在住民の90%はアフリカ人だが,8%ほどはアメリコ・ライベリアンと呼ばれる解放奴隷の子孫。1989年内戦が始まり,停戦と戦闘再開を繰り返している。経済的に大きな困難を抱える。

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世界大百科事典(旧版)内のリベリアの言及

【便宜置籍船】より

…したがって,多くの船主は比較的自由に登録国を選択できる立場にある。こうした一般的船舶登録環境のなかにあって,例外的事例として,外国の船主による登録を受け入れるばかりでなく,登録手続がきわめて簡単で,しかも所得税や法人税をほとんど課さず,さらに乗組員の配乗に制限を加えないで船主の自由にまかせる,リベリア,パナマ,ホンジュラスなどの国があり,ギリシア船主,アメリカ船主をはじめとする多くの先進海運国船主がこれらの国を便宜的に置籍国として利用している。このような便宜置籍船はすでに世界商船隊のなかで大きな比重を占めているが,高い海難事故率,劣悪な海上労働条件,発展途上国海運の発達に及ぼす影響等の弊害をもたらす要因になっているとして,国際的な場で問題視されている。…

※「リベリア」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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