戦国末期の武家同族。三好長慶(ながよし)の祖父長秀の甥三好政康,同長逸(ながゆき)および長慶近臣の岩成友通の3名を指す。長慶が1564年(永禄7)病没すると,猶子義継は幼年であったのでこの3名が後見となり,松永久秀と協力して政務に当たったが,翌年5月将軍足利義輝を暗殺して以後,跡目の義栄擁立のことで久秀と絶縁,交戦状態に入った。66年久秀を堺に追放し,畿内をほぼ制圧したが,翌年久秀が三人衆と不和になった義継を擁して巻返しに転じ,東大寺は炎上し,奈良をはじめ河内,大和,南山城は戦乱状態となった。この混乱に乗じて68年織田信長が上洛,畿内を平定したため,三人衆は阿波に追い落とされ,翌年より再三大坂周辺で抵抗したが,久秀,義継が織田方に就いたので勢力は衰え,73年(天正1)友通のこもる淀城が陥落して,畿内での支配拠点を失い,75年5月,同族の高屋城将三好康長が信長に降って三好氏は阿波,讃岐に逼塞した。
執筆者:今谷 明
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戦国期に畿内(きない)に割拠した三好政権を構成した三人の同族衆。1564年(永禄7)三好長慶(ながよし)が没すると十河重存(そごうしげまさ)(三好義継(よしつぐ))が猶子(ゆうし)として擁立されたが、政権の主導権をめぐって松永久秀(ひさひで)と三好氏一族の間に隙が生じ、とくに65年5月の将軍足利義輝(あしかがよしてる)暗殺後は分裂状態となった。そこで三好長逸(ながゆき)、三好政康(まさやす)、岩成友通(いわなりともみち)の3名は山城(やましろ)、摂津を地盤に、大和(やまと)・丹波(たんば)の松永氏と絶縁して対抗し、戦火は畿内全域に及んだ。東大寺大仏殿が炎上したのもこの争乱のときである。三人衆は将軍跡目に足利義維(よしつな)の子義栄(よしひで)を擁立し、阿波(あわ)の篠原長房(しのはらながふさ)らと呼応して三好政権を維持しようとしたが、当主義継や一族の三好康長らの離反と1568年(永禄11)の織田信長の入京、畿内制圧によりその政権は瓦解(がかい)した。
[今谷 明]
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…49年まではまがりなりにも守護細川氏の支配がかろうじて続いたが,三好長慶が畿内に覇を唱えるや,当国は岸和田城に長慶の一族十河一存(そごうかずまさ)が入部し,一存の没後は三好義賢,安宅(あたぎ)冬康が相次いで同城主となり,68年(永禄11)の織田信長入京まで,三好氏の支配が続くのである。 信長入京後の和泉は,三好義継の部下が家原城その他に分封されたが,堺は依然三好三人衆側に属し独立の態度をとった。そこで信長は翌年,堺の町が三人衆側に通じたことを責めて2万貫の矢銭を賦課し,堺はついに信長の軍門に屈して栄光の自治都市としての幕を閉じた。…
…戦国末期の武将。三好三人衆の一人。三好長慶の一族。…
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出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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