イタリアの作曲家、ピアニスト、音楽教育者。ミラノ生まれ。20世紀イタリアが生んだ最大の映画音楽作曲家であり、クラシック音楽の分野でも重要な足跡を残す。
母方の祖父ジョバンニ・リナルディGiovanni Rinaldi(1840―1995)は19世紀イタリア音楽史に名を残す作曲家兼ピアニスト。父親がマンドリン、母親がピアノを弾く恵まれた音楽環境のなかで育ったため、7歳にして作曲をたしなむ早熟ぶりをみせ、作曲家ジャコモ・オレフィーチェGiacomo Orefice(1865―1922)の計らいで1922年、11歳でミラノ音楽院の聴講を許可される。同年オラトリオ「洗礼者ヨハネの幼年時代」を、14歳でオペラ「豚飼いの王子」を作曲。イルデブランド・ピッツェッティIldebrando Pizzetti(1880―1968)に作曲を師事した後、ローマのサンタ・チェチーリア音楽院でアルフレード・カセッラに作曲を師事。1929年に同音楽院卒業後、アルトゥーロ・トスカニーニの推薦で奨学金を得、1930年からアメリカ、フィラデルフィアのカーティス音楽院に2年間留学。同音楽院ではフリッツ・ライナーに指揮法を、ロザリオ・スカレロRosario Scalero(1870―1954)に作曲を師事した。留学中、ロータは足しげく映画館に通いながらアメリカのジャズ、ポピュラー・ソングの影響を強く受け、後年の映画音楽作曲への下地を築きあげている。帰国後、1933年に最初の映画音楽『大衆列車』Treno Popolare(日本未公開)を作曲。ミラノ大学に入学して文学を修めた後、1937年から音楽教師の職につき、1939年からプーリア州のバリ音楽院で作曲と和声を講じるようになった。1950年から1979年までバリ音楽院長を務め、教え子にリッカルド・ムーティらのすぐれた音楽家を輩出した。
1942年、音楽評論家グイド・M・ガッティGuido M. Gatti(1914―1972)の薦(すす)めで『パパの腕白小僧』Il Birichino di Papa(日本未公開)の音楽を作曲、本格的に映画音楽に手を染めるようになった。その後ルックス・フィルム社製作の娯楽作品を多数手がけた後、1951年、『Lo Sceicco Bianco』(日本では『白い酋長』の邦題でビデオ発売、および『白いシーク』の邦題でテレビ公開)で初めて組んだフェデリコ・フェリーニ監督と運命的な出会いを果たす。ポップスからクラシックに至る音楽作品の引用、つねにペーソスを忘れぬ哀愁を帯びた旋律、そしてサーカス・バンドそのままの楽器編成をごった煮にしたロータの音楽は、大道芸的魅力にあふれたフェリーニ自身の世界観と見事な調和をなし、『道』(1954)、『カビリアの夜』(1957)、『甘い生活』(1959)、『8 1/2』(1963)からロータ晩年の『カサノバ』(1976)、『オーケストラ・リハーサル』(1978)まで、27年におよぶ2人の共同作業は映画史上類をみないほど緊密なものとなった。
1954年、『夏の嵐』の編曲作業で初めてコンビを組んだルキノ・ビスコンティも、フェリーニに次ぐ良き共同作業者となった。『白夜』(1957)で当時台頭しはじめたロックン・ロールの要素を、『山猫』(1963)で19世紀ロマン派交響曲のスタイルを取り入れるなど、作品の時代背景と内容に見合った音楽設計を施していく技術は映画音楽作曲の一つの手本とよべるものである。ビスコンティの弟子だったフランコ・ゼッフィレッリとは舞台・映画双方の分野でコンビを組んでおり、メロディの美しさで人気の高い『ロミオとジュリエット』(1968)もゼッフィレッリ演出の舞台版の音楽をそのまま転用したものである。1972年、フランシス・コッポラ監督と初めて組んだ『ゴッドファーザー』(1972)ではシチリア民謡をベースにした音楽を作曲したが、旧作の転用が含まれることが指摘され、アカデミー作曲賞候補を却下された。しかしフランシスの父カーマイン・コッポラCarmine Coppola(1910―1991)と共同で作曲した『ゴッドファーザーPart Ⅱ』(1974)で初のアカデミー最優秀作曲賞を受賞、ようやく名誉を回復した。フェリーニ作品や『戦争と平和』(1956)などをプロデュースしたディノ・デ・ラウレンティスDino De Laurentiis(1919―2010)に請われて参加した『ハリケーン』(1979)が、事実上の最後の映画音楽作品となった。
日本映画『陽は沈み陽は昇る』(1973)の音楽を手がけたほか、1975年(昭和50)、東京歌謡祭審査員として初来日。翌1976年には新日本フィルハーモニー交響楽団を指揮してコンサートを全国各地で開催した。「交響曲第1番ト長調」(1935~1939)や「ピアノ協奏曲ホ短調」(1959)をはじめとする数多くの演奏会用作品とともにロータの映画音楽を再検証してみるならば、そこに20世紀イタリア音楽がたどった伝統と実験のせめぎあいを容易にみいだすことができるだろう。
[前島秀国]
『日野康一著「ニーノ・ロータ特別インタビュー」(『キネマ旬報』1976年6月上旬号 No. 684・キネマ旬報社)』▽『『WAVE』+ペヨトル工房編「ニーノ・ロータ」(『WAVE』No. 32・1992・ペヨトル工房)』
…成立期のクラブの集会は,コーヒー・ハウスの特定の一室を定期的に借り切って行われたのである。このピューリタン革命期の政治クラブとしては,革命政権派の〈ロータRota〉,王党派の〈シールド・ノットSealed Knot〉などが知られる。18世紀になると市民勢力のいっそうの台頭を反映して,クラブは急成長を遂げる。…
…多声部歌唱の一つで,ラウンドroundやキャッチcatch,中世のロータrotaのように循環や車輪を連想させる歌唱をいう。一つの声部が歌い出すと他の声部が同じ旋律を一定の間隔だけ遅れて追いかけて歌う。…
※「ロータ」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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