山出村(読み)やまでむら

日本歴史地名大系 「山出村」の解説

山出村
やまでむら

[現在地名]上野市山出

北・東・南の大部分猪田いだ村。長野ながの古墳群中の後期古墳一三基があり、二三号墳は円筒・家形埴輪を有する。江戸時代に古検は改めず、本高三二一・二石、平高五一一・一石で、藤堂外記(一〇二・一四一石)以下六名の給地合計は三六一・八二六石。寛延(一七四八―五一)頃の戸数八〇、人口四二四、馬一九。社寺は熊野社、勝因しよういん寺・真庵しんあん(宗国史)。熊野社は猪田北浦きたうら熊野新宮、同村沢田さわだの熊野本宮と合せて猪田三熊野といい(伊水温故)、ともに当地の修験者小天狗清蔵の勧請(三国地志)


山出村
やまいでむら

[現在地名]甲佐町白旗しらはた

白旗山(一三七・九メートル)の西山麓にあり、北は芝原しばわら村、南は八町はつちよう村に接する。康治二年(一一四三)四月、田口たぐち村に本拠をもつとみられる田口新大夫行季が従弟たちとともに、「権介季宗私領山手村」の財物を奪ったとあり(年未詳「肥後国某訴状断簡」高野山文書)、この山手村は当村に比定される。「拾集昔語」では「宗運領内山出村」とあり、一六世紀前半に御船みふね(現御船町)城主甲斐宗運の支配下にあったとしている。慶長国絵図に村名がみえ、近世は甲佐手永に属した。


山出村
やまいでむら

[現在地名]矢部町麻山あさやま

篠原ささわら村の東、笹原ささわら川の流域にあり、東は麻生あさお村に接する。応仁(一四六七―六九)頃とされる男成宮社頭注文(男成文書)に「やまいて」とあり、「ふゆあわの米五升、小むき五升」を祭礼に際して供している。また文明二年(一四七〇)軍陣夫一人を出す男成おとこなり郷六ヵ村の一つ「おはらいの村」(同年二月一〇日「丹田水惟世奉書」同文書)は近世小村となった小払おはらい村のことと思われる。慶長国絵図に村名がみえる。矢部手永に属したが正徳四年(一七一四)から一時期中島手永に移り、のち旧に復した。


山出村
やまいでむら

[現在地名]三重町奥畑おくばた

奥畑川流域にある。明応九年(一五〇〇)と推定される二月三日の大友親治知行預ケ状(志賀四郎文書)に「宇田(枝名カ)内山手」がみえ、小田原藤次郎に預け置かれている。この「山手」は当村のことと考えられる。文禄二年(一五九三)以降岡藩領。正保郷帳では山出村とあり、田方三四石余・畑方四六石余、白谷しろたに郷に属し、茅山有、日損所と注記される。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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