日本大百科全書(ニッポニカ) 「ドイツ賠償問題」の意味・わかりやすい解説
ドイツ賠償問題
どいつばいしょうもんだい
第一次世界大戦の講和条約であるベルサイユ条約は、その第8、9編でドイツ側の単独戦争責任と、連合国側に与えた損害の賠償義務を定めた。ドイツ側は最初からこれを不当として抗議し、条約調印後もその修正、廃止を求めたため、履行を求める連合国側との間に対立や紛争が絶えず、この問題は1920年代を通じてヨーロッパの国際関係の緊張の一因をなした。
条約調印後、ドイツはまず200億金マルクを現物と通貨で支払うよう求められた。1921年4月連合国はロンドン会議において賠償総額を1320億金マルクとし、年20億金マルクと輸出額の25%相当額を加えた額の37年払いという支払い方法を最終的に確定した。ドイツは、この額が国力を超え、実行不能と反論したがいれられず、当時のウィルト政府は履行政策によって不可能を実証する方針をとった。22年末にドイツは早くも支払い困難となって、猶予を請わざるをえず、連合国内部にも、国際経済の回復とヨーロッパの勢力均衡に関心をもつイギリスと、条約履行を最重要視するフランスとの対立が表面化し、加えてベルサイユ条約に調印しなかったアメリカがイギリス、フランスに対米戦債の返済を求めていたことから、打開策の一致がみられなかった。23年1月、フランス、ベルギーはドイツの支払い不履行を理由に、「ルール占領」に及び、独自に直接取り立てを強行、ドイツ側も消極的抵抗で応じたので、対立は一挙に「戦闘なき戦争」とよばれるまでに悪化した。
ドイツ国内では記録的インフレと政治的、社会的両極化によって共和制は危機に陥った。1923年9月シュトレーゼマンは抵抗を中止して収拾に努め、連合国側でも、賠償履行の前提は世界経済の再建、とくにドイツの経済復興にあるとの認識が共有されて、イギリス、アメリカの調整工作が進み、24年8月、暫定的支払い軽減を決めたドーズ案が採択された。その後、アメリカ資本のドイツ流入、25年のロカルノ条約の成立によって国際政治の安定がみられ、賠償問題は政治的性格を弱めて、経済問題化していった。29年には最終的支払い案としてヤング案が提出されたが、世界経済恐慌の進行のなかで支払いは行き詰まり、31年7月アメリカ大統領フーバーのモラトリアムが出され、翌年7月のローザンヌ会議で実質的な支払い停止が合意をみた。それまでに支払われた額はドイツ側の算定では530億金マルクとされている。
賠償問題は、その根拠に国際的合意を欠き、戦後の世界経済の変容やドイツ経済の実情を十分に考慮しなかったため、早くから混乱を引き起こし、関係国がナショナリズムの下に世論を動員したため、国際協調を妨げた。とりわけ、ドイツにおいては、賠償支払いの批判が右派によってワイマール共和政攻撃と結び付けられて、共和制の安定の障害となったことが指摘されている。
[木村靖二]