百科事典マイペディア 「朝倉氏」の意味・わかりやすい解説
朝倉氏【あさくらうじ】
→関連項目浅井氏|朝倉始末記|一乗谷|越前国|延暦寺焼討|小谷城|金崎城|河口荘|千草街道|坪江荘|福井[市]|府中
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戦国大名。本姓日下部(くさかべ)氏。もと但馬国(たじまのくに)(兵庫県)養父(やぶ)郡朝倉(養父市)の出身であるところから朝倉氏を称す。南北朝時代、広景のときに越前(えちぜん)(福井県)に入る。応仁(おうにん)の乱(1467~1477)のとき、孝景(たかかげ)(敏景(としかげ))が主家斯波(しば)氏の内紛に乗じ、越前の支配権を奪取。以後、義景(よしかげ)まで5代、100余年の間越前を統治した。「朝倉敏景十七箇条」(孝景条々)は分国法の先駆をなすものとして著名。孝景の孫の貞景(さだかげ)は同族争い、一向一揆(いっこういっき)を抑え領国支配を確立。その子孝景は足利(あしかが)将軍の供衆(ともしゅう)、相伴衆(しょうばんしゅう)となり、よく命に応じ、近隣諸国の内紛に介入、戦国時代の室町幕府体制を支えた。義景はしばしば川中島の戦いに呼応して加賀に出兵、越後上杉氏の背後を安からしめた。織田信長の台頭を迎え、敦賀(つるが)天筒山(てづつやま)の戦い、姉川の戦いと何度も信長と干戈(かんか)を交えたが、1573年(天正1)刀祢坂(とねざか)(福井県敦賀市刀根(とね))の戦いに破れ滅亡した。
[水藤 真]
越前の戦国大名。はじめ日下部氏。平安末期,但馬国養父郡朝倉に住し,朝倉氏を称した。南北朝時代,広景が足利方の斯波高経に従い越前に転戦し,坂井郡黒丸に住す。代々守護斯波氏の重臣として,中野,松尾,阿波賀,向,三段崎,東郷,中島,北庄,鳥羽の支族を分出。敏景(孝景)のとき,応仁の乱および主家斯波氏の内紛に乗じ,1471年(文明3)越前一国を領し,一乗谷に城を築く。《朝倉孝景条々》は戦国家法として有名。孫の貞景は一向一揆および同族争いを鎮め領国支配を確立。その子孝景は,幕府の要請を受けたびたび近隣諸国の内紛鎮定のために出陣し,畿内近国における後期室町幕府体制の維持に活躍。戦国末期義景に至り,当初上杉謙信と提携し加賀一向一揆との抗争を繰り返す。後,織田信長の台頭を迎えると一転して,本願寺,浅井,武田と提携し,信長包囲網を形成。1570年(元亀1)姉川の戦に敗れ,73年(天正1)刀禰坂の合戦に惨敗し,滅亡した。
執筆者:水藤 真
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
越前国の戦国大名。日下部(くさかべ)氏。但馬国朝倉(現,兵庫県養父(やぶ)市)からおこった。鎌倉時代,一族が御家人長井氏に仕えた。南北朝期には,広景(ひろかげ)が斯波(しば)高経に従って越前国に転戦,守護斯波氏に仕えた。その後,応仁・文明の乱頃,孝景の代に斯波氏の内紛に乗じて守護代甲斐氏を抑え,越前一国を支配。一乗谷(いちじょうだに)(現,福井市)を本拠として戦国家法の「朝倉孝景条々」を制定。以後,氏景・貞景・孝景・義景と続き,一向一揆などとの戦いをくり返した。1573年(天正元)織田信長に一乗谷を攻められ滅亡。
出典 山川出版社「山川 日本史小辞典 改訂新版」山川 日本史小辞典 改訂新版について 情報
出典 旺文社日本史事典 三訂版旺文社日本史事典 三訂版について 情報
…福井県福井市街の南東約10kmにある足羽(あすわ)川支流一乗谷川の狭長な谷。1471年(文明3)朝倉敏景が父祖以来の坂南郡三宅黒丸(現,福井市北郊)を捨ててここに築城してから,1573年(天正1)義景が織田信長に滅ぼされるまで,越前守護朝倉氏5代の本拠地であり,戦国期の重要遺構として,両側の山地を含む地域が1971年特別史跡〈一乗谷朝倉氏遺跡〉に指定された。1967年以来の発掘により義景居館,庭園(南陽寺,湯殿,諏訪館。…
…越前から放逐された反朝倉勢力はこれら一向一揆と結んでしばしば越前侵攻を試みたが,敏景に続く氏景,貞景の時代はよくこれを撃退して,朝倉の領国支配を維持した。87年(長享1)越前国領有をめぐって朝倉氏と斯波氏の間で訴訟事件が起こるが,これも朝倉側が実質的な勝利を収め,名実ともに越前支配は揺るぎないものとなった。貞景時代は国内の行政組織を整備する一方,同族争い(朝倉景豊の乱)を克服し,加賀からの大規模な越前侵攻(永正一揆)を撃退すると同時に越前一向宗徒の巨頭超勝寺,本覚寺らを加賀へ追放した。…
… 南北朝期になると越前守護斯波高経をはじめ諸勢力の押妨をうけた。室町期以降には大乗院は直務支配を続けるとともに,請負制も実施し,その荘官には堀江,甲斐氏など在地の有力武士が任命され,応仁・文明の乱のなかで朝倉氏がこれらにかわって,やがて荘地の大部分を侵略した。また当地域の在地史料には1458年(長禄2)の称念寺々領目録(称念寺文書)や本役銭,反銭などの収取に関する文書(滝谷寺文書,御前神社文書など)があって,荘内の複雑化した土地権利関係が知られる。…
… 鎌倉末期には郷内において悪党の活動が活発化し,1333年(元弘3)三国湊の悪党による強盗・殺害事件,翌年には上郷名主らの供料・御服横領などが続いた。室町期には在地では武士・国人の侵略,興福寺内では氏人たちの不忠が続き,さらに応仁・文明の乱のなかで甲斐氏を破った朝倉氏が1470年(文明2)坪江荘悉(ことごと)くの知行を申し出,72年半済(はんぜい)をてこに一荘全体を掌握,その一族と家臣堀江氏が荘内諸代官を占めた。なお当地域の在地史料には長禄合戦のなかで将軍の安堵を求めて提出された1458年(長禄2)の坪江郷簾尾(すのお)村竜沢寺寺領目録や同時期の寺領坪付帳(竜沢寺文書),また荘園領主の収納権に由来する本役米・本役銭と朝倉氏の領国支配権にもとづく段銭(たんせん)などの収取関係文書(滝谷寺,性海寺文書など)があって,郷(荘)内の複雑化した土地権利関係が知られる。…
…しかし,1418年(応永25)に年貢米の売却と関について大津の馬借数千人が強訴した事件や,26年近江の米価下落を原因とする坂本馬借の京都乱入事件に見られるように,運送業だけではなく,米商人としての性格を持つものもあった。また,永正年間(1504‐21)の越前では朝倉氏の保護の下に塩・榑(くれ)などの独占的な販売権を持っていた。馬借は問屋の下に組織されていたが,中世では専業者だけではなく,周辺の農民が農閑期に運送に従事する場合もあった。…
※「朝倉氏」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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