三十人僭主(読み)さんじゅうにんせんしゅ

改訂新版 世界大百科事典 「三十人僭主」の意味・わかりやすい解説

三十人僭主 (さんじゅうにんせんしゅ)

前404年から前403年にかけて,ペロポネソス戦争直後のアテナイに一時樹立された寡頭派政権。30人からなるこの政権の担当者たちが一時期とった過酷な圧政ゆえに,この名がある。前404年春,ペロポネソス戦争の敗北は,当時のアテナイ政界で批判派の立場にあった寡頭主義者たちの登場を促した。彼らはスパルタ軍の介入を要請し,その圧力の下に民会をして国制の変革を図るための30人の立法委員を選出させるが,のちに〈三十人僭主〉と呼ばれたこれらの委員たちは,本来,新たな国制が成立するまで暫定政権としての役割を果たすはずのものであった。彼らは穏健派過激派とに分かれ,テラメネスThēramenēsとクリティアスとがそれぞれ両派を代表した。初めは両派一致して事に処したが,民主派市民の大量処刑参政権を有する市民たちの登録実施をめぐって対立が生じ,クリティアスは結局テラメネスの処刑をもってこれに応じた。こののちクリティアスらの過激派は徹底した反対派抑圧策をとり,そのため多数の市民が国外に逃れた。しかし亡命者たちは反攻の機をうかがい,民主派の領袖トラシュブロスがアッティカ北部の集落フュレーを占拠すると,その下に集まり,ついで外港ピレウスに進撃して寡頭派を破り,クリティアスを戦死させた。過激派はエレウシスに退き,中心市に残った穏健派と民主派との間に妥協が成立して,前403年夏には民主政が回復した。アテナイではこののち前322年まで民主政がつづいた。
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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「三十人僭主」の意味・わかりやすい解説

三十人僭主[古代ギリシア]
さんじゅうにんせんしゅ[こだいギリシア]
hoi Triakonta; Thirty Tyrants

ペロポネソス戦争直後のアテネで,スパルタの武力を背景に民主政を廃止して行われた,クリチアステラメネスら 30人による寡頭支配。父祖伝来の法に基づく新国制を起草する委員として 30人が選ばれ,前 404年にその支配が成立した。彼らは新しく評議員を選び民衆法廷 (ヘーリアイア ) の権限を奪い,やがて殺戮や財産没収の恐怖政治を行なった。クリチアスは穏健な寡頭政を求めるテラメネスを殺し,支配を強化しようとしたが,トラシュブロスをはじめとする民主派は力でこれを倒し,残る僭主はエレウシスへ移った。そしてスパルタのパウサニアス王の干渉もあってアテネの民主政は回復された。

三十人僭主[古代ローマ]
さんじゅうにんせんしゅ[こだいローマ]
Triginta; Thirty Tyrants

ヒストリア・アウグスタ』に現れる3世紀中頃のローマ属州の帝位簒奪者たち。アテネにならってこう呼ばれる。いずれもガリエヌス帝 (在位 253~268) 治下に出現したとされ,女性2人を含めて 32名の名があげられているが,これは史書のガリエヌス帝への批判が反映したものである。史実で確認できるのは9名だけで,あとは,簒奪者の子や架空の人物など。ほかにガリエヌス帝時代以外の人物もおり,おもなものはガリアポスツムス (259~268) ,ロリアヌス (ラエリアヌス,268) ,シリアのマクリアヌス・ユニオル (260~261) ,オデナツスの妻ゼノビア (267~272) 。

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