野洲川(読み)ヤスガワ

デジタル大辞泉 「野洲川」の意味・読み・例文・類語

やす‐がわ〔‐がは〕【野洲川】

滋賀県南東部、鈴鹿山脈御在所山に源を発し、ほぼ西流して琵琶湖に注ぐ川。長さ61キロ。下流三角州を形成し、放水路がある。

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精選版 日本国語大辞典 「野洲川」の意味・読み・例文・類語

やす‐がわ‥がは【野洲川】

  1. 滋賀・三重県境の御在所山付近に源を発し、西流して滋賀県守山市で琵琶湖に注ぐ川。長さ六一キロメートル。安河。近江太郎

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日本歴史地名大系 「野洲川」の解説

野洲川
やすがわ

鈴鹿山脈に源を発してほぼ西流し、琵琶湖に注ぐ滋賀県最大の一級河川。流路延長約六五キロ。甲賀郡内上流部では松尾まつお川、中流部では横田よこた川という。近江太郎の通称もある。古くは安河・益須やす川などとも記された。

現在の流路は三重県境御在所ございしよ岳南西麓を水源とし、山間部現甲賀郡土山つちやま町を南西へ流下、野洲川ダム・青土おおづちダムを経て同町西部で田村たむら川が合流。その後方向をやや北西に変えて流れ、同郡水口みなくち町と甲西こうせい町の境付近でそま川を合せる。同郡石部いしべ町・野洲郡野洲町・栗太くりた栗東りつとう町付近から広大な扇状地・洪積地の野洲平野を形成、守山市小浜こばま町と幸津川さづかわ町の間で琵琶湖に流入する。同市川田かわた町より下流のほぼ直線の流路は、昭和五四年(一九七九)竣工・通水の新川で、それ以前は川田町と野洲町竹生たけじよう付近で南北二流に分れていた。本流の北流は守山市と野洲郡中主ちゆうず町境を流れて同町吉川よしかわで、南流は守山市北部を北西流し琵琶湖大橋畔でいずれも湖に注いでいた。南流によって運ばれた土砂により対岸大津市堅田地区との間で琵琶湖は最も狭まっている。下流部は古来河道の変遷を繰返した。守山市と草津市の間を流れるさかい川は現在は湧水を水源としているが、水量に比して河谷が大きいこと、旧野洲郡・栗太郡の境をなしていること、川を境に条里の方向が食違うことなどから、奈良時代には野洲川本流の河道であったと推定される。天平宝字六年(七六二)石山いしやま(現大津市)造営のため当川を下された材木を貯えた夜須潮やすみなとも、現境川河口付近にあったものか。その後流路は漸次南から北へ動いて河口部の三角洲を広げていき、日野川三角洲と合さった野洲平野が形成されたとみられる。ただし河道移動の時期や流路などを具体的に追うことは困難である。

当川の名が初めて歴史上にあらわれるのは壬申の乱の時で、天武天皇元年(六七二)七月一三日、安河やすがわほとりで大海人皇子軍と近江朝廷軍の激戦があった(日本書紀)。野洲川は美濃など東国方面と大津・京都方面を分ける重要な防衛線であったらしく、下流部の河原は壬申の乱以降たびたび軍勢の集結地点とも戦場ともなった。南北朝期観応元年(一三五〇)一二月には三上山麓、野洲河原で足利直義方の上野直勝軍と北朝方佐々木信詮勢が戦い(「小佐治基安軍忠状」小佐治文書など)、元亀元年(一五七〇)六月四日には織田信長軍と一向一揆・六角氏同盟軍が戦っている(「信長公記」など)

甲賀郡内での当川の古称として甲賀川があり、「延喜式」斎宮寮では斎王群行の途次「御禊」「鎮祓」を行うと規定される六ヵ所の堺川のうちに甲賀川が記される。

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百科事典マイペディア 「野洲川」の意味・わかりやすい解説

野洲川【やすがわ】

滋賀県南部の川。長さ65.25km。三重県境の御在所山付近に発し,北西流して下流に湖東平野南部をなす大三角州をつくり,守山市で琵琶湖に注ぐ。壬生の乱のとき安河の浜で激戦が行われ,中世にも足利直義らの合戦があった。また簗漁も盛んで,用水相論も繰り返された。多量の土砂を運搬し下流は天井川を呈する。上流に野洲川ダムがある。
→関連項目石部[町]近江盆地甲賀[町]甲南[町]中主[町]土山[町]天井川檜物荘水口[町]野洲[町]栗東[市]

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改訂新版 世界大百科事典 「野洲川」の意味・わかりやすい解説

野洲川 (やすがわ)

滋賀県南東部の川。全長61km,流域面積387km2。鈴鹿山脈の御在所(ございしよ)山(1212m)に源を発して西流し,甲賀市で田村川,杣(そま)川などの支流を合わせ,湖南市の旧石部町付近の狭隘(きようあい)部を経て,下流部の守山市,野洲市一帯に広大な沖積平野を形成して琵琶湖に注ぐ。上流部は風化しやすい花コウ岩や軟弱な古琵琶湖層群の地層からなるため,保水性が乏しく,古来,豪雨のたびに洪水を繰り返してきた荒れ川で,〈近江太郎〉と呼ばれていた。栗東(りつとう)市より下流部では天井川化が著しい。1951年甲賀郡土山町(現,甲賀市)市大河原に灌漑・洪水調節用の野洲川ダム(有効貯水量728万m3,堤高55.7m,堤長141m)が建設されたが,それでも71年に大水害をひき起こした。そのため,下流で南北2本に分岐していた流路にかえて,新しくその中間に人工の新放水路をつくる河川改修工事が71年に着工され,81年に完成,流域住民はようやく洪水の心配から解放された。なお,河川改修工事の際に発見された守山市の服部遺跡から,弥生時代から平安時代にかけての複合遺跡で,水田跡,竪穴住居址,木簡などが出土した。野洲川の沖積平野は古代に条里制が施行され,現在は江州(ごうしゆう)米の主産地になっている。江戸時代に野洲川でさらされた野洲晒(さらし)が有名であったが,明治以降急速に衰退し,現在は消滅した。
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日本大百科全書(ニッポニカ) 「野洲川」の意味・わかりやすい解説

野洲川
やすがわ

滋賀県南東部を流れる川。一級河川。鈴鹿(すずか)山脈の御在所山(ございしょやま)に源を発してほぼ北西流し、守山市で琵琶湖(びわこ)に注ぐ。延長65キロメートル、流域面積387平方キロメートル、淀(よど)川水系琵琶湖流域の約10%の地域を潤す県下最大の河川。中流域には段丘が発達し、下流域には広大な扇状地性三角州が形成される。古くは安河とも書いた。下流部は顕著な天井川をなし、古来たびたび水害に悩まされてきた。1951年(昭和26)に上流の土山(つちやま)町(現、甲賀(こうか)市土山町)に野洲川ダムが完成したがその後も水害は多発し、1986年、湖岸約5キロメートルの北流と南流の天井川を廃して、その中間に人工的平地河川をつくる事業が完成した。筑後(ちくご)川、旭(あさひ)川と並ぶ三大河川事業の一つといわれる。新川掘削工事の際に守山市で発見された服部(はっとり)遺跡は、弥生(やよい)から平安期に及ぶ大集落遺跡。

高橋誠一

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「野洲川」の意味・わかりやすい解説

野洲川
やすがわ

滋賀県南部を流れる川。全長約 65km。鈴鹿山脈の御在所岳 (1210m) 付近に発し,支流の杣 (そま) 川を合せ,北西流して琵琶湖に注ぐ。かつては守山市北部で南北に分流し,広大な三角州をつくっていたが,洪水を防ぐため南北流を一本化する工事が国営で行われた。流域は米作地帯でアユ漁も行われる。上流に農業用の野洲川ダムがあり,下流は天井川となる。

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事典・日本の観光資源 「野洲川」の解説

野洲川

(滋賀県野洲市ほか)
湖国百選 水編」指定の観光名所。

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世界大百科事典(旧版)内の野洲川の言及

【渡し】より

…それは必ずしも零細なものでなく,古代社会では,妻訪(つまどい)の旅の途次の景行天皇から渡し賃を取った摂津国高瀬済の度子(わたしもり)の説話が伝えられている(《播磨国風土記》)。また平安時代中期,近江国野洲(やす)川河口付近に居住して近辺の荘園の請作も行った修理職の寄人集団が,〈雨ふれば船よりぞ行くやす(野洲)川のやすく渡りし瀬をばたどりて〉(《夫木和歌抄》)と歌われた野洲渡の渡し守をも兼業していたという(寛治7年(1093)8月21日の太政官符案)。鎌倉時代,加賀国宮腰(みやのこし)宿付近の渡船場の権利をめぐって川辺の住人と宿の住人が相論し(《一遍聖絵》第5巻),江戸時代には武蔵国多摩川の六郷渡,丸子渡の利権をめぐって,地元と江戸町人などの渡船場請負人が競合したように(《川崎誌考》),交通量の多い渡船場の経営は一定度の利権・雑収入をもたらすものとして競望されることもあったのである。…

※「野洲川」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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