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ルクセンブルク家 ルクセンブルクけLuxemburger

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説

ルクセンブルク家
ルクセンブルクけ
Luxemburger

中世においてドイツ国王,皇帝を出した伯家。元フランク王国の一部であったルクセンブルクが 963年アルデンヌ伯ジークフリートのもとで独立したが,その子孫が 1060年頃ルクセンブルク伯の称号を唱えてから同家の歴史が始った。その後,婚姻を通じて所領を拡大し,1308年同家で初めての神聖ローマ皇帝ハインリヒ7世 (在位 1308~13) を出して以来,15世紀にいたるまで1代の例外を除き,皇帝位は同家によって継承された。ハインリヒ7世のときすでにボヘミアモラビアに勢力を築いていたが,その孫で皇帝カルル4世 (在位 47~78) のときシュレジエンラウジッツブランデンブルクを合せ,最盛期を迎えた。カルル4世ののち所領の分割が進み,勢力も衰え,カルルの子ウェンツェル (ワーツラフ4世〈在位 1378~1400〉) は在世中に帝位を追われ,弟のジギスムント (在位 11~37) が帝位を継いだが,1437年ジギスムントの死によって同家は帝位を永久に失い,ハプスブルク家に取って代られた。

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日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

ルクセンブルク家
るくせんぶるくけ
Luxemburgerドイツ語

ルクセンブルク伯の家門で、14から15世紀にかけて、しばしばドイツ国王を出した。同家の隆盛は、1308年ハインリヒ7世が国王に選出されたのに始まる。彼は息子のヨハンをベーメンの王女と結婚させ、ベーメンの王位を継がせるのに成功した結果、東方に家門の領土的基礎を据え、ヨハンの息子カール4世(在位1346~78)、その子ウェンツェル(在位1378~1400)およびジギスムント(在位1411~37)がドイツ国王に選出され、ハプスブルク家と対抗する大勢力となった。ジギスムントの死後、同家の男系が絶えて、本領(シュタム・ラント)のルクセンブルク大公領(1354年以降、伯領から昇格)も1443年にはブルグントに併合された。[平城照介]

出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)日本大百科全書(ニッポニカ)について 情報 | 凡例

世界大百科事典内のルクセンブルク家の言及

【ハインリヒ[7世]】より

…ルクセンブルク家初のドイツ王(在位1308‐13),神聖ローマ皇帝(在位1312‐13)。ハプスブルク家のアルブレヒト1世の暗殺によって王権強化策が失敗した後,諸侯は1273年のハプスブルク家と同様,西ドイツの一諸侯である彼を国王に選んだ。…

【ブランデンブルク】より

…13世紀前半につくられた法書《ザクセンシュピーゲル》において,ブランデンブルク辺境伯は選帝侯の一人に数えられるにいたった。
[ホーエンツォレルン家の支配]
 1320年にアスカニア家が断絶すると,ブランデンブルクは帝国に帰属し,そのため,皇帝ルートウィヒ4世をつうじてウィッテルスバハ家(1324‐73)が,皇帝カール4世をつうじてルクセンブルク家(1373‐1415)があい次いでこの地の辺境伯の位を保有した。しかしこの両家の辺境伯たちはブランデンブルクに居住しなかったので,貴族や都市が独立化して領内の政治が乱れたばかりでなく,対外的にも,ラウジッツはボヘミアやザクセンに奪われ,ノイマルクは1402年ドイツ騎士修道会に売却された。…

※「ルクセンブルク家」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社日立ソリューションズ・クリエイト世界大百科事典 第2版について | 情報

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