三上村(読み)みかみむら

日本歴史地名大系 「三上村」の解説

三上村
みかみむら

[現在地名]野洲町三上

野洲村の南東三上山野洲川に挟まれた地にある。耕地は字大中小路おおなこじ付近に近年まで条里の名残を確認できたが、南西部の耕地には細長い短冊形の地割が規則正しく並んでおり、南の南桜みなみざくら村の地割と同様河川敷を開発した新田であろう。「和名抄」記載の三上みかむ郷の遺称地で、中世には三上庄のうち。古代以来三上山に鎮座する三上社(現御上神社)の社領であったとみられる。集落は村域の中央部から三上山山麓にかけて散在し、大中小路・小中小路こなこじ前田まえだ東林寺とうりんじ山出やまでに分れる。

中世末期に描かれたと考えられる三上古跡図ならびに三上大寺四至図(御上神社蔵)によって中世までの当地の様子をみると、三上社の社殿と北方東光寺とうこうじ山・妙光寺みようこうじ山などにかけて散在する東光寺(廃寺)伽藍を中心に、宮前村・前田村・妙光寺村(東光寺村とも)東林寺村・山出村・小中小路村・大中小路村が描かれている。大中小路村は稲畑いなはた村・因幡田いなはた村ともいう。宮前・前田両村は三上社に隣接した集落、小中小路・大中小路両村は三上社と東光寺の南大門を結ぶ道筋にある。また妙光寺村・東林寺村は東光寺にちなむ村名で、妙光寺村は近世には村として独立した。これらの集落名は、文献上では延文三年(一三五八)八月の三上社修理棟札銘文(御上神社文書)に小中小路・東林寺・妙光寺の名がみえるのをはじめ、明応三年(一四九四)六月日の同修理棟札勧進状写(大谷文書)、永禄四年(一五六一)から記されている三上若宮殿相撲神事帳(御上神社文書)などで各集落の名が確認できる。

三上村
みかみむら

[現在地名]富山市三上

常願寺川と神通川に挟まれた平地の東寄りに位置し、北はみや村。一里四方の境内を有した飯野いいの郷の総社飯野八幡宮があり(現在の鎮守は八幡神社)、神官平尾氏が代々奉仕したと伝える(越中志徴)。元和五年(一六一九)の三介組借米渡口覚(三辺家文書)に、富山御蔵での請取分として「飯野之内三上村」は六俵とみえる。明暦二年(一六五六)の村御印留では草高一九〇石、免四ツ一歩。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報