田中角栄内閣(読み)たなかかくえいないかく

日本大百科全書(ニッポニカ) 「田中角栄内閣」の意味・わかりやすい解説

田中角栄内閣
たなかかくえいないかく

昭和期に田中角栄首班として組織された第一、第二次にわたる内閣。

[編集部]

第一次

(1972.7.7~1972.12.22 昭和47)
佐藤内閣退陣後、田中角栄と福田赳夫(ふくだたけお)の2人が後継の座を争ったが、1972年7月5日の自民党大会で田中が福田を破り、7月7日国会首班指名を受けた。54歳の若さと農村出身の無学歴の「庶民性」から「今太閤(いまたいこう)」とよばれ、角栄ブームをつくりだし、田中内閣発足直後61%という爆発的な内閣支持率(朝日新聞世論調査)を記録した。「決断と実行」をスローガンに「日本列島改造論」の実行と日中国交正常化公約。同年9月訪中して、日中復交を実現した。

伊藤 悟]

第二次

(1972.12.22~1974.12.9 昭和47~49)
1972年12月の総選挙で敗退したのち成立。列島改造論は土地投機インフレ拍車をかけ、1973年のオイル・ショック破綻(はたん)、角栄ブームは急速に消滅した。1973年小選挙区制導入を図るが、反対闘争の盛り上がりの前に断念、1974年の東南アジア訪問では反日デモの洗礼を受けるなど苦境にたたされた。1974年7月の参院選では空前の金権選挙にもかかわらず大敗北、野党の金権批判三木武夫(みきたけお)・福田赳夫両閣僚の辞任、そして田中金脈問題により11月26日退陣を表明総辞職に追い込まれた。

[伊藤 悟]

『早坂茂三著『田中角栄回想録』(集英社文庫)』

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百科事典マイペディア 「田中角栄内閣」の意味・わかりやすい解説

田中角栄内閣【たなかかくえいないかく】

自由民主党単独内閣。(1)第1次。1972年7月7日−1972年12月22日。第3次佐藤栄作内閣の後をうけて成立。日中国交正常化に取り組み,1972年9月日中共同声明に調印。(2)第2次。1972年12月22日−1974年12月9日。内政面では〈日本列島改造構想〉を展開するが,地価高騰,インフレを誘起し,批判を浴びた。〈土地ころがし〉による不当利潤,脱税等の疑惑でマスコミ,国会の追及を受け,1974年12月内閣総辞職。→田中角栄ロッキード事件
→関連項目二階堂進三木武夫内閣

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山川 日本史小辞典 改訂新版 「田中角栄内閣」の解説

田中角栄内閣
たなかかくえいないかく

自民党の田中角栄を首班とする内閣。

1第1次(1972.7.7~12.22)。佐藤長期政権の後,福田赳夫(たけお)と自民党総裁の座を争い,大平正芳・三木武夫の支持を得て田中が組閣。「決断と実行」というイメージは国民の期待感に合致し,高い支持率を示した。日中国交回復を電撃的に実現する一方,内政面では「日本列島改造論」を唱えて意欲的な姿勢をとった。しかしインフレを招き,1972年(昭和47)12月の総選挙で自民党は議席を大幅に減少させた。

2第2次(1972.12.22~74.12.9)。1973年(昭和48)の石油危機と狂乱物価で民心は離反し,翌年11月,田中金脈問題の告発をうけて退陣した。

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旺文社日本史事典 三訂版 「田中角栄内閣」の解説

田中角栄内閣
たなかかくえいないかく

田中角栄(1918〜93)を首班とする自由民主党内閣(1972.7〜74.12)
大学卒の学歴をもたない立志伝中の首相として登場。1972年日中国交を回復し,「日本列島改造論」を唱えて意欲的な姿勢を示したが,'73年のオイルショックと狂乱物価で民心は離れ,自身の金脈問題を追及され短命内閣に終わった。

出典 旺文社日本史事典 三訂版旺文社日本史事典 三訂版について 情報

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