三日町村(読み)みつかまちむら

日本歴史地名大系 「三日町村」の解説

三日町村
みつかまちむら

[現在地名]清見村三日町

北東に流れる川上かわかみ川と南東流する牧谷まきだに川の合流地点両岸にあり、北東は高山街道で新宮しんぐう(現高山市)に通じる。南方の美濃国郡上ぐじよう郡、西方の白川しらかわ郷からの道が当地で合流し高山に向かう。長滝ちようりゆう(現郡上郡白鳥町)河上かわかみ庄の中心集落で中野なかのとよばれた。長滝寺塔頭宝幢坊文書に明徳四年(一三九三)一〇月三日の中野給主年貢注文がある。本所坊ほんじよぼう地名が残り五輪塔・宝篋印塔の残欠がある。慶長一〇年(一六〇五)飛騨国郷帳の川上郷に中野村とみえ、新宮村とともに高付される(高山市の→新宮村。同一八年郷帳でも中野村として高三〇三石余。元禄検地反歩帳に三日町村とみえ、高一五七石余、田一九町五反余・畑二町八反余。


三日町村
みつかまちむら

[現在地名]箕輪町大字三日町

天竜川の東岸、木下きのした村と相対す。段丘崖下の沖積地から段丘上山麓まで村落が散在する。

村名の初見は天正一九年(一五九一)の信州伊奈青表紙之縄帳で、「箕輪領」の部に村位は中、村高は「七百弐拾弐石弐斗四升五合 三日町」とある。村名の起りはつまびらかでない。

慶長一七年(一六一二)の天竜川の大洪水で、それまで西のほうに広がっていた三日町の家宅は流され、村全体が東の段丘崖下に移ったといわれる。今も天竜川の西岸地域古町・町田などの字が残っている。

村の東山麓に曹洞宗清雲山澄心ちゆうしん寺があり、朱印高一三石、村の内三日町東に朱印高三石の八幡宮、村の北に朱印高三石の箕輪南宮みのわなんぐう社がある。


三日町村
みつかまちむら

[現在地名]国府町三日町

荒城あらき川下流左岸平坦部にあり、北は木曾垣内きそがいと村、南は広瀬町ひろせまち村。飛騨国分寺(現高山市)梵鐘に永正一一年(一五一四)一〇月晦日の日付と「吉城郡荒木郷三日町 十王堂鐘」とみえる。慶長一〇年(一六〇五)の飛騨国郷帳によれば荒木あらき郷に属し、三日町・漆垣内うるしがいと・木曾垣内・半田はんだ鶴巣つるす大坪おおつぼ六ヵ村分として、田方一千一一三石余・畑方九五石余、物成三六二石余とある。同一八年の郷帳では独立して記され、高四〇八石。元禄検地反歩帳によると吉城郷に属し、高三二三石余、田二二町余・畑五町六反余。「飛騨国中案内」では免五割七分余、家数三四(うち百姓三二・門屋二)


三日町村
みつかまちむら

[現在地名]押水町三日町

大坪おおつぼ川と杓田しやくでん川に挟まれた小さな村で、西の御館おたち村の枝村(「公務当用記」加藤文書)正保郷帳では御館村・中野なかの村と合せて高付される。寛文一〇年(一六七〇)の村御印では高三五石、免四ツ三歩、新田高一石で、小物成は山役二五匁、鳥役一匁(出来)、草野役四匁(三箇国高物成帳)。天保年間(一八三〇―四四)の村明細によると村高はあまり変わらず、家数六(うち頭振一)・人数二四、馬三、稼は蚕・苧嘉永五年(一八五二)の押水組巨細帳(近岡文書)によると高三五石余のうち田高一八石余・畑高一四石余で田地率は低く、古手商一軒・大工一人のほか、縄・莚・俵・楮・蚕・苧・柴・薪小売などの賃稼が多かった。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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