三山村(読み)みやまむら

日本歴史地名大系 「三山村」の解説

三山村
みやまむら

[現在地名]美星町三山

大倉おおくら村の北西の高原に位置し、東は宇戸うと村。文安四年(一四四七)一二月一三日の延利下知状写(吉備津神社文書)に三山とみえ、宇戸村など三ヵ村とともに吉備津宮の神子公事を催促されている。元亀二年(一五七一)一月二八日の毛利元就・小早川隆景連署状(萩藩閥閲録)などによれば、毛利氏の備前児島こじま・備中北部進出に際して、当地に備後衆が駐屯、前線基地となっている。慶長一一年(一六〇六)の徳川家康朱印状(高山公実録)によれば、小田郡に属す「深山地頭方」高三〇八石余が、伊予の藤堂高虎に加賜されている。同朱印状で同様に高虎に加賜された狩屋村、高一七六石余は現在の苅屋かりやで、近世史料では狩谷・かりやなどとも記された。寛永備中国絵図でも深山村とあり、松山藩領(地頭分、高三一〇石余)・旗本宮城領(苅屋分、高一七六石余)・旗本花房領(領家分、高七三七石余)の相給。正保郷帳では花房領と幕府領(高四八七石余)の相給で、ほかに高二石余の三山村新田があり、枝村に名畑なばた村・領家りようけ村・森定もりさだ村が載る。延宝五年(一六七七)検地帳(美星町役場蔵)では田方一千七石余・九七町六反余、畑方三〇七石余・四七町七反余で桑年貢銀七分を上納し、茶七三〇株、池五ヵ所があった。


三山村
さんやまむら

[現在地名]小鹿野町三山

白石しらいし山の南、赤平あかびら川流域の山間地に位置し、東は上飯田かみいいだ村、南はすすき(現両神村)、西は河原沢かわらさわ村、北は藤倉ふじくら村。東流する赤平川に沿って往還が通る。「郡村誌」では白石山・八日見(両神)山・二児(二子)山を合して三山と称し、これが地名の由来で、また元は河原沢村一村であったが、永禄(一五五八―七〇)の頃に分れたという。中世の三山郷の遺称地。同郷は当地や現小鹿野町小鹿野などを含む赤平川上流域一帯の山間地を郷域としていたと推定される。正和五年(一三一六)六月二七日の関東下知状写(中村文書)に「武蔵国三山郷内屋敷壱所」などとみえ、幕府は中村氏八郎後家尼音阿の訴えを受け、これらの地に対する中村宗広の押領を停止せしめ、音阿の領掌を認めている。


三山村
みやまむら

[現在地名]船橋市三山一―九丁目・田喜野井たきのい二丁目

田木野井たぎのい村の東に位置する。古くは御山みやまとみえ、二宮にのみや神社に由来する。神社前の低地の湧水を水源として集落が発達したという。南東部は下野しもの牧を開墾した新田村で、今湊いまみなと新田と称した。戦国期は高城氏の勢力下にあったとされ、宮間村とみえているが(高城胤忠旧知行高付帳)、未詳。慶長七年(一六〇二)八月の葛飾郡御山庄八木谷村検地帳(湯浅家文書)により御山と記されていることが知られる。


三山村
みやまむら

[現在地名]丹後町三山

川の中流右岸、鞍内くらうち村の東南方に位置する。周辺は山に囲まれ、西方はわずかに開けて耕地があり、宇川の沿岸に続く。中世宇川保の地。近世初期も宇川村の内で、慶長検地郷村帳に「宇川村之内三山村」と記される。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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