三木武夫内閣(読み)みきたけおないかく

日本大百科全書(ニッポニカ) 「三木武夫内閣」の意味・わかりやすい解説

三木武夫内閣
みきたけおないかく

(1974.12.9~1976.12.24 昭和49~51)
三木武夫首班とする自由民主党内閣。1974年12月、金脈問題による田中角栄退陣後の党内抗争収拾のための椎名(しいな)裁定により三木自民党総裁に選出された結果成立。「クリーン三木」を看板に「世論重視、社会的不公正の打破、インフレ阻止」を掲げ、政治資金規制法、公職選挙法独占禁止法改正を公約した。このうちインフレ阻止は実現したものの、3法案、とくに独禁法改正は財界・保守本流派の猛反発を招き実現に至らなかった。また党内基盤の弱さから党内右派の圧力に抗しきれず金大中(きんだいちゅう)事件処理のあいまい化、靖国(やすくに)神社参拝、公労協のスト権ストへの強硬姿勢など右寄り路線をとった。1976年2月ロッキード事件が表面化すると徹底究明の姿勢をとったが、これにより党内右派の不満が爆発、「三木おろし」の嵐(あらし)のなか12月総選挙に突入、自民党が単独過半数を割る大敗を喫し、責任をとる形で退陣した。

伊藤 悟]

『中村慶一郎著『三木政権・747日 戦後保守政治の曲がり角』(1981・行研)』

出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)日本大百科全書(ニッポニカ)について 情報 | 凡例

百科事典マイペディア 「三木武夫内閣」の意味・わかりやすい解説

三木武夫内閣【みきたけおないかく】

1974年12月9日−1976年12月24日。自由民主党単独内閣。田中角栄内閣退陣後,いわゆる椎名裁定によって誕生。独占禁止法,政治資金規正法,公職選挙法の改正を目ざしたが,実質的には不成功に終わった。1976年ロッキード事件の徹底究明を提唱したため自民党内の猛反対にあい,世論の支持でかろうじて踏みとどまったが,同年12月内閣総辞職。→三木武夫
→関連項目防衛計画大綱

出典 株式会社平凡社百科事典マイペディアについて 情報

山川 日本史小辞典 改訂新版 「三木武夫内閣」の解説

三木武夫内閣
みきたけおないかく

自民党の三木武夫を首班とする内閣(1974.12.9~76.12.24)。田中角栄の退陣後,椎名悦三郎副総裁の裁定で,党内少数派閥の代表三木が組閣。政治の粛正,社会的公正の実現などを目標に掲げたが,党内諸派閥への根回しを嫌った三木の政治手法は周囲の反発を招いた。ロッキード事件の解明が党内抗争を激化させ,たびたびの「三木おろし」にあって,内政面では確たる成果をうまなかった。むしろ1975年(昭和50)8月の訪米,フォード会談,同年11月の第1回先進国首脳会議(サミット)など,外交に意欲をもった。防衛計画大綱や防衛費をGNPの1%枠内とする方針の決定も注目される。76年11月の総選挙で自民党が過半数を割り,総辞職。

出典 山川出版社「山川 日本史小辞典 改訂新版」山川 日本史小辞典 改訂新版について 情報

旺文社日本史事典 三訂版 「三木武夫内閣」の解説

三木武夫内閣
みきたけおないかく

三木武夫(1907〜88)を首班とした自由民主党内閣(1974.12〜76.12)
田中角栄内閣のあとをうけて組閣。物価鎮静・公害問題に対処したが,財政逼迫で苦しむ。ロッキード事件の徹底解明をめぐって党内主流派と対立,総選挙で自民党は敗北し,福田赳夫 (たけお) 内閣に代わった。

出典 旺文社日本史事典 三訂版旺文社日本史事典 三訂版について 情報

今日のキーワード

カイロス

宇宙事業会社スペースワンが開発した小型ロケット。固体燃料の3段式で、宇宙航空研究開発機構(JAXA)が開発を進めるイプシロンSよりもさらに小さい。スペースワンは契約から打ち上げまでの期間で世界最短を...

カイロスの用語解説を読む

コトバンク for iPhone

コトバンク for Android