池田勇人内閣(読み)いけだはやとないかく

百科事典マイペディアの解説

自由民主党単独内閣。(1)第1次。1960年7月19日〜12月8日。安保闘争によって岸信介内閣が辞職した後成立。総選挙の準備を行う。(2)第2次。1960年12月8日〜1963年12月9日。高度経済成長政策,所得倍増論など資本の成長を図る重点施策をとる。(3)第3次。1963年12月9日〜1964年11月9日。第2次の政策を引き継いだが,池田の病気で総辞職。→池田勇人
→関連項目三無事件所得倍増政策田中角栄

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日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

日米新安保条約締結後、退陣した岸信介(きしのぶすけ)内閣の後を受けて成立した自由民主党総裁池田勇人を首班とする内閣。

[荒 敬]

第一次

(1960.7.19~1960.12.8 昭和35)
この内閣の当初の使命の一つは、安保闘争後の政治的安定を回復することにあった。そのため前内閣からの懸案であった三池争議を抑圧、収拾する一方、「寛容と忍耐」をモットーとして政治姿勢の是正を打ち出した。この内閣のもう一つの使命は、「所得倍増」を核とする高度成長政策を採用して、国民の関心を経済問題に集中させることにあった。これは、1961年以後3年間の見込み成長率を9%とし、10年後に国民所得を2倍とする計画であった。1960年11月の総選挙ではこの経済政策を公約の目玉商品として自民党の絶対多数を確保した。

[荒 敬]

第二次

(1960.12.8~1963.12.9 昭和35~38)
第二次内閣は、1961年6月の池田‐ケネディ会談において貿易経済、教育・文化・科学の各分野にわたる協力関係を強めるために日米合同委員会の設置を決めたことに示されるように、新安保条約に基づく日米新関係の安定化を図ることにその主要な課題を置いた。外交政策では、軍事クーデターで成立した朴正煕(ぼくせいき/パクチョンヒ)政権と日韓会談を推進し、中国とは覚書貿易(LT貿易)を開始したが、反面、「政経分離」政策をとり中国の国連加盟を阻止しようとした。また農業基本法、中小企業基本法などを制定して産業構造の合理化を進めるとともに、「人づくり」「国づくり」の構想を打ち出して高度成長に対応した文教政策を展開した。

[荒 敬]

第三次

(1963.12.9~1964.11.9 昭和38~39)
1963年11月総選挙後、閣僚を留任して発足した第三次内閣は、貿易の自由化を急速に推し進め、1964年4月にはIMF(国際通貨基金)8条国への移行とOECD(経済協力開発機構)加盟を達成した。同年8月、安保条約を盾にアメリカ原子力潜水艦の寄港を閣議決定した。高度成長政策のひずみが顕在化しつつあるなかで、同年7月総裁に3選された池田が3か月後病床に伏したため、内閣は総辞職し、後継を佐藤栄作に譲った。

[荒 敬]

『藤井松一・大江志乃夫著『戦後日本の歴史 下』(1971・青木書店)』『辻清明・林茂編『日本内閣史録6』(1981・第一法規出版)』

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旺文社日本史事典 三訂版の解説

池田勇人(1899〜1965)を首班とする自由民主党内閣(1960〜64)
〔第1次〈1960.7〜60.12〉〕安保闘争で倒れた岸信介内閣のあとをうけ組閣。「寛容と忍耐」と「低姿勢」をスローガンとし,所得倍増政策をかかげる。〔第2次〈'60.12〜63.12〉〕 高度経済成長政策を推進。〔第3次〈'63.12〜64.11〉〕経済成長のひずみ是正政策を主張,その途中,病気で退陣し,佐藤栄作内閣と交替した。

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