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元軍人らの国史会グループが,池田勇人内閣の閣僚を含む政府要人の暗殺や,国会,警察などの襲撃を企てたクーデタ未遂事件。初め国史会事件と呼ばれたが,グループの主張から三無事件と呼ばれるようになった。1961年12月12日までに,元川南工業社長川南豊作,元陸軍少将桜井徳太郎,元海軍中尉三上卓(五・一五事件の首謀者),元陸軍士官学校生徒小池一臣ら13人が逮捕され,つづいて4次まで検挙がおこなわれた。国史会グループは川南の主張する〈無戦争・無税・無失業〉の三無主義に共鳴し,現在の政府では共産革命を抑止することができないと,元同僚の自衛隊幹部にも呼びかけ,国会の開会する12月9日,国会の周辺を騒乱状態にして,閣僚や国会議員を暗殺する計画を立てた。
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1961年(昭和36)12月に発覚した右翼と旧陸軍士官学校出身者らによるクーデター計画。もと川南(かわなみ)工業社長川南豊作(とよさく)、もと陸軍士官学校生徒小池一臣(こいけかずおみ)、五・一五事件被告もと海軍中尉三上卓(みかみたく)らが、当時の池田勇人(はやと)内閣では共産革命を抑えられないとして、政府要人らの暗殺を計画し、準備を進めたもの。彼らは自衛隊幹部にも勧誘工作を行い失敗している。予定した武器はライフル銃が中心で、計画はかなり粗雑であった。警視庁が、旧陸士59、60期の集まりである「国史会」の動きを分析した結果、発覚したもの。逮捕者の多くが、川南の主張する無戦争・無税・無失業の三無主義に共鳴していたことから三無事件とよぶようになった。起訴にあたっては、1952年に左翼対策のために公布された破壊活動防止法が初めて適用されることとなった。64年5月、東京地裁で川南の懲役2年をはじめ8被告が有罪となり、東京高裁、最高裁とも地裁での一審判決を支持した。[小田部雄次]
『田中二郎・佐藤功・野村二郎編「三無事件」(『戦後政治裁判史録 第3巻』所収・1980・第一法規出版)』
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世界大百科事典内の三無事件の言及
【破壊活動防止法】より
… この法律の施行直後に,日本共産党員が38条違反で各地で起訴されたが(4件),いずれも内乱罪の実行されるべき可能性ないし蓋然性が客観的に存在しないときは犯罪は成立しないとして無罪になった。本法の有罪判決第1号は1961年に発生した三無事件である。共産主義に反対し,いわゆる三無主義(無税,無失業,無戦争)の施策を推進する目的で武装蜂起を図ったことが殺人,騒擾の陰謀にあたるとして処罰された。…
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