三津浜(読み)みつはま

日本大百科全書(ニッポニカ) 「三津浜」の意味・わかりやすい解説

三津浜
みつはま

愛媛県松山市の臨海地区。旧三津浜町。興居島(ごごしま)水道に面し、松山藩長崎出島を模して建設した港町で、瀬戸内海運の一中心として栄えた。当時の地割や倉庫、船具商などの古い家並みを残す。港内は貨物港と漁港に分かれ、魚市場や造船所もある。広島、岩国柳井(やない)の各港や島嶼(とうしょ)部を結ぶフェリーや高速船が発着する。夏に行われる松山港まつりの三津浜花火大会は四国最大級のものとして知られる。国道437号が通じ、JR予讃線三津浜駅、伊予鉄道三津駅などがある。

[横山昭市]

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「三津浜」の意味・わかりやすい解説

三津浜
みつはま

愛媛県中部,伊予灘にのぞむ松山市の外港。旧町名。 1940年松山市に編入興居 (ごご) 島の陰にあたり,古くから内海航路の寄港地。かつて加藤嘉明が水軍をおき,造船所を設けたところで,船蔵や町番所があった。第2次世界大戦時に空襲を受けなかったので,町の景観に昔の面影がある。「伊予節」に歌われている三津の朝市は,元和5 (1619) 年以来,松山藩の特別保護を受けて発達した。現在は組織が変り,規模は小さいが,鮮魚市場が残っている。夏目漱石が訪れた 1895年頃は,客船は三津浜から発着していた。高浜が旅客港として開かれてから,三津浜は貨物港としての役割が増大している。

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世界大百科事典(旧版)内の三津浜の言及

【坂本】より

…また坂本で山門衆徒が私的に所有する里房は,宗教的色合いの濃い山上房舎とは異なり,俗人をも交えた衆徒の同族的な結合の中で経済得分に関する雑務をとり扱うという世俗性の強いものであった。山門領荘園の多くは近江および北陸地方に分布していたが,そこからの年貢や材木などは湖上を経て三津浜と呼ばれる下坂本湖岸に陸揚げされた。また山門は鎌倉初期に坂本より山中を経て京白川に至る今路(いまみち)を造成することによって,京都への輸送ルートをも掌握した(《葉黄記》)。…

【松山[市]】より

…県の行政・経済・文化の中心をなすばかりでなく,四国地方の行政・情報の一中心となり,四国郵政局,四国電気通信管理局,NHK四国本部やNTT四国支社などもある。また,松山藩時代の外港として建設された三津浜は,瀬戸内海沿岸の商港として栄えてきたが,明治初期に阪神との間の定期船が寄港するようになり,その後広島(宇品)や九州との間にも航路が開け,県の重要な貨客ターミナルとなった。1888年に全国最初の軽便鉄道(現,伊予鉄道高浜線)が松山と三津浜間に開通したが,予讃線の高松~松山間の開通は1927年で著しく立ち遅れた。…

※「三津浜」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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