アメリカの経済学者で、産業連関分析の創始者として著名。ロシアのサンクト・ペテルブルグに生まれ、1925年レニングラード大学(現サンクト・ペテルブルグ大学)を卒業、一時ゴスプラン(国家計画委員会)に勤務した。その後ドイツに移り、キール大学の「世界経済と海運研究所」の研究員となる。1928年ベルリン大学で博士号を取得し、1929年には南京(ナンキン)の中国国民党の経済顧問として招聘(しょうへい)された。1931年アメリカに渡り、全米経済調査研究所(NBER)の研究助手となるとともに、ハーバード大学に勤務、1946年から同大学教授となり、1975年にニューヨーク大学に移るまで、ハーバードで研究・教育活動に専念した。
初期の研究は、当時のソ連の国民経済バランスに関するもので、ソ連の『計画経済』誌や『世界経済雑誌』(キール大学)に関連論文が掲載された。また、国際経済理論に関する業績として、いわゆるレオンチェフ・パラドックスがある。しかし、もっとも有名な業績は、ソ連の経済バランス表に着想を得た産業連関論の研究である。1936年にハーバード大学の紀要で初めてこの構想を明らかにしたレオンチェフは、アメリカ経済の1919年表、1929年表、1939年表を作成し、『アメリカ経済の構造 1919~39年――均衡分析の経験的適用』(1941)をまとめた。ついで、この研究を集大成したレオンチェフ編『アメリカの経済構造の研究』(1953)を公表した。産業連関分析は、産業間の投入・産出の相互依存関係を通して最終需要の変化が各産業の生産高に波及する額をとらえる分析手法で、彼はこの表を利用し独創的かつ単純な仮定のもとで、一般均衡モデルの計量化に成功した。今日では多くの国がこの産業連関分析を政府活動の効果、経済動向の予測ないし計画立案に応用するようになった。ソ連・東欧でも同様であった。
また、軍縮の経済的影響や公害防止政策に産業連関分析の適用を試みたり、アメリカ経済への政府の計画的介入の強化を提唱するなど話題をよんだ。レオンチェフの「前人未踏の分野を独力で創造し開拓した研究」に対して、1973年にノーベル経済学賞が与えられた。
[望月喜市]
『山田勇・家本秀太郎訳『アメリカ経済の構造』(1959・東洋経済新報社)』▽『新飯田宏訳『産業連関分析』(1969・岩波書店)』▽『時子山和彦訳『経済学の世界』(1974・日本経済新聞社)』
ロシアの小説家、批評家、宗教哲学者。モスクワ大学医学部卒業後、軍医、外交官、検閲官などを歴任。やがて公職を辞して修道院に住む。人間生活の理想主義的、美的側面を強調して、ロシア文学のゴーゴリ的傾向を拒否し、また、西欧文明を末期症状を呈したブルジョア文明とみなし、人間平等の思想を人間の悪(あ)しき画一化として退け、ビザンティン文化の復興とギリシア正教の正統を主張した。この観点から彼はドストエフスキーとトルストイも正教会からの偏向、楽天的キリスト教のゆえをもって非難した。
[藤家壯一 2018年2月16日]
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
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