フランス18世紀、ロココ美術を代表する画家。バランシェンヌに生まれる(10月10日受洗)。生地で画家の修業をしたあと、1702年パリに出て、宗教画やオランダの絵画のコピーの仕事をし、やがて03年から07、08年ごろまでクロード・ジローのもとで助手をつとめる。ジローは当時流行したイタリア喜劇を描く芝居絵の画家であり、その彼に学んだことは、のちにワトーの画風や主題の選択に大きな影響を与えた。ジローのもとを離れてから、当時リュクサンブール宮の美術品の管理をしていたクロード・オードラン3世のもとに寄寓(きぐう)し、彼の装飾画を手伝うが、このとき以降、ワトーはシノワズリー装飾など、ロココの装飾形式に先鞭(せんべん)をつける。その一方、リュクサンブール宮の王室美術品、レオナルド・ダ・ビンチやベネチア派、ルーベンスなどに学び、構想や技法を養う。10年、故郷に一時帰国するが、この旅行のとき見聞した軍隊の野営などのテーマを扱っている。パリに帰ったあと、多くの美術愛好家たちの知遇を得て、彼らのために肖像を描き、あるいは風景描写の探求を試みている。彼は病身で移り気なため、これらの愛好家たちの館(やかた)に転々と寄寓したが、美術コレクターとして有名なクロザPierre Crozat(1665―1740)のノジャン・シュル・マルヌの館を自由に使う許しを得、クロザの素描コレクションに親しんだ。
1717年、早くからアカデミーに求められていた会員資格候補作品『シテール島の巡礼』(ルーブル美術館)を提出、アカデミーは「雅宴(フェート・ガラント)の画家」としてワトーを受け入れる。このジャンルは、やがてアントアーヌ・パテール、ランクレたち、彼の弟子や追随者によって多く描かれ、ロココ美術の代表的なテーマとなるが、ワトーは野外の風景の中に男女たちの語らい、音楽、愛を描き、舞台的・夢幻的な情景を描いたという点でも、人体と自然を一つの夢想的な調和によって描いた点でも、真にロココ的なものに先駆する。と同時に、ロココを代表したのは彼の「雅宴」の一群の作品であった。彼は胸を患っていたため、19年イギリスに渡るが治療は成功せず、20年夏パリに帰り、画商ジェルサンのもとに寄寓し、『ジェルサンの看板』(ベルリン、シャルロッテンブルク宮)を描いている。白い道化服の『ピエロ』(従来『ジル』と名づけられていた作品。ルーブル美術館)も、彼の最後の時期に属する作品であり、前者は、室内を描くレアリスムと華麗な人物や衣装の配置の調和で、後者は、そのきわめて純粋な人物描写で、ワトー最後の傑作である。21年7月26日ノジャン・シュル・マルヌの館で没。
37歳に満たぬ短い生涯であったが、ワトーはかなり多くの作品を制作し、しかもその大半は最後の数年に集中している。友人ジャン・ド・ジュリエンヌが画家の没後、装飾模様、デッサン、油彩を四冊の版画集として刊行しているが、現存の作品はかならずしも多くなく、大半はこの版画集によって知られるにすぎない。デッサンは、ルーブル、大英博物館、ストックホルム国立美術館に大量に保存され、サンギーヌによるさまざまな女性の姿態がとらえられている。
[中山公男]
『中山公男解説『世界美術全集17 ワトー』(1979・集英社)』▽『中山公男編著『世界の素描12 ワトー』(1979・講談社)』
フランスの画家。散逸した作品,保存の劣悪な作品が多いため,必ずしもその全貌は明らかではないが,18世紀のロココ美術を先導し,またその最上の精神を表現した画家といえる。
ベルギーに近いバランシエンヌに生まれ,土地の地方画家に学んだのちパリに出る。当初は,オランダ風俗画や土産物用の宗教画のコピーによって生計を立てる。ついで1703年ころよりジローC.Gillotに学び,芝居や庶民生活を題材とする師の画風をわがものとする。07年ないし08年ころジローの許を離れ,当時リュクサンブール宮殿の管理を委任されていた王の公式画家クロード・オードラン3世Claude Audran Ⅲの庇護下に,同宮殿の所蔵品,ルーベンスやベネチア派の絵画を学び,またミュエット城の王の居室の装飾壁画などを制作。10年故郷に帰り,この時期,軍隊,村の生活などのテーマを描く。12-15年ころ,パリの富裕な銀行家クロザP.Crozatの保護を得て,彼が収集したフランドルの素描の研究を行う。この時期に,田園での奏楽,恋,宴などの主題,繊細な色調と,曲線の体系などによるワトー独自の様式が確立され,《そぞろ心》(1717)などにつながる。そして17年,アカデミー会員候補作品として《シテール(キュテラ)島への船出》が描かれ,〈フェート・ギャラント〉の画家として受け入れられ,この主題はパテールやランクレによって,ロココ時代を風靡(ふうび)する。19年肺病の治療のためイギリスに赴き,帰国後,《ジェルサンの看板》《ジル》を残し没する。
執筆者:中山 公男
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1684~1721
フランスの画家。牧歌的な田園風景のなかで優雅な八組の宮廷風の男女が愛を語らう情景を描いた「シテール島の巡礼」(1717年)によって認められ,「雅宴の画家」と呼ばれた。叙情性をたたえた優美,華麗で繊細な画風を確立して,18世紀ロココ絵画の創始者となったが,結核で早逝した。他にも大作「ジェルサンの看板」や,演劇人を題材にした作品などを残している。
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…18世紀のイタリアでは,ゴルドーニとC.ゴッツィがコメディア・デラルテの〈近代化〉を試みたが,ロココ趣味のフランスではピエロ役者ジルGillesが人気を呼んだ。ワトーをはじめとする画家たちが競って描いたその感傷的な肖像を見ると,道化がすっかり活力を失ったように思える。イギリスでは,19世紀初頭の名道化ジョーイ・グリマルディが際だっている。…
…フランスではロココ様式のフェート・ギャラント(雅宴画)の最盛期であった。ワトー,ランクレ,ブーシェは貴族の園遊会,あいびき,貴婦人と朝の化粧などをテーマに,上流階級の風俗のよき記録者となった。他方,シャルダンは《市場帰り》(1739)などで,ロココの貴族的な風俗画に背を向け,中産階級の地味な生活感情を謳歌した。…
…〈艶(えん)なる宴〉の意であるが,特定の美術ジャンルをさして使われる語で,〈雅宴画〉などと訳される。ワトーがアカデミー会員候補作品として提出した作品《シテール(キュテラ)島の巡礼》が,当時のアカデミーのどの部門にも属さなかったため,この名称が新たに案出された。野外に集い,会話,音楽,ダンスなどを楽しむ人々の情景を描く作品にあたえられる名称である。…
…この精妙な,洗練された感受性こそ,中世の《愛に捉われた心》の写本挿絵からフォンテンブロー派を経て艶麗なロココの美術へ,さらには〈アンティミスト〉と呼ばれたボナールやビュイヤールの洗練された表現にまでつながるフランス美術のもう一つの重要な特質である。人間の心の微妙なゆらめきを,ひめやかな絹の手触りと薄暮の田園の哀愁をこめて描き出した洗練の極致ともいうべきワトーの作品を思い出してみれば,このことはおのずから明らかであろう。落日の一瞬の輝きを反射する水面の変化を捉えたクロード・ロランの海景や,あるいは大気と光の移り変りをそのまま画面に定着しようとした印象派の鋭敏な感覚も,その例証である。…
… 17世紀末から18世紀を通じては,フランスの政治的・文化的侵攻も作用してフランドルの美術活動は若干の新古典主義の世俗建築を除いては概して低調である。ただし,フランス・ロココ絵画の祖A.ワトーがその誕生の数年前フランス領となったバランシエンヌの出身で,その画風にはルーベンスをはじめとするフランドル絵画の伝統が継承されていることは銘記すべきであろう。19世紀以後再び美術が興隆するが,その記述はベルギー[美術]の項に譲る。…
…しかしたとえば,オッタビオ・デ・メディチがアンドレア・デル・サルトに命じてラファエロの《レオ10世の肖像》を描かせ,この模写をマントバ公に贈ったという逸話が示すように,名品の優れた模写は,画家の独創性という観念とは別個に,尊重されていた。また,18世紀,修業時代のワトーが,生計のためにコピースト(模写画家)として,オランダの画家G.ダウなどの作品の模写に励んでいたという挿話は,複製技術の乏しい時代においてコピーストが重用されていたことを示している。 19世紀以降しばしば認められるのは,過去の作品の主題や構図を自然のモティーフと同様に考え,それらを自由に模写し個性的に変奏した作品である。…
※「ワトー」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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