ロッキード事件(読み)ろっきーどじけん

日本大百科全書(ニッポニカ) 「ロッキード事件」の意味・わかりやすい解説

ロッキード事件
ろっきーどじけん

アメリカ・ロッキード社(現ロッキード・マーチン社)の日本に対する航空機売り込みに絡む第二次世界大戦後最大の汚職事件。この事件は、自由民主党の長期独裁体制の結果生じた政界・官界・財界の癒着構造に起因する典型的な構造汚職であり、田中角栄に象徴される自民党政治の腐敗・金権体質を国民の前に暴露するものであった。

 1976年(昭和51)2月4日、アメリカ上院外交委員会多国籍企業小委員会(委員長フランク・チャーチ)の公聴会で、ロッキード社会計検査担当会計士フィンドレーは、同社の工作資金の不正支払いの事実を証言し、続いて2月6日、コーチャン同社副社長は具体的な資金の流れに関する証言を行った。これにより疑獄事件の存在が全面的に明るみに出た。

 こうした証言が登場した背景は次のようなものである。アメリカ政府はケネディ政権以降、民間企業による兵器輸出を援助・促進する政策を重視したが、ニクソン政権成立後それがより強化された。ロッキード社はニクソン政権と強く結び付き、政府を窓口とした売り込みと多額の工作資金の使用によって販路拡大を行った。しかしウォーターゲート事件以降ニクソン批判が高まるなかで、こうしたロッキード社の商法が政府援助に基づく資金の不正使用ではないかとの疑惑が生じ、調査が行われたのであった。

 調査で判明した疑惑は、全日本空輸に対する大型旅客機(エアバス)L-1011トライスターの売り込みと、防衛庁(現在の防衛省)次期主力戦闘機F-15と対潜哨戒(しょうかい)機P3Cの採用についてであった。ロッキード社はこれら3機種の売り込みのために、日本における同社秘密代理人児玉誉士夫(こだまよしお)と同社代理店丸紅および全日空を通じて総額30億円を超える多額の工作資金を贈賄し、多数の自民党国会議員と政府高官の買収を行ったというもので、疑惑の中心は、時の総理大臣田中角栄が、1972年8月末にハワイで行われた田中・ニクソン会談において総理大臣の職務権限に基づき前記3機種の導入を約束し、その報酬として5億円を収賄したというものであった。

 当時の首相三木武夫(たけお)は真相の徹底究明を約束し、1976年2月16、17日、衆議院予算委員会で、当時国際興業社主であった小佐野賢治(おさのけんじ)(1917―86)(児玉の依頼で政界工作をしたとの疑惑)と丸紅・全日空関係者の証人喚問が行われた。一方、東京地方検察庁は警視庁、国税庁との初の合同捜査を開始、事件の全容解明に乗り出した。その結果、76年3月13日、児玉を8億円余りの脱税容疑で起訴したのに続き、日米司法共助の取決めによるコーチャンらの嘱託尋問調書入手により強制捜査を開始、丸紅からは元会長の檜山広(ひやまひろ)(1909―2000)、元専務の大久保利春(1914―91)・伊藤宏(1927―2001)を、全日空からは当時の社長若狭得治(わかさとくじ)(1914―2005)、当時の副社長渡辺尚次(なおじ)(1914―94)らを、国会での偽証、外為法違反、贈賄の容疑で逮捕し、小佐野も偽証容疑で逮捕した。そして7月27日、田中角栄を外為法違反・受託収賄罪で逮捕、8月には元運輸政務次官佐藤孝行(こうこう)(1928― )と元運輸大臣橋本登美三郎(とみさぶろう)(1909―90)をそれぞれ受託収賄罪で逮捕した。このほか11月1日の衆議院ロッキード問題調査特別委員会秘密会で、金銭授受はあるが時効等で逮捕に至らない、いわゆる「灰色高官」として二階堂進、佐々木秀世(ひでよ)、福永一臣(かずおみ)、加藤六月(むつき)の氏名が明示された。また児玉による工作に関与したとして中曽根康弘(なかそねやすひろ)も灰色高官の一人と目され事情聴取を受けたが、その疑惑は解明されずに終わった。

 裁判は東京地裁で1977年1月から丸紅ルートと全日空ルート、6月から児玉・小佐野ルートが開始された。被告17人。このうち児玉については結審したが、84年1月17日児玉が死亡したため判決が下されることなく裁判は終了。多額の工作資金の行方はついに明らかとならなかった。注目の丸紅ルートでは、丸紅側が5億円の受渡しを認めたうえで、それはあくまでロッキード社の指示であるものとの「丸紅メッセンジャー論」を展開したが、田中側は5億円授受の際の秘書榎本俊夫(えのもととしお)のアリバイを武器に5億円授受自体を否定した。しかし榎本アリバイは、5億円授受を認める発言をしていたとの前夫人榎本美恵子の証言(81年10月)で崩れた。81年11月、小佐野に懲役1年の実刑判決が下され、82年1月全日空幹部6人に有罪判決(執行猶予付)、6月橋本、佐藤に有罪判決(執行猶予付)が下った。そして83年10月12日、田中に懲役4年の実刑判決、大久保を除く丸紅幹部2人にも実刑判決(大久保は執行猶予付)が下り、総理大臣の犯罪に厳しい断が下った。渡辺を除く被告全員は東京高裁に控訴した。

 控訴審判決は、小佐野が実刑判決から執行猶予付判決になった(1984年4月)以外すべて控訴棄却となった(全日空ルートは86年5月、丸紅ルートは87年7月)。その後7名が最高裁に上告した(佐藤は87年7月、伊藤は同年8月上告取下げ。小佐野は86年10月、橋本は90年1月死亡)。最高裁判決は、若狭および檜山は上告が棄却され有罪が確定した(若狭は92年、檜山は95年)。また田中は1993年(平成5)死亡したため公訴棄却となった。

 この事件に関連しては、京都地裁判事補の鬼頭史郎(きとうしろう)が布施検事総長の名をかたって三木首相に指揮権発動を求めたニセ電話事件、小佐野授受20万ドルが当時自民党代議士であった浜田幸一(はまだこういち)のラス・ベガス・カジノでの借金返済にあてられたという浜田幸一とばく事件などが起こった。また田中は総選挙での当選を「みそぎ」と強弁し、田中派を率い事実上のキングメーカー(「政界の闇(やみ)将軍」)として日本政治を牛耳(ぎゅうじ)り、歴代法相に親田中派や「隠れ田中派」を起用、その政治力で裁判への介入を図った。これらは民主政治への重大な挑戦との声が強かった。しかし1985年2月に田中が脳梗塞(こうそく)で倒れて以来、その政治力は急速に衰えた。さらに真相究明を主張する三木首相を退陣させようとした「三木おろし」や、上告断念後も検察・裁判所批判を行い、2000年に落選するまで議員活動を続けた佐藤に代表される自民党の政治倫理軽視の姿勢も重大な問題としてクローズアップされた。

[伊藤 悟]

『立花隆著『田中角栄研究全記録 下』(1976・講談社)』『立花隆著『ロッキード裁判とその時代1~4』『ロッキード裁判批判を斬る1~3』(朝日文庫)』『筑紫哲也著『総理大臣の犯罪――田中角栄とロッキード事件』新版(1983・サイマル出版会)』『木村喜助著『田中角栄の真実――弁護人から見たロッキード事件』(2000・弘文堂)』『上田耕一郎編著『構造疑獄ロッキード』(新日本出版社・新日本新書)』

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「ロッキード事件」の意味・わかりやすい解説

ロッキード事件
ロッキードじけん

1976年2月に発覚したアメリカ合衆国の航空機メーカー,ロッキードの日本への航空機売り込みにからむ疑獄事件。事件の発端はロッキードの極秘資料がアメリカの上院外交委員会多国籍企業活動調査小委員会に誤配されたことによるといわれる。この「誤配」をきっかけに,同社副会長アーチボルド・C.コーチャンが,同小委員会公聴会で航空機売り込みのため各国の政府高官に贈賄したことを暴露した。日本についても 30億円をこえる資金を投じ,全日本空輸(全日空)へは旅客機トライスターの売り込みに成功し,防衛庁に対しては次期対潜哨戒機 P-3Cオライオンの採用を工作中と述べた。この証言は日本の政界に衝撃を与え,全国民的な関心と憤激を呼び起こし,三木武夫首相は徹底究明を約束した。捜査によって商社丸紅,全日空,政界の黒幕と呼ばれた児玉誉士夫を経由する三つのルートの存在が明らかとなり,1976年7~8月には元首相の田中角栄,元運輸大臣の橋本登美三郎,元運輸政務次官の佐藤孝行が逮捕された。1976年10月15日の国会の中間報告で,取り調べられた者は国会議員 17人を含めて民間人,官僚など約 460人,うち逮捕された者は 18人,起訴された者は 16人に及んだ。田中元首相の裁判では,丸紅ルートでの 5億円収受が受託収賄罪(→収賄罪)を構成するかどうかが争われ,1983年10月に 1審の東京地方裁判所がこれを認定して田中に懲役 4年,追徴 5億円の実刑判決を言い渡した。1987年7月の 2審の東京高等裁判所判決もほぼ全面的に 1審の判断を支持し,田中の控訴を棄却した。最高裁判所に上告された公訴は,1993年12月,田中の死亡により棄却(→公訴棄却)された。ロッキード事件の一連の裁判では,起訴された 16人のうち田中元首相を含め 5人が公判中に死亡して公訴棄却となり,1995年2月に最高裁で田中の元秘書官と丸紅元会長の上告が棄却されたのを最後に残る 11人全員が有罪となった。ロッキードの資金工作疑惑は日本以外でも問題となり,ドイツ連邦共和国(西ドイツ),オランダ,トルコ,イタリア,スウェーデンなどで同様の疑獄が伝えられた。

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