妙光寺(読み)みようこうじ

日本歴史地名大系 「妙光寺」の解説

妙光寺
みようこうじ

[現在地名]多古町多古 居射

居射いざの台地裾にある。妙印山と号し、日蓮宗。本尊は釈迦多宝四菩薩。寺伝によれば、常在院日朝が弘安年間(一二七八―八八)に開創し、延文四年(一三五九)二世日通の時に中山法華経寺三代貫首日祐により中山門流に改められたという。天正五年(一五七七)に多古城主牛尾胤仲が染井原そめいはらから現在地に移したという(妙印山縁起)

日祐は下総各地で活発な布教を行った僧侶であるが、その外護者である胤貞流千葉氏の拠点の一つである千田ちだ庄では多くの堂社を造立している。延文四年には千田庄はら郷御堂の供養を行っており(一期所修善根記録)、この「原郷御堂」は妙光寺の前身であることは間違いない。


妙光寺
みようこうじ

[現在地名]潮来町築地

日蓮宗、本圀山と号し、本尊は十界の曼荼羅。文永二年(一二六五)地元の武士で鎌倉幕府に仕えた由井但馬守国光・横山遠江守勝英が、相州鎌倉から日門を招いて水原みずはら郷に創建したことに始まる。寺伝では常陸国では最古の日蓮宗寺院といい、正応三年(一二九〇)に三世日正が現在地に移建した(新編常陸国誌)

開基帳(彰考館蔵)には「当寺開山中老拾八之随一日門聖人建立也、致一ケ本寺、高拾五石余寺領(中略)門徒当初七拾房余御座候、漸々衰微仕唯今五ケ御座候、百姓旦那弐百五十余人」とあり、妙光寺末寺として妙蓮みようれん寺・ひがし坊・なか坊・唯正ゆいしよう坊・覚養かくよう坊などが記される。


妙光寺
みようこうじ

[現在地名]騎西町牛重

日蓮宗、種垂山と号し、一塔両尊四士を本尊とし、日蓮像を安置する。江戸時代中山法華経なかやまほけきよう(現千葉県市川市)の末寺。応永六年(一三九九)の創立と伝え、開山を中山法宣ほうせん(現同上)三世日英、開基檀越を平頼直としている。同二四年の日英末寺等支配注文(中山法華経寺史料)に「種垂講演御堂等」とみえるのが当寺の前身で、初めは上種足かみたなだれにあった。山号の種垂はこれによるというが、現在地に移転した時期は不明。寺伝によれば、当寺は慶長一九年(一六一四)に隣村の根古屋ねごや村からの出火により、本堂をはじめ一切を焼失してしまったため、多くの文書類も烏有に帰してしまい、それ以前のことは不詳という。


妙光寺
みようこうじ

[現在地名]上県町伊奈

伊奈いな集落の上手にある。永楽山と号し、曹洞宗。本尊は観音菩薩。伊奈郡主の宗調次の寺で、一嶽を開基としたという(津島紀事)。元亀四年(一五七三)「妙光寺」は宗調国から寺領の安堵を受けたが(同年八月二二日「宗調国書下」伊奈郡判物写)、これより先、大永三年(一五二三)宗盛次から「かたしの田一セ、まちはまのはたけ一ちやうしり」の扶持、また買地のことで複数の判物を受けている慶善蔵司は同寺の者と考えられる(同年八月一四日「宗盛次書下」同判物写)。境内の裏山の経堂に大般若経六〇〇巻が収蔵され、経本は杭州普寧寺で開版された元版で、至元五年(一二六八)から泰定二年(一三二五)までの題記がある。


妙光寺
みようこうじ

[現在地名]右京区宇多野上ノ谷町

正覚山と号し、臨済宗建仁寺派。本尊釈迦如来。この地には花山院藤原師継の山荘があったが、師継が長子忠季の早世を悼み、追福のため忠季の幼名妙光にちなんで寺に改め、妙光禅寺と号した(円明国師行実年譜)。その後、忠季の弟心性と師信が父師継の命により改築して伽藍を建立、弘安八年(一二八五)法灯円明国師を開山とした(同書・雍州府志)


妙光寺
みようこうじ

[現在地名]古河市中央町二丁目

近世の西鷹匠にしたかじよう町に所在。法興山と号し、日蓮宗。本尊釈迦多宝如来。寛文八年(一六六八)一五世日統の整理になる縁起によれば、実の開山は正元二年(一二六〇)に没した初世日胤ではなく、延文元年(一三五六)に没した二世日厳で、室町時代には古河公方の帰依を受けたが、公方没落後一時衰微し、三代将軍徳川家光のとき三〇石の朱印地を受け、下総中山法華経寺の末寺頭で、牧野地の鳳桐まきのじのほうとう寺も管理していた。応安六年(一三七三)の日祐譲状(法華経寺文書)には「下総国古河妙光寺」とみえている。


妙光寺
みようこうじ

[現在地名]瀬谷区上瀬谷町

上瀬谷かみせや町の南部八幡宮の南にある。日蓮宗、蓮昌山と号し、本尊三宝。門外に「高祖大師御一宿霊地」の石標があり、「風土記稿」は、弘安五年(一二八二)日蓮が甲斐国身延みのぶ山から池上いけがみ(現東京都大田区)に向かう途次止宿した旧跡にあたるという。寺蔵の梵鐘刻銘によると武蔵国都筑つづき恩田おんだ(現緑区)万年まんねん寺のもので、正中二年(一三二五)鋳造


妙光寺
みようこうじ

[現在地名]小浜市神田

本境ほんきよう寺の南にある。南谷山と号し、浄土真宗本願寺派。本尊阿弥陀如来。貞和三年(一三四七)比叡山南谷の僧蓮智が本願寺覚如に帰依して改宗、当寺を建立したと伝える(若州管内社寺由緒記)。観応二年(一三五一)三月日の足利尊氏禁制(当寺文書)がある。大永五年(一五二五)八月一二日の武田元光判物(同文書)によれば、この頃には瀬木せぎの地にあったらしく、瀬木の大野外記屋敷と交換している。現在地への移転時期は不明。


妙光寺
みようこうじ

[現在地名]板柳町柏木 片田野

柏木かしわぎ集落の中ほどにある。円応山と号し、日蓮宗。本尊十界曼陀羅。もと弘前本行ほんぎよう寺末。慶長四年(一五九九)遠明院日光が梅田うめだ(現五所川原市)に創立(「重宝錦嚢」受源院蔵)。その後廃庵となったが、延宝三年(一六七五)閑竜院日応が弘前法立ほうりゆう寺日禅とともに再興。


妙光寺
みようこうじ

[現在地名]三戸町同心町 熊ノ林

同心どうしん町の北東、熊原くまはら川右岸低地に臨む河岸段丘に位置する。玉岑ぎよくしん寺・観福かんぷく寺に隣接。金峰山と号し、日蓮宗。本尊は大曼荼羅。寛政年間(一七八九―一八〇一)の「邦内郷村志」に「妙光寺 金峰山、日蓮宗、京都妙顕寺末寺、開山顕寿院日宗大徳、自明暦至寛政三年辛亥十四代」とある。


妙光寺
みようこうじ

[現在地名]八潮市中央

主要地方道松戸―草加線の北側に位置する。長光山と号し、日蓮宗。かつては池上本門寺の末寺。一塔両尊四士を本尊とし、弘安五年(一二八二)の造立銘をもつ日朗(日蓮の高弟)の開眼と伝える日蓮像を安置する。文明三年(一四七一)に日正が開山したという(妙光寺過去帳)。日正は戸塚の本行とづかのほんぎよう(現川口市)開山でもあり、明治八年(一八七五)に作成された本行寺過去帳由緒書によれば、本行寺は小見山弾正の家臣島根左近を開基とし、日正は左近の叔父にあたるという。


妙光寺
みようこうじ

[現在地名]沼田市 坊新田町

金剛こんごう院の南にある。慶寿山本隆院と号し、日蓮宗。寛文七年(一六六七)藩主真田信利の母小野通が伽藍を再建。享保七年(一七二二)から鐘撞免高一〇石九斗余があって(文政三年「町明細帳」桑原文書)当寺の鐘は町の鐘として親しまれた。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

事典・日本の観光資源 「妙光寺」の解説

妙光寺

(京都府京都市右京区)
京都十刹」指定の観光名所。

出典 日外アソシエーツ「事典・日本の観光資源」事典・日本の観光資源について 情報

世界大百科事典(旧版)内の妙光寺の言及

【普化宗】より

…1871年(明治4)に普化宗は廃止されたが,88年京都東福寺塔頭(たつちゆう)善慧(ぜんね)院に明暗教会が設立され,東京に支部が置かれた。また和歌山県由良の興国寺に普化教会,京都鳴滝の妙光寺に法灯教会が設立された。虚無僧【竹貫 元勝】。…

※「妙光寺」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

今日のキーワード

世界の電気自動車市場

米テスラと低価格EVでシェアを広げる中国大手、比亜迪(BYD)が激しいトップ争いを繰り広げている。英調査会社グローバルデータによると、2023年の世界販売台数は約978万7千台。ガソリン車などを含む...

世界の電気自動車市場の用語解説を読む

コトバンク for iPhone

コトバンク for Android