ローザンヌ会議
ろーざんぬかいぎ
スイスのローザンヌLausanneで1922年、32年にそれぞれ開かれた二つの会議。(1)1922年11月~23年7月、連合国とトルコとの間に行われた講和会議。連合国とトルコのスルタン政府の間で20年8月に結ばれたセーブル条約はトルコにきわめて過酷なものであった。ケマル・アタチュルクらは独立戦争を起こし、イギリスその他に支援されたギリシア軍を破り、スルタン政府を廃した。こうして開かれたローザンヌ会議は23年7月、ローザンヌ条約の締結を導き、セーブル条約の屈辱的規定を大幅に改定させた。(2)1932年6~7月に開かれたドイツ賠償会議。1930年1月に定められたヤング案は、世界経済恐慌の渦中に実行不可能になった。賠償全廃を主張するドイツに対してフランスは強硬に反対したが、結局、賠償、戦債の帳消しを策するイギリスの仲介によって、ドイツの賠償を30億マルクに引き下げたローザンヌ協定が結ばれた。イギリス、フランスその他は別に紳士協定を結んで、アメリカの戦債帳消しを協定批准の条件としたが、アメリカは公式には戦債帳消しに応ぜず、イギリス、フランスその他は自主的に戦債支払いを停止した。結局、ローザンヌ協定は批准されないまま、ドイツも賠償支払いを行わなかった。
[栗原 優]
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ローザンヌ会議
ローザンヌかいぎ
Lausanne Conference
①1922年11月〜23年7月に開かれた,連合国とオスマン帝国とのセーヴル条約を改めるための会議
②1932年6〜7月にドイツの賠償問題をめぐって債権国が開いた会議
スイスの都市ローザンヌで開かれた会議。
治外法権を認めたセーヴル条約は廃棄され,トルコの主権が回復した。
世界恐慌にまきこまれたドイツはヤング案を履行することができず,1931年アメリカ大統領フーヴァーが宣言した1年間の支打い猶予令 (ゆうよれい) (フーヴァー−モラトリアム)にもかかわらず,ドイツは支払い不能を主張したため,この会議で賠償額30億マルク,3年間支払猶予と決定し,イギリス・フランスは対米戦債の帳消しを策した。しかし,アメリカの不参加によって決着をみなかった(翌1933年ドイツ首相ヒトラーは賠償打切りを宣言し,この会議の決定は空文となった)。
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ローザンヌ‐かいぎ〔‐クワイギ〕【ローザンヌ会議】
ローザンヌで開かれた国際会議。
1922年、第一次大戦の講和条約として、トルコと連合国との間に結ばれたセーブル条約改定のための会議。トルコは領土の一部を回復し、列国の保護国的地位から脱却した。
1932年、ドイツの賠償問題を協議した会議。賠償金額の引き下げと支払延期を決定した。
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ローザンヌ‐かいぎ ‥クヮイギ【ローザンヌ会議】
[一] 第一次世界大戦後の一九二二年一一月~二三年七月、敗戦国トルコと連合国との間で結ばれたセーブル条約を改訂するための会議。ローザンヌ条約が締結された。
[二] 一九三二年のドイツの賠償支払不能をめぐる列国会議。支払延期と賠償金額の引下げを決定。
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ローザンヌかいぎ【ローザンヌ会議】
スイスのローザンヌで開かれた二つの国際会議のこと。(1)第1次世界大戦の際の連合国とトルコとの講和条約改定のため,1922年11月から23年7月にかけて,スイスのローザンヌで開かれた会議。敗戦国トルコのスルタン政府は1920年8月,治外法権などの屈辱的な規定を含んだセーブル条約に調印したが,ケマル・アタチュルクら民族主義者はこれに反対し,アンカラに新しく共和国政府を立てた。ローザンヌ会議はこの共和国政府と連合国との間に開かれたもので,セーブル条約に替わってローザンヌ条約が結ばれ,トルコの国際的地位は保たれた。
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