田中角栄(読み)たなかかくえい

精選版 日本国語大辞典 「田中角栄」の意味・読み・例文・類語

たなか‐かくえい【田中角栄】

政治家。新潟県生まれ。昭和二二年(一九四七衆議院議員に当選、同四七年に首相に就任し、日中国交回復を実現した。「日本列島改造論」を唱えたが、地価高騰や狂乱物価を招き、金脈問題が摘発されて同四九年首相を辞任した。同五一年ロッキード事件で逮捕起訴され、同五八年一審で実刑判決を受け、上告中に死去。大正七~平成五年(一九一八‐九三

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デジタル大辞泉 「田中角栄」の意味・読み・例文・類語

たなか‐かくえい【田中角栄】

[1918~1993]政治家。新潟の生まれ。昭和22年(1947)衆議院議員に当選。同47年首相に就任し、日中国交正常化を実現した。また、日本列島改造論を唱えたが、地価高騰や狂乱物価を招き破綻。同49年首相を辞職後、ロッキード事件で逮捕された。→三木武夫

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「田中角栄」の意味・わかりやすい解説

田中角栄
たなかかくえい
(1918―1993)

政治家。大正7年5月4日新潟県刈羽(かりわ)郡二田(ふただ)村(現柏崎(かしわざき)市)に生まれる。高等小学校卒業後上京し、苦学のすえ中央工学校を卒業。1943年(昭和18)田中土建を設立。1947年(昭和22)衆議院議員に初当選(民主党)。1948年民主自由党に移る。同年炭鉱国管疑獄で逮捕されるが裁判では無罪。1957年岸信介(きしのぶすけ)内閣の郵政相を皮切りに、党政調会長、蔵相、党幹事長、通産相などを歴任。とくに1962年から1965年まで池田勇人(いけだはやと)内閣、佐藤栄作内閣の蔵相を務め高度成長政策を推進する。佐藤派の中心として福田赳夫(ふくだたけお)とともに佐藤政権を支える。1972年6月「日本列島改造論」を発表、7月佐藤退陣のあと首相に就任。54歳の若さと農村出身、無学歴の「庶民性」から「今太閤(いまたいこう)」とよばれ、角栄ブームをつくりだした。9月日中復交を果たすが、1973年に入り経済政策の破綻(はたん)から狂乱物価を招き、1974年11月田中金脈問題により内閣総辞職。1976年7月ロッキード事件で逮捕され、1983年10月、懲役4年・追徴金5億円の一審判決を受け、控訴。逮捕後自民党を離党したが、党内最大派閥の田中派を維持し「目白の闇(やみ)将軍」とよばれ、政界に強い影響力を行使した。1985年脳梗塞(こうそく)で倒れた。1990年政界を引退。

[伊藤 悟]

 長女の田中真紀子(1944― )は衆議院議員となり、科学技術庁長官、外務大臣を務めた。

[編集部]

『後藤基夫・内田健三・石川真澄著『戦後保守政治の軌跡』(1982・岩波書店)』『立花隆著『田中角栄研究――全記録』上下(講談社文庫)』『保坂正康著『田中角栄の昭和』(朝日新書)』

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知恵蔵 「田中角栄」の解説

田中角栄

昭和後期を代表する政治家、第64・65代内閣総理大臣。1918年新潟県刈羽郡(現柏崎市)の農村地帯に生まれる。高等小学校を卒業した後、15歳で上京。工事現場で働きながら、夜間学校(中央工学校)を卒業する。39年陸軍召集によって満州に送られるが、肺炎にかかり除隊処分となる。43年に田中土建工業を設立し、終戦は仕事先の朝鮮半島で迎えた。47年自身2度目の挑戦となった衆議院議員選挙で初当選(以降16回連続当選)を果たすと、地元の交通関連企業の経営にも加わり、利益誘導型政治(金権政治)の基礎を固めていく。57年、岸信介内閣の郵政大臣として初入閣。池田勇人内閣と佐藤栄作内閣の下では、大蔵大臣通産大臣、自民党政調会長、幹事長を歴任し、日本の高度経済成長を支えた。
72年7月、第3次佐藤内閣の後を受けて内閣総理大臣に就任すると、非エリート・苦学の経歴から、空前の「角栄ブーム」を巻き起こした。就任2カ月後には中国を訪問し、周恩来首相と共に「日中共同声明」を発表すると、その決断力・行動力は海外でも高く評価された。マスコミに「今太閤」「庶民派宰相」と持てはやされ、就任直前に出版した『日本列島改造論』も人気を後押ししたが、これが暗転のきっかけとなった。改造論は高速道路と新幹線網の拡充によって人口と産業の地方分散を推進し、過疎と過密を同時に解消させるという構想だったが、過剰な投機が地価高騰やインフレを招き、更に73年の第1次石油危機によって破綻(はたん)に追い込まれた。翌74年、週刊誌に田中ファミリー企業の「土地ころがし」の実態などを暴いた記事が掲載されると、国民の人気も凋落(ちょうらく)。マスコミの激しい追及を受け、同年末、首相在任期間2年5カ月で辞職した。
更に76年には、米・ロッキード社からの不正献金(収賄)容疑で起訴され、83年に東京地裁で有罪判決を受けた。しかし、このロッキード事件の係争中も自民党の最大派閥を率い、大平正芳内閣鈴木善幸内閣を誕生させ、中曽根康弘内閣を支援するなど、85年に腹心の竹下登が派閥を割るまで、「闇将軍」として政界に大きな影響を保ち続けた。93年の死去後も、壮大な構想力と日中国交正常化や33もの議員立法を成立させた実行力、巧みな人心掌握術など、不世出の政治力とカリスマ性を評価する声に、現代政治が失った往時を懐しむ声も重なってか、たびたび「角栄ブーム」が再燃している。なお、娘の田中眞紀子(44年~)も政治家で、外務大臣や文部科学大臣などを務めた。

(大迫秀樹 フリー編集者/2016年)

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百科事典マイペディア 「田中角栄」の意味・わかりやすい解説

田中角栄【たなかかくえい】

政治家。新潟県の生れ。中央工学校卒業。19歳で建設事務所を開設,第2次大戦後土建会社を設立。1947年衆議院議員に当選,池田勇人(はやと)内閣佐藤栄作内閣で蔵相,郵政相,通産相のほか党幹事長などを歴任。1972年自由民主党総裁,首相。1972年中国に渡り日中国交回復を達成(日中共同声明)。1974年辞任。〈日本列島改造〉を主唱し国土開発を進めたが,1976年ロッキード事件で収賄容疑で逮捕(1987年実刑判決,控訴)され,その政治運営は〈金権政治〉として批判された。1989年政界を引退し,控訴中の身のまま死去。→田中角栄内閣
→関連項目コーチャン竹下登中曾根康弘中曾根康弘内閣二階堂進三木武夫吉永祐介

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「田中角栄」の意味・わかりやすい解説

田中角栄
たなかかくえい

[生]1918.5.4. 新潟,刈羽
[没]1993.12.16. 東京
政治家。父親が家産を傾けたため幼時から貧苦の生活を送り,中学進学を断念して土木工事現場で働いた。 15歳で単身上京。中央工学校を卒業後,1938年田中土建工業を設立。 47年以来 16回衆議院議員に当選。同年,片山社会党首班内閣の炭鉱国管法案に反対し,進歩党を脱党,48年民主自由党に加わる。同年 10月法務政務次官となるが炭鉱国管疑獄に連座して辞任。 51年の東京高裁判決で無罪。 57年第1次岸内閣郵政相。第2次池田内閣蔵相を経て,佐藤内閣のもとでは蔵相,通産相,自由民主党幹事長などの要職を歴任。 72年7月自由民主党総裁,首相。9月中国との国交回復を実現。内政面では「日本列島改造論」を掲げて,経済発展を目指した。 74年 12月同党総裁,首相を辞任。 76年7月ロッキード事件で逮捕され,のち起訴。1審,2審ともに懲役4年の実刑判決を受けたが,最高裁上告中に死去した。なお,85年に脳梗塞で倒れ,89年には政界引退を表明していた。

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「田中角栄」の解説

田中角栄 たなか-かくえい

1918-1993 昭和時代後期の政治家。
大正7年5月4日生まれ。田中真紀子の父。高等小学校卒業後上京し,土建業をいとなむ。昭和22年衆議院議員(当選16回,自民党)。佐藤派に属す。第1次岸内閣の郵政相をはじめ,蔵相(2回),通産相,党の政調会長,幹事長を歴任。47年首相となる。日中国交を正常化し,国土開発をはかるが,日本列島改造構想で土地投機の過熱をまねく。49年金脈問題を批判され退陣。51年ロッキード事件で逮捕・起訴された。平成5年12月16日死去。75歳。新潟県出身。中央工学校卒。著作に「日本列島改造論」。
【格言など】総理・総裁なんていうのは(いつでも替えられる)帽子みたいなもの(昭和58年田中派議員を前に)

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