興居島(読み)ごごしま

日本大百科全書(ニッポニカ) 「興居島」の意味・わかりやすい解説

興居島
ごごしま

愛媛県中部、松山市高浜港西方海上2キロメートルにある島。面積8.47平方キロメートル。旧興居島村は1954年(昭和29)松山市に編入。島の大部分領家帯花崗岩(かこうがん)類からなるが、最高点の小富士(282メートル)は古い開析火山の安山岩の岩頭である。海岸は沈降性で、出入りに富む。入り江には花崗岩の風化してできた白色漂砂が浜堤(ひんてい)を形成し、その上に集落が立地する。丘陵地の多くは果樹畑で、柑橘(かんきつ)類、ビワ、モモキウイフルーツなど多角的果樹栽培により高い生産性をあげている。島の中央にある高戸山、小富士には展望台があり、瀬戸内海国立公園の景観が楽しめる。「興居島の船踊(ふなおどり)」は国の選択無形民俗文化財本土の高浜港から由良(ゆら)港と泊(とまり)港にフェリーが通じる。人口1820(2000)。

[深石一夫]

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改訂新版 世界大百科事典 「興居島」の意味・わかりやすい解説

興居島 (ごごしま)

愛媛県松山市の北西海上約2kmにある島。忽那(くつな)諸島の一島。1954年松山市に編入。面積9.3km2,人口2104(1995)。松山市の高浜港から定期船で15分で,松山市の通勤・通学圏に入る。南部伊予富士と呼ばれる小富士(282m)がある。ウンシュウミカン,イヨカン,ネーブルオレンジ,モモ,ビワなど多角的な果樹栽培が主産業である。県の無形文化財の船踊は,伊予水軍が凱旋の時,激戦の様を留守居の人たちに演じてみせたのに由来するといわれる。西方の釣(つる)島は属島で,1873年イギリス人によって造られた瀬戸内海で4番目に古い灯台がある。
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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「興居島」の意味・わかりやすい解説

興居島
ごごしま

愛媛県北西部,松山市北部の沖合い約 2kmにある島。忽那 (くつな) 諸島に属する。多角的な果樹栽培地で,かつてはリンゴ,次いでモモとビワ,現在は温州みかんと伊予柑が中心。小富士 (283m) からの眺望はすばらしい。鷲ヶ巣は海水浴場で,真珠の養殖も行われる。中世には伊予水軍の根拠地となったところ。島に伝わる船踊りは倭寇の凱旋踊りとして知られる。属島の釣島には 1873年イギリス人によって設置された灯台がある。高浜港から定期船が就航。全島が瀬戸内海国立公園に属する。面積 8.71km2。人口 2031 (1996) 。

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デジタル大辞泉プラス 「興居島」の解説

興居島

愛媛県松山市、高浜港の西約2キロメートルに位置する島。「ごごしま」と読む。南北に細長い島で、面積は約8.49平方キロメートル。地形は山がちで、柑橘類、ビワ、モモなどの果樹栽培が盛ん。南部にある小富士(標高282メートル)周辺にはサイクリングロードが整備されている。船越和気比売神社の秋祭りで披露される「興居島の船踊り」は県の無形民俗文化財。

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世界大百科事典(旧版)内の興居島の言及

【忽那諸島】より

…ほとんどの島が愛媛県温泉郡中島町を形成する。このうち中島,睦月島,野忽那島,怒和(ぬわ)島,津和地島,二神島と柱島(山口県)はかつて忽那七島と呼ばれ,南朝方についた忽那氏の勢力範囲であったが,現在は柱島にかえて興居(ごご)島(松山市)を加え,忽那七島とする。七島のほか釣(つる)島(松山市),由利島,大館場(おおたちば)島,クダコ島など20余の島が含まれ,興居島を除いて離島振興法指定地域である。…

※「興居島」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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