地中海とアラビア半島の砂漠との間の,南北に細長い地域に対する歴史的呼称。ギリシア語(古典的発音ではシュリア)に由来し,アラビア語ではシャームal-Shāmという。その正確な範囲は時代によって異なり,現在のシリア・アラブ共和国は古代以来の〈シリア〉という語の用法では最も狭い地域をカバーしているにすぎない。古代地理では,北はイスケンデルン(アレクサンドレッタ)湾周辺ないしトロス山脈以南から,南はシナイ半島までを含み,現在のトルコ共和国南東端からレバノン共和国,シリア・アラブ共和国,イスラエル,ヨルダン・ハーシム王国にまたがる地域にほぼ相当した。ギリシア人はシリアに〈山あいの(くぼ地の)koilē〉という形容詞をつけ,〈両河potamosの間meso〉のシリアすなわちメソポタミアと対比させた。
地形は全体として縦割りで,それぞれ,しばしば非常に狭まる海岸平野,その東側の丘陵・山岳地帯,そして,オロンテス川流域,ティベリアス(ガリラヤ)湖,ヨルダン川,死海,アラバ涸れ河などからなる,海面下に達する深い地溝,さらにその東側のシリア砂漠に続く高原地帯を特徴とする。そのうち,アンチ・レバノン山脈やヘルモン山のある北部は,アムック,ベカ(バカ),ハウラーンなどの山間の肥沃な平野をかかえ,古代西アジアの農耕,果樹栽培,林業の一中心地であった。これに対し,南部に行くにつれて,牧畜が支配的となる。また,海面下の地溝では局地的に熱帯性気候が見られ,川沿いの緑と周囲の茶褐色の山肌とが著しい対照をつくり出す。その東側は遊牧民と隊商都市(パルミュラ,ダマスクス,ボストラ,ペトラ,ゲラサ)の世界であった。そこと海岸部,とくにフェニキアの海港都市とは,山間の道路網で結ばれていた。
地質上は総じて石灰岩地帯であり,雨水は冬の一時期のみ涸れ河の河床を満たすが,すぐに地下水脈に吸収される。泉水は多いが,大河はなく,メソポタミアやナイル川流域のような大規模灌漑農耕は不可能である。夏季は高温乾燥で農耕に向かない。雨季(11~3月)には,北部山間部で1250mm程度の降水量があるのが最高である。西側からは地中海式気候,東側からは大陸性気候の影響があるが,北方の温帯性気候が及んでくるシリア北部はかなり温和な風土をもち,アフリカやアラビアの気候が影響を及ぼす南部は高温乾燥の期間が長い。農産物としては,海岸部ではオリーブやブドウなど地中海性の果樹が育ち,ブドウ酒が醸造された。その他の果実,蔬菜(そさい)類はシリアのほぼ全域でみのり,山間の平野では穀類が生産される。北シリアでは麻の生産とリネン産業が有名である。また,オーク,マツ,イトスギ,モミなどの木材も産するが,古代史上有名なレバノンスギは,聖書では香柏といわれ,船材をはじめ建築材料としてすぐれ,ダビデ,ソロモンは宮殿造営にこのスギを取り寄せたという。現在では天然記念物として一部に保存されているだけである。とくに大型の動物は存在せず,熊,レイヨウ,鹿などのほかは小動物のみである。羊毛の生産は盛んで,毛織物の生産量も多い。
古代の住民と文化
住民の基本構成要素は最古の時代からセム系の民族を中心とした。すなわち,アモリ人(アムル人),カナン人,アラム人,ヘブライ人,フェニキア人,ナバテア人,モアブ人,アンモン人,エドム人などの北西セム語系諸族であり,他の民族(ギリシア人,ローマ人,フルリ人など)は一時的に勢力を伸ばしたにとどまった。しかし,これらのセム系民族も主としてアラビア半島の砂漠からの侵入民であり,7世紀以降のアラブの征服・移住も含め,波状の民族移動が起こること自体シリアの特色であった。これらの民族の国家は青銅器時代以来都市国家を中心として分立していたので,〈アマルナ文書〉や旧約聖書に見られるように,エジプト,メソポタミア,ローマなどの強国に侵略・支配されることが多く,シリアはこれら列強の勢力均衡の場でもあった。文化的にもメソポタミア,エジプト,アナトリアなどの古い中心地からさまざまな要素を採用し,それを独自のものに変えていった。このことは,フェニキア美術や旧約聖書などに見られるとおりである。シリアはまた,他民族に見られない世界史への貢献もなしとげた。第1は,前2千年紀にフェニキア海岸で発明されたアルファベットである。これは西方では欧米の文字,西アジアではアラム文字やアラビア文字の起源となった。第2はアラム人による市民,商人など一般人の言語としてのアラム語の普及である。これとともに,西アジア世界の隊商組織,隊商都市の制度(商人貴族,関税など)が確立した。第3はフェニキア美術であり,第4はフェニキア人による遠洋航海術の達成である。
シリアの古代宗教は,基本的には農耕やオアシスをめぐる豊穣崇拝であり,各都市はそれぞれ独自のバアルBaal(男神)とバアラトBaalath(女神)をもっていたが,時とともにギリシア,ローマ,バビロニア,アラビアなどの神々との習合が起こった。また,フルリ人の主神ハダド(アダド)は内陸部シリアでとくに広く崇拝されたが,バアルと習合していた。バアルは雷神・戦神の性格をもっていたが,その後バビロニアの宗教の影響の下に,至高の宇宙神(天神,太陽神)となり,一神教的色彩を強めた。その代表的な例はパルミュラのバアル・シャミーンBaal Shamīn崇拝である。地母神としてはアタルガティスAtargatisが有名である。宗教儀式には,共食制度,新年祭,聖婚(ヒエロス・ガモス)などに基づく饗宴,行列,歌舞があった。墓制としては,再葬の風習が一部で行われた点が重要である。キリスト教は最初期から根強く流布し,4世紀まで他宗教と共存したが,コンスタンティヌス帝とリキニウス帝による公認(ミラノ勅令。313)後は,各地に教会堂,礼拝堂,修道院が建設された。シリアのキリスト教の中心地はアンティオキアであり,神学研究の学統としてアンティオキア学派が形成された。また,エデッサは最初のキリスト教国家として有名である。
歴史
古代
シリアの地理的範囲にはナバテア,ユダヤ,フェニキアも含まれるが,ここでは北シリアを中心に概観する。
石器時代
シリアの旧石器時代はカルメル山の洞窟遺跡によって知られる。シリアではこれに続いて,新石器時代への過渡期であるナトゥフ期(ナトゥフ文化)には,人類史上初の狩猟から農耕への生活の変化が起こりつつあった。ヨルダン川流域は,アナトリア南部の平原と並んで,西アジア,したがって世界における原始的な農耕の最初の中心地であった。新石器時代の間に,これらの地では組織化された伝統的社会が確立し,統率者の下に戦争をし,複雑な宗教儀式を編み出した。また,前5000年代には土器が製作された。もちろん,牛,ヤギ,羊,豚の馴化が進んだが,農耕民と遊牧民の対照的な生活様式もはっきりした。
青銅器時代
シリアが史上初めて文献史料に言及されるのは,ウルク王ルガルザゲシの征服記録中においてである。次いで,ユーフラテス川上流域出身の人とされるサルゴンがアッカド王となり,自らアマヌス山中に遠征した。彼の王朝は前3千年紀末葉のシリアを支配した。またアレッポの南南西にある都市エブラが全シリアに支配勢力を伸ばした(前2400ころ-前2250ころ)。これはシリア史上まれにみる帝国であった。ここから出土した多数の粘土板文書(〈エブラ文書〉)は当時の歴史ばかりでなく,旧約聖書の族長伝説との関係でも議論を呼んでいる。前2000年ころから起こったアモリ人の定着運動は,第1にアレッポに強大な王国を成立させ,オロンテス川流域にアララクという都市を築いた。第2に,メソポタミアに入ったアモリ人が建設したバビロニア帝国(バビロン第1王朝)は,やがてハンムラピ王の下にシリアを征服した。当時のシリアや,そのメソポタミアとの関係については,マリ出土の文書(〈マリ文書〉)で知ることができる。前18世紀末からは,北メソポタミア,シリア,アナトリアに言語系統不明の特異な民族フルリ人が勢力を拡大し,すでに各地に移住していたインド・ヨーロッパ語系諸族とともに,ユーフラテス川中流域にミタンニ王国を建設した。彼らの強味は馬に引かせる戦車を使用したことであった。ミタンニの勢力は前15世紀に絶頂に達した。前14世紀以降になると,エジプト新王国,ヒッタイト,アッシリアなどの外国軍隊がシリアを戦場とした。シリアの諸都市も互いに抗争し,弱体化した。当時の最も有名な戦いは,エジプトとヒッタイトの戦いのカデシュの戦(前1286ころ)であったが,決着はつかなかった。
アッシリアとペルシアの支配
このような中で,エーゲ海方面からの混成移住民〈海の民〉,アラビア砂漠からラクダとともに現れたアラム人,一部は出エジプトの集団,他はハピルあるいはハビルと呼ばれた流浪の民ヘブライ人などがシリアに移住した。〈海の民〉はヒッタイト帝国の首都を前1200年ころ攻略し,さらにシリアの諸都市を襲った。彼らの一分子フィリスティア人(ペリシテ人)は南パレスティナに定住した。前13世紀末までにアラム人はシリア各地の都市を支配し,北部のヒッタイト系移住民をも次々に征服し,ラクダを活用した隊商世界を築いた。彼らの中心はダマスクスのベン・ハダド王朝であった。パレスティナではカナン人をヘブライ人が征服し,独自の王国を建設し(前11世紀末),アラム人の都市国家と離合集散を繰り返した。
前9世紀になると,再興したアッシリア帝国がシリアの各都市やパレスティナの小王国を征服し始めた。前853年のカルカルの戦では,ダマスクス王とイスラエル(北王国)王のほかに12の王が連合してシャルマネセル3世と戦ったが,それから数十年の間にこれらの小勢力はほとんどすべて攻略され,住民の上層部は強制移住させられた。シリアのアラム人の独立時代は,前732年にダマスクスがティグラトピレセル3世に占領されたときに終わったが,彼らの隊商世界とその言語とはその後の西アジア史できわめて重要な役割を演じた。前612年には,アッシリアの首都ニネベがメディア人によって滅ぼされたが,シリアは引き続きアラム系の新バビロニア(カルデア)帝国の支配下にあった。ペルシア帝国の最初の王キュロス2世が前539年に新バビロニアの首都バビロンを征服し,アナトリアまでを支配下においた。その間に,アッシリアによって強制移住させられていたシリア人たちは,故郷に帰った。ダレイオス1世の行政組織の中では,シリア・パレスティナはキプロスとともに帝国の第5総督領(〈川向こう〉)をなし,年貢として銀350タラントンを納めることになった。
ヘレニズム・ローマ時代
アレクサンドロス大王とペルシア王ダレイオス3世との一大決戦が,キリキア平野の南部にあるイッソスの平野で行われ(イッソスの戦。前333),それ以後シリアはギリシア人の支配下に置かれた。すでに前800年ころまでに,オロンテス川の河口(アル・ミナAl Mina)にキプロス人,ギリシア人の貿易拠点が設立されていた。この港湾都市はギリシアと西アジアを結びつける窓口として,東方様式時代のギリシア文化に重要な役割を果たしたと思われる。アレクサンドロスの死(前323)以後は大王の後継者(ディアドコイ)たちによってシリアの地の領有が争われたが,最終的にはセレウコス1世によって前305年に建てられたセレウコス朝(シリア王国)が北シリアを支配した。しかし南シリアはプトレマイオス朝エジプトとセレウコス朝シリアの角逐の場となり,前3世紀前半から前2世紀前半までその領有をめぐって6次にわたる戦争が行われた(シリア戦争)。この間,前300年にはセレウコス1世により,後にシリア王国の首都となったアンティオキアが建設されるなど,シリアの都市化が進んだ(ほかに,セレウキア・ピエリア,ラオディケア,アパメアなど)。また,古くからの都市もギリシア化された(ハマト,アレッポ,エデッサ,カルキス,バンビュケなど)。
前200年ころ以後,シリアはほぼセレウコス朝の下にあったが,諸都市の政治的自由獲得や土着系小王朝(ユダヤ,ナバテア,イトゥラエア,コンマゲネなど)の独立運動のために,ギリシア人は著しく弱体化し,前1世紀初頭になると,その支配はまったく名目化していた。前83年にはアルメニア王ティグラネス1世Tigranēs Ⅰが侵入し,アンティオキアを占領した。このころまでに東方進出政策を推進していたローマ人は,これに介入して将軍ポンペイウスを派遣し,シリアをローマの属州とし(前64),小王国や都市には自治を許した。
ローマ帝国にとって,シリアはパルティアに対する軍事作戦基地や防衛拠点としてきわめて重要な意味をもっていたので,1世紀中葉までにここに4軍団を配備し,治安の確保に努め,寝返りの恐れのある小王国は次々に併合した。また現在も一部が残る軍用路が建設された。ローマ帝政下のシリア原住民は,都市に住んだ一部の者を除くと,村単位で農耕に従事し,ギリシア・ローマ文化の影響はあまり受けることがなかった。しかし,土着宗教の聖地はローマ当局による保護を受け,バールベク,バンビュケなどにはりっぱな神殿が建立された。この間に,ナバテア人のペトラが衰退するとともに,シルクロードの西端部としてのシリアの役割はしだいに増大し,1世紀からローマの臣従国はパルミュラが勢力を増大させた。このオアシス都市は商人貴族の支配する隊商の拠点であったが,3世紀前半にオダエナトゥスが支配権を握るとともに,軍事力を蓄え,内政上の混乱のためにペルシア戦線が手薄になったローマに代わり,東方の防衛をまかされた。夫の死後,実権を握ったゼノビアという女性が事実上の女王となり,子ウァバラトゥスを擁立して,ローマからの独立を宣言した(271)。一時はアナトリアからナイル川流域までを支配し,〈隊商帝国〉を築いたかに見えたが,273年アウレリアヌス帝によって滅ぼされた。パルミュラの経済力は,現存する建造物群の遺跡を見れば明らかである。パルミュラ人の勢力増大のもう一つの面は,アラブ系のシリア住民がしだいに独自の力をもちつつあったということである。ヘレニズム時代以来ペトラを中心に王国を築いたナバテア人もアラブ系であったが,そのほかにもシリア各地にアラブ系の諸部族が割拠していたことは確かであり,これはイスラムの膨張の一つの前提条件であった。パルミュラ滅亡ののち,シリアの地はビザンティン帝国の支配(395以降)を経て,7世紀にはアラブの支配下に入ったが,とくにウマイヤ朝時代にはダマスクスが首都となったため,一段とアラブ化・イスラム化が進むことになった。
→シリア・カナン神話 →メソポタミア
執筆者:小川 英雄
ビザンティン帝国時代
ビザンティン帝国はシリアを七つの行政区に分けて支配した。各行政区には知事が置かれ,治安の維持と徴税にあたった。一般的にはビザンティン帝国の政策は,厳しい徴税と,正統派キリスト教による締めつけに代表される。それにもかかわらず,シリアの経済や文化はこの時代にかなり繁栄した。文化的にはヘレニズムとキリスト教が中心であった。アンティオキアやその他の沿岸都市がヘレニズム文化,あるいはヘレニズムの影響を受けたキリスト教文化の中心地であった。内陸部ではヘレニズムの影響は表面的であり,シリアの土着性の表現はネストリウス派や単性論派など異端とされたキリスト教の中に見られた。経済的には,豊かな農業,織物・染色などの手工業,そして地中海貿易などの商業がシリア経済繁栄の基礎であった。地中海貿易において,シリアは主要な商品を提供するとともに,その主要な担い手もシリア商人であった。
6世紀になると,シリアはビザンティン帝国とササン朝ペルシアの抗争の舞台となり,繰り返し戦火に見舞われ,各地で略奪が行われた。この事態は同世紀中,断続的に続き,7世紀に入るといっそう拡大した。ササン朝のホスロー2世はシリア,エジプトをビザンティン帝国から一時奪い占領した。622年以来ビザンティン皇帝ヘラクレイオスは反撃に転じ,ササン朝を追い出し,旧領土を回復したが,長い戦火にシリア住民たちはビザンティン帝国に対しても冷ややかな感情しかもたなくなっていた。
アラブの征服
アラブが大挙してシリアに進出してきたのは634年になってからのことであるが,すでにそれ以前にシリアにおけるアラブの浸透は始まっていた。砂漠地帯から農耕地帯へのアラブの浸透は,長期間にわたってゆっくりとなされており,言語的にもまた混血の度合もはっきり境界線を引くことは難しい。ビザンティン時代にあってそのような辺境地方の半定住のアラブ系遊牧民の代表はガッサーン族であった。これと似たような部族が多くシリア辺境に住んでいたし,すでに定住化してしまったものも多くあった。イスラム教徒(ムスリム)となったアラブのシリア征服は,それまでの緩慢なアラブのシリアへの浸透が,非常に短い期間に大量にかつ軍事力を使って行われたものともいえる。大きな違いは,今回はアラブがイスラムという新しい宗教のもとに統一された勢力を形成しており,イスラムの優越と支配を確立した点である。シリア全土の征服は638年ころまでにほとんど完了した。その結果,シリアはアラブ・ムスリムの支配を承認し,税の支払と敵対的行動の停止と引換えに信仰の自由と財産の保障を各地の共同体は得た。
ウマイヤ朝・アッバース朝時代
639年以来シリア総督であったウマイヤ家のムアーウィヤ1世は,661年にカリフを宣しダマスクスを都として北アフリカからペルシアに至る広大な国家の支配者となった。ムアーウィヤ1世に始まるウマイヤ朝(661-750)はシリアを直轄領とし,灌漑を整備して農業を振興し,海軍を建設して地中海を制し,地中海貿易にも力を入れた。また帝国の中心地として各地の富はシリアに流れこみ,シリアは繁栄を謳歌した。各地で建設事業が行われ,エルサレムの〈岩のドーム〉,アクサー・モスク,ダマスクスのウマイヤ・モスクなどが建てられた。カリフの政府には,ムスリムあるいはキリスト教徒を問わず多くのシリア人が採用され大きな影響を与えた。またこの時代からシリアのアラビア語化が社会の上の方の部分から始まり,また後期にはイスラム化もかなり進んだ。
750年にアッバース朝(750-1258)が成立すると,帝国の中心地はイラク地方に移ってしまい,シリアは中央に余剰の富を吸い上げられる一地方にすぎなくなってしまった。また前代以来続いているアラブ遊牧民のカルブ族とカイス族の争い,ウマイヤ朝残存勢力の中央に対する反乱などは,シリアの地位をいっそう厳しいものにした。ただし文化面ではシリア出身者はそのヘレニズムの遺産をもって,いわゆるイスラム文明の興隆に大いに貢献した。
十字軍とアイユーブ朝下での繁栄
9世紀半ばになってアッバース朝の支配が緩んでくると,エジプトで事実上独立したトゥールーン朝(868-905)がパレスティナから中部シリアを支配し,10世紀の前半には同様の性格をもつイフシード朝がほとんど同じ領域を支配した。10世紀の前半から末まで,北シリアはハムダーン朝(905-1004)が勢力を張っていた。970年にファーティマ朝(909-1171)がシリアに進出したが,南部と沿岸地方のみで,北部は混乱しておりビザンティン帝国がしばしば侵入してきた。このように9世紀の半ば以降,シリアはエジプトとの結びつきが強くなり,エジプトに本拠を置く勢力に支配されることが多くなった。
1098年にアンティオキアを占領した十字軍は,翌年エルサレムを占領し,北シリアからアカバ湾に至る十字軍国家を建設した。これは当時ファーティマ朝が弱体化しており,一方では北部から中部シリアにかけてセルジューク・トルコの流れをくむトルコ系諸勢力が乱立していたため,シリア全土が政治的には一種の真空状態にあったためである。イスラム側の勢力を統一して十字軍に対抗するにはかなり時間がかかったが,ザンギー朝(1127-1222)のヌール・アッディーンによってかなり推進されたこの事業を,サラーフ・アッディーン(サラディン)が完成させた。サラーフ・アッディーンはマムルーク(奴隷軍人)の力を結集し,その活動の結果,十字軍は地中海沿岸地方に押し込められた。十字軍時代のシリアは,政治的衝突と戦争の時代であると同時に,奇妙な共存と連合の時代でもあった。ヨーロッパとイスラム世界との交易は,むしろ活発化し,砂糖をはじめとする新しい産物や技術が西方へ伝えられ,また文化的交流もすすんだ。サラーフ・アッディーンを創始者とするアイユーブ朝(1169-1250)はエジプトとシリアを支配したが,シリア各地は同朝一族の諸侯が分割統治した。アイユーブ朝時代のシリアは経済的にも文化的にもウマイヤ朝以来の繁栄を回復した。経済的には,砂糖,オリーブをはじめとする農産物,ガラス,セッケン,金属工芸品,織物などの特産物がエジプトやヨーロッパ世界に輸出され,また東西貿易の中継地として地中海沿岸やアレッポ,ダマスクスなどの都市が大いに栄えた。これらの都市では,支配者であるマムルークや商人によって,モスク,マドラサ(学院),ハンマーム(風呂屋),病院などの施設が建設・整備され,バグダードをはじめ荒廃のすすんだ東方の地から,ウラマー(学者)や職人が移住し,イスラム世界の新たな文化的中心となった。しかしこの繁栄も政治的不安定のために長続きせず,エジプトおよびその首都カイロに主導権を取られてしまった。
13世紀の中ごろにアイユーブ朝に代わってマムルーク朝が成立したが,マムルーク朝(1250-1517)時代のシリアは,モンゴルの侵入,疫病の流行,マムルーク朝諸侯間の抗争,15世紀初頭のティムールの侵入,地中海貿易での地位の低下,そして経済力の全体的衰退などにより,徐々にその重要性を失っていき,停滞の時期に入っていった。
執筆者:湯川 武
オスマン帝国時代
オスマン帝国(1299-1922)は,マムルーク朝から1516年にシリアを奪い,17年には同朝を倒してエジプト,ヒジャーズの支配権を得たが,イスタンブールの中央政府にとってシリアの重要性には時代的・地域的変化がみられる。
初期にはイランのサファビー朝との対応で,北部のアレッポが軍事的にも通商上も重要な拠点であった。他の地区はそれほどの意味をもたなかった。南のダマスクスは巡礼がヒジャーズに向けて出発する起点としての意味しかなかったけれども,オスマン帝国が政権として安定してくるにつれて,内政的に重要性をもち始める。だが,この両都市と,これを主都とする両地方はつねに相互に対立をはらむ関係にあった。
地中海東岸の諸港湾都市は対西欧交易で重要な位置を占めていたが,オスマン帝国は当初国際通商にあまり注意を向けていなかった。そのことが,シリア各地に小権力を簇生させ温存することになる。ラタキア地方からパレスティナのガザに至る各地の港が,農産物,手工業製品を輸出し,武器を見返りに輸入することで,各小権力の分立・抗争を助長する原因となった。そうして蓄えた実力を背景に,レバノン山岳地帯は内部に抗争をふくみながらも政治的に中央政府の干渉と統制を免れていた。
オスマン帝国の最盛期を築いた大征服王スレイマン1世(在位1520-66)が死去した後,オスマン中央政府の活動は,武官にあたるイエニチェリと文官のウラマー層の保守性に妨げられて,内政の実が上がらなかった。そこに,ヨーロッパの〈価格革命〉の影響が重なり,イエニチェリ行政官は,外来のインフレーションに対応して汚職,収奪(増税,臨時税)に腐心し,かつまたワクフ(宗教的寄進)制度を利用した蓄財に押し流されてゆく。
こうした大きな変化の中で,オスマン中央政府にとって貴重な財源はエジプトの富であったが,マムルークの残存勢力が根強く,面従腹背で,容易に政治目的を達することができなかった。そればかりか,エジプトの在地勢力はシリアの豊かな物産を狙い続けてきていた。シリアはトルコとエジプトの二大勢力の谷間の渡り廊下のような構造的状況におかれた。
その上,中央の統制が緩むと遊牧諸部族が蠢動(しゆんどう)する。シリアの各地はそれに対して自衛するためにも経済力・軍事力を涵養しなければならず,そのことがまた割拠を強めた。
周辺からの圧力の代表的なものに,アラビヤ半島に興ったワッハーブ派が,19世紀初頭にメソポタミアを越えてシリアへ侵入してきたという例がある。巡礼行路の安全を確保するのはオスマン中央政府の威信にかかわる問題であり,エジプトのマムルーク勢力に討伐を命ずると,恭順を装いながら好機を狙っていた彼らマムルークは勇躍する。なかでもナポレオンのエジプト侵略のときに討伐軍として派遣され,以後エジプトの実権をにぎったムハンマド・アリーは,ワッハーブ撃退にも勲功をあげ,そのままシリアに居座りを試みる(1833)。しかし農民蜂起と西欧列強の介入で撤退を余儀なくされた(1841)。すでに西欧列強と対抗できなくなっているオスマン中央政府は,領土の蚕食にあい,シリアの重要性に気づいてゆく。しかし,すでに各地に割拠する勢力は,エジプトのムハンマド・アリーばかりか,対抗関係に立つ西欧諸国とも,複雑な同盟関係をもち始めていた。
こうして,〈聖地とキリスト教徒(巡礼)の保護〉の名目で,〈東方問題〉がシリアの事情をいっそう複雑にする。たとえば,レバノンでシハーブShiḥāb家はドルーズ派から改宗してマロン派キリスト教徒になっており,15世紀以来ローマと関係をもつ同派本山の威光と財力とでレバノン山岳部の統一を果たし,たび重なる農民蜂起もフランス軍の力で鎮圧する。一連の農民蜂起の種はアッカー(アッコ)の知事ジャッザールが内陸シリアの実権を握り過酷な収奪を続けたことに起因する。
オスマン帝国の実情を憂えてさまざまの改革運動が,宮廷勢力からも近代教育を受けた少壮軍人,官僚からも起こされる。タンジマートの改革がそれであり,青年オスマン,青年トルコなどの運動もそれである。結局は,それらは帝国の危機に直面した,上からの改革で,人口の大部分である非トルコ諸民族をトルコ族の下に統合する企てであったから,実効が上がらなかった。圧制が続きながら理念が変わったにすぎないのである。
抗議の第一声はシリアのキリスト教徒たちからアラビア語の公用語化と政教分離の要求として放たれる。他方で,パン・イスラム主義の尖鋭化がみられ,オスマン帝国がアラブでなければ資格のないカリフ位を僭称しているという攻撃さえ始まる。近代思潮と原始回帰(サラフィーヤ),民族主義と世界主義,世俗主義と神秘主義など,思想的混乱と経済的困難がエジプトの植民地化でさらに深刻になる。
第1次世界大戦においてオスマン帝国がイギリス,フランスなどの連合国側に敗北,解体して,国民主義,世俗主義,共和制のトルコが生まれると,スルタン・カリフ制はあっさり廃止される。他方,戦時にメッカのシャリーフ,ハーシム家のフサインは,イギリスからオスマン帝国下にあったシリア,アラビア半島におけるアラブ王国独立の約束を取り付け(フサイン=マクマホン書簡),息子のファイサル1世やアブド・アッラーフ・ブン・フサインとともにアラブ反乱を開始する。ファイサル1世は連合国軍の一翼としてダマスクスに入城し,1920年シリア王位につく。
しかし,シリアの権益を争うイギリス,フランスは,すでに戦時中の1916年に秘密裡にサイクス=ピコ協定を結び,戦後の両国の勢力圏を取り決め,さらにイギリスは,ユダヤ人のシオニズム運動にも希望をもたせ,パレスティナへの入植を許し,バルフォア宣言によってユダヤ人国家建設の糸口を与えていた。両国は20年のサン・レモ会議と21年のカイロ会議において,シリア,イラクの委任統治権を旧連合国に承認させ,フランスは,ファイサル1世をシリアから追放した(図参照)。
こうしてアラブの独立王国樹立は阻まれ,シリア(歴史的シリア)は,南部はイギリスの,北部はフランスの委任統治下に分断され,アラブ民族主義は新しい局面を迎える。ハーシム家のアブド・アッラーフ・ブン・フサインは,21年にイギリスの援助でヨルダン川東岸のトランス・ヨルダンの首長(アミール)となり,依然として大シリア主義を志向するが,北部のフランス委任統治領では,26年に〈国民憲章〉という形で国家統合を成し遂げたレバノンと,ダマスクス,アレッポを中心とするシリア(今日のシリア)とでは別の歩みが始まる。他方,イギリス委任統治下のヨルダン川西岸の地域は,パレスティナとして画定され,バルフォア宣言の実行,すなわちユダヤ人国家の建設がイギリスの後押しをうけて着々とすすめられ,これをめぐる対立・紛争はパレスティナ問題となって顕在化する。こうして,かつてのシリア(歴史的シリア)は,レバノン,今日のシリア,パレスティナ,ヨルダンに分かたれ,分断された形で植民地支配からの独立・解放がすすめられることになる。
→パレスティナ →ヨルダン →レバノン
執筆者:林 武
シリア・アラブ共和国
基本情報
正式名称=シリア・アラブ共和国al-Jumhūrīyaal-`Arabīya al-Sūrīya,Syrian Arab Republic
面積=18万5180km2
人口(2010)=2044万人
首都=ダマスクスDimashq(日本との時差=-7時間)
主要言語=アラビア語
通貨=シリア・ポンドSyrian Pound
かつてのシリアの一部を占める共和国。
自然
国土は山脈と谷間とからなる西側の狭い地域と,東に向かって緩やかに傾斜する広大な台地の東側とに分かれる。北西には南北に走るアンサリーヤAnsarīya山脈(アラウィー山脈Jibāl al-`Arawīyīna)があり,その西側面はなだらかに海へ降下し,狭い沿岸平野が開けている。この山脈の東側は急斜面をなし,これに接してオロンテス川が緩やかに蛇行し,平底の谷とカーブ湿地の陥没流域が開けている。この地域の東部は丘陵地となっている。南西部のレバノンとの国境にはアンチ・レバノン山脈が走り,ヘルモン山(2814m)に達している。ヘルモン山の南にはゴラン高原(平均標高約1000m,1967年の第3次中東戦争でイスラエルが占領,以後両国の係争地となっている)がある。アンチ・レバノン山脈の南東,ゴラン高原の東にはハウラーンḤawrān平野が広がり,その南東にはドルーズ山(1798m)がある。南から北にハウラーン平野,ダマスクス・オアシス,ホムス,ハマーの平地,アレッポ平野,さらには北東のユーフラテス,ティグリス両河川に挟まれたジャジーラ地方へと連なる弧状の地帯は,〈肥沃な三日月地帯〉の西半分を形成している。この帯状地帯を北限にシリア砂漠が広がっている。河川は,ユーフラテス川(シリア領内600km),ジャジーラ地方のハーブールal-Khābūr川(同405km),オロンテス川(同325km),ダマスクスを貫流するバラダーBaradā川(71km),アレッポ平野を潤すクレイクQūrīq川(110km)などがおもなものである。
気候は,地中海式気候の西側地帯から内陸性半乾燥・乾燥気候の東側地帯へと大きく変化する。年間雨量は,地中海沿岸地帯で約500~1000mm,アンサリーヤ山脈で約1250mm以上,山脈の東側アレッポからダマスクスにいたる平野部で約125~255mm,ダマスクスから北部国境地帯およびジャジーラ地方にいたる三日月地帯で約125~255mm,パルミュラから南東にいたる砂漠地帯では13mm以下である。
住民
シリア人の起源はアラム人とされるが,特定の民族,種族を形成しているわけではない。セム系アラム文化は,前6世紀ころから約1000年にわたりペルシア,ギリシア,ローマなどのインド・ヨーロッパ系文化の支配をうけた後,アラブの移住によりセム系アラブの文化が興された。このような民族的交錯の結果,シリアの人種的構成は複雑なものとなっている。アラブが全人口の約88%を占め,クルドが6%,アルメニア人が2.9%,そのほかトルコ人,チェルケス人,アッシリア人などで3.1%を占めている(1978)。ほかに,中東戦争やレバノン内戦によって難民が流入し,パレスティナ難民が20万人,レバノン難民が30万~40万人存在する。
宗派的構成も複雑で,イスラム教徒86%(スンナ派71.9%,アラウィー派12.5%,イスマーイール派0.8%など),キリスト教徒9.9%(ギリシア正教,シリア正教,マロン派,アルメニア教徒など),ドルーズ派2.9%,その他1.2%から成っている。
政治,近代史
第1次世界大戦後,1920年のサン・レモ会議によりフランスの委任統治下に入ったシリアでは,オスマン帝国時代の遺制を再編,温存してこれを支配しようとするフランスと,シリアの独立を要求する民族主義運動との対抗が展開された。1925年のドルーズ派の反乱を契機に,シリアの民族主義者たちはフランスから名目的独立を獲得した。28年,憲法制定の準備が開始され,アターシーら名望家,富裕者など伝統的な支配者の集団であるナショナル・ブロックが結成された。このブロックは,おもにアレッポやダマスクスのスンナ派イスラム教徒から構成され,30年代には,北西部のアラウィー自治政体と南のドルーズ自治政体とを含めた独立シリア国家体制の樹立を目標として掲げた。
一方,30年代から40年代にかけて,インテリ,青年,学生を中心とする民族主義者の運動が出現し新しい政党へと発展した。その代表は,宗教と国家を分離しシリア主義を唱えファシズムに影響されたサアーダの率いるシリア民族主義党(PPS)と,アラブの統一を基本命題としミシェル・アフラク,サラーフ・ビタールの率いるバース党である。また,イスラム教徒のムスリム同胞団や,クルドやキリスト教徒などに支持を得た共産党も活動を展開していた。
46年の独立以後は,フランス委任統治時代に導入された議会民主制のもとで政党政治が行われ,ナショナル・ブロックから分裂した人民党や国民党が政権を掌握し,伝統的支配者や商・工業ブルジョアジーによる門閥支配,金権政治が展開された。48年の第1次中東戦争の敗北を契機に,49年のクーデタと49-54年の軍事政権が継起するが,これは前近代的社会に対する挑戦であり,近代的な議会民主制と伝統的な社会状況との矛盾を修正する試みであった。この軍事政権は,旧来の社会秩序における封建的な体質を崩壊させ,近代的な産業国家の樹立を試みたが,やがて軍事独裁化が進行し,あらゆる階層の反感を買って崩壊し,議会民主制が復活した。40年代後半から50年代にかけて社会の流動化が進行して新しい社会グループが成長し,革新的政党であるバース党や共産党が大きく台頭してきた。54年の軍事政権崩壊から58年のアラブ連合共和国結成までのシリアの政治は,1955年のバグダード条約,56年のイラクの陰謀,57年のアメリカの陰謀など外的要因によって大きく左右された。そして,人民党や国民党などの帝国主義勢力と連携する国内反動主義者や,これを支持するムスリム同胞団やPPSの保守派グループに対し,知識人,学生,労働者,農民を支持層とする共産党とバース党,およびこれに連携する民族主義者(国民党の左派)とアズムal-`Azm(1900-65)を中心とする民主ブロックが結束して対抗した。
58年,バース党,国民党の左派,民族主義的将校たちが人民党の同意を得てエジプトのナーセル政権と合併しアラブ連合共和国を結成した。しかしながら,共産党の弾圧,バース党員の抑圧,将校の冷遇などナーセルの独裁化が進行し,さらに一連の社会主義法令が発布されると,61年9月これに不満な人民党と軍人が提携しクーデタを起こし,シリアはアラブ連合共和国から離脱した。
離脱後一時,都会出身でスンナ派の富裕者による保守政権が復活するが,これはすでに優勢となっていた社会主義勢力に対抗できず,やがて小都市・農村部出身のマイノリティを中心とする革新派の政権と交替し,自由主義体制から社会主義体制へと移行した。
63年3月の革命によって革新派のバース党が政権を掌握し,農地改革や国有化を基本にシリア社会の社会主義移行を掲げるが,この社会主義イデオロギーをどの程度採用すべきかをめぐって,さらにこれに党の指導権をめぐる文民派と軍人派の対抗が複雑に絡みあって,党内で分裂抗争が繰り返された。このなかからやがて急進派と軍人派が台頭し,66年2月の革命までに党創設グループの文民・中道派とスンナ派軍人グループが追放され,以後急進的な社会主義路線をとることとなった。その後,ドルーズ派の文民急進派と軍人グループ,ハウラーン地方出身のスンナ派軍人グループ,イスマーイール派軍人グループなどが次々と政権グループから追放され,アラウィー派が権力の中枢を独占するようになった。他方,これと並行してアラウィー派内部にも67年の六月戦争や70年のヨルダン内戦介入をめぐって抗争が起こった。この抗争は究極的には党人急進派と軍部の対立として極化し,70年アサドḤāfiẓ Asad(1928-2000)国防相の率いる軍部が勝利し,アサド政権が誕生した。アサドは広範な政治基盤をつくるための組織化に努め,急進的な社会主義的方向を修正し現実的路線を採用している。
現行の恒久憲法は73年3月に発布された。この憲法は4年任期で立法権を有する人民議会を規定した。また大統領の任期を7年とし,大統領候補は人民議会が選出することを規定した。人民議会による大統領候補の選出は,現実にはバース党シリア地域指導部の提案に基づいて実施されている。
1971年2月に設立された人民議会は,理論的には,多数の政党や団体によって代表される性格のものであったが,実際にはバース党主導のもとに複数の政党が集まってできた国民進歩戦線(1972年設立)によって支配されている。
アサド政権は,1980-88年のイラン・イラク戦争でイランを支持したため,この間アラブ世界で相対的に疎外されていた。しかし,88年の終戦以降はアラブの主流に戻り,89年12月には(サーダート大統領のエルサレム訪問を契機に)これまで中断していたエジプトとの外交関係を再開し,欧米寄りの態度を示すようになった。90年8月のイラクによるクウェート侵攻に端を発した湾岸戦争では反イラク連合の側に入り,これを契機に欧米との和解の方向が一段と明確となってきた。
兵制は徴兵制(18~45歳)で兵役義務は30ヵ月(1974年から)。陸軍30万人,海軍4000人,空軍10万5000人(1988)のほか,予備役約10万人から成る。
経済,産業
フランス委任統治から脱却したシリアは,自由主義体制の下でブルジョアジー発展の時代を迎えた。地主の一部および両世界大戦によって潤った商人や資本家が農業や工業に投資し,農業ブルジョアジーや工業ブルジョアジーに転換していった。このブルジョアジーの発展はアラブ連合共和国時代(1958-61)に転機を迎えた。この時期に社会主義原則が導入され農地改革法が発布され,計画経済の原則が確立された。この方向はさらに社会主義的移行を基本課題の一つとするバース党政権のもとでいっそう促進され,農地改革や国有化が実施された。70年に誕生したアサド政権においても,その基本方向は変わらず,国有化によって形成された公共部門を中心とする開発計画が実施されている。
大規模な開発計画は,継続的な戦争状況により増加する軍事費とともに,その資金をアラブ産油国からの贈与や借入金,および石油通過料収益などの外国援助や外貨収入と赤字国債,銀行融資などの政府支出とに依存している。このことは通貨供給量を増加させ,インフレーションをもたらしている。この現象は73年の石油危機以降とくに顕著である。
シリア経済の根幹は農業である。工業は食品加工,繊維,ガラス,セメントが主要業種であったが,1968年からの石油生産,72年からのリン鉱石生産の開始によって公共部門を中心とする重化学化も推進されるようになった。近年工業化重視政策への反省が行われ,食料の自給化を高め外貨を節約する,製糖,食品加工,肥料など農業関連工業の開発,畜産振興などを基本課題とする農業重視の方向が再考されている。
農業は労働力人口の37.8%を吸収し,国内純生産(NDP)形成に18.9%(1978)貢献している。耕地面積は国土面積の30%にあたる554万haで,そのうち灌漑地は9.9%の54.7万haにすぎず,農業生産は年々の降雨に左右されている。そこで水資源の利用を拡大して灌漑耕地を拡張し安定した農業生産を確立することが食料自給を高めるうえからも重要な課題となっている。現在ユーフラテス川やオロンテス川,ハーブール川などにダムを建設し灌漑耕地を開発する計画が実施されている。なかでもユーフラテス・ダム建設計画は,豊富な電力を供給するとともに64万haの灌漑耕地を造成しようという意欲的なもので,ダムはソ連の援助により75年に完成した。農業生産では耕種部門が73%,畜産部門が27%を占めている。主要な農業生産は,小麦,大麦,綿花,テンサイ,ミルク,乳製品などである。
工業は労働力人口の13.7%(1978)を吸収するにすぎないが,鉱業の発展により73年以降NDPの形成に農業を上回る貢献をしている。工業では主要企業の国有化とこれら国有化企業の再編成によって公共部門が大きく成長し,工業全体における生産額の67%,労働者数の40%,投下資本の94%を占めるにいたった。公共部門の企業は,食品工業,繊維,機械工業,化学工業,精糖,セメント工業の6公団に統括されている。他方,民間部門の企業は食品,日用の衣料,金細工などの製造を行う小企業が中心である。
石油・鉱物資源も政府の統括下にある。石油は北東部のトルコ,イラク国境地帯に産出し,現在までに5油田が開発され,年間約900万tの計画生産が行われている。製油部門は従来からのホムス精油所(年間能力520万t)のほかバーニヤース精油所(年間能力600万t)が近年完成している。リン鉱石は70年代に開発され,パルミュラ付近の3鉱区で生産が行われている(1979年に約120万t)。岩塩も埋蔵量9.8億t(推定),年間生産能力6万tの岩塩場がユーフラテス川流域に発見され,72年から生産が開始された。電力の生産はユーフラテス・ダムの完成によって77年以降大きく伸びている。
貿易は,近年まで綿花,タバコ,小麦などの農産物を輸出し,工業用原材料・製品を輸入するという構造が続いていたが,74年以降小麦の輸出が停滞し,石油輸出の比重が高まっている。相手国も60年代のソ連・東欧諸国中心から,西ドイツ,イタリアなど西欧諸国へと重心の変化が見られる。
鉄道はダマスクスで西のベイルートと南のアンマーンを結ぶヒジャーズ鉄道と,アレッポを中心にシリア北部を東西に走る路線が敷設されているが,国内輸送の主力は道路輸送によるもので,旅客・貨物とも全輸送量の90%以上を占める(1976)。港湾は北部にラタキア,バーニヤースなどがある。
社会
血統と家柄を基盤とする伝統的な名望家,商人,および農民というシリアの前近代的な社会秩序は,1930~50年代の資本主義的な経済発展や教育など社会の近代化によって大きく流動し,商・工業ブルジョアジー,都市の下層中産階級(弁護士,医者,教員,技術者,軍人将校など),学生,下層労働者層,貧困農民層などの諸グループが出現した。社会の流動化は,60年代の社会主義化政策によりさらに進展し,伝統的な名望家や商・工業ブルジョアジーが消滅した。一方,70年代に入り,新たな経済政策がとられると,公共セクターと民間セクターの錯綜した関係の中から,政権担当者と同盟した〈新しいビジネス・エリート〉や商業ブルジョアジーが現れた。これは社会的に少数派であった政権担当者がその政権の基盤を拡大していく過程で出現した,シリアの歴史においてこれまで見られなかったタイプの社会グループである。
教育制度は,初等教育6年,前期中等教育3年,後期中等教育3年,高等教育(短期2年,大学4~6年)に分かれ,初等教育は義務教育で無償である。後期中等教育段階から一般教育と職業教育コースとに分かれる。大学は4大学あり,ダマスクス大学(1923創立。13学部,学生数約5万5000),アレッポ大学(1960創立),ティシュリーン大学(前ラタキア大学。1971創立),バース大学(ホムスに1979創立)がある。
新聞・雑誌は50種以上ある。主要アラビア語の日刊紙としては《バースal-Ba`th》(ダマスクス,バース党機関紙),《サウラal-Thawra》(ダマスクス),《ティシュリーンTishrīn》(ダマスクス)などがある。
ラジオ・テレビ放送局は政府の独占事業である。ラジオではアラビア語のほか英語,フランス,ロシア,ドイツ,スペイン,ポーランド,トルコ,ブルガリアの各国語の放送が行われている。テレビは1960年より放映されている。
執筆者:木村 喜博