日本大百科全書(ニッポニカ) 「三省六部」の意味・わかりやすい解説
三省六部
さんしょうりくぶ
中国、唐代の中央政府の最重要部分。中書省、門下省、尚書省の三省と、尚書省の部局である吏部、戸(こ)部、礼部、兵部、刑部、工部の六部をさす。古く漢代の中央政府は三公と、九寺の長官である九卿(けい)とが中核をなしていたが、後漢(ごかん)になると天子の秘書官であった尚書が政治の実権を握って、三公九卿の権を奪ってしまい、次の三国、六朝(りくちょう)時代には天子の側近である中書が天子の顧問官である門下侍中とともに宰相格の位置を占めるに至った。このような漢代以来の沿革を受けて整備されたのが唐の官制であって、その機構と職務は玄宗勅撰(ちょくせん)の『大唐六典』30巻に詳述され、その概要は江戸時代の伊藤東涯(とうがい)撰『唐官鈔(しょう)』3巻にまとめられている。
[礪波 護]
三省の役割・官品
唐の三省のうち、詔勅を起草し、また臣下の上奏に対する答えの草案をつくって天子の意志を表示する機関である中書省を「右省」とよび、中書省から回されてくる詔勅と尚書省六部から上申されてくる奏抄を審査し、違失があれば封駁(ふうばく)つまり拒否権を発動する機関である門下省を「左省」とよぶ。門下省と中書省はあらゆる点で左右一対をなし、宰相格の侍中と中書令がそれぞれ定員が2人でともに正三品、次官である黄門侍郎と中書侍郎がともに正四品上、判官である給事中と中書舎人がともに正五品上の職事官であった。なかでも詔勅の起草を直接に担当した中書舎人と、審査し、ときには封駁を行った給事中の職責が両省のかなめであった。これら門下・中書両省に対して、「南省」とよばれた尚書省は、官品の上では両省より上位にあったが、実際には両省の意向を受けて政策を下部機構である九寺五監や地方に伝達する機関であり、尚書都省のもと、吏部以下の六部に分かれていた。これら三省の相互関係は、門下と中書の両省の庁舎が宮城内の正殿たる太極殿を挟んで建ち、門下外省と中書外省とが皇城内の宮城につながる承天門街の北端に大街を挟んで向かいあうのに対し、尚書省の庁舎は官庁街ともいうべき皇城のほぼ中央に位置していたことに端的に示されている。
尚書省の長官たる正二品官の尚書令は、太宗が秦(しん)王のときついた官ということで任命されず、次官たる従二品官の左・右僕射(ぼくや)が代行し、判官たる正四品上の左・右丞(じょう)が、中書舎人、給事中の場合と同じように、実務の責任者であった。尚書都省は左司と右司に分かれ、左司が吏部、戸部、礼部を、右司が兵部、刑部、工部をそれぞれ管轄した。これら六部の長官である各部尚書はいずれも正三品官であったから、官品のうえでは宰相格の侍中、中書令と同格であったが、実質的には行政長官にすぎず、その下に次官たる各部侍郎がいた。左司の管轄に入る吏部は文官の任免、賞罰といった人事をつかさどるので他の五部より地位は高く、初めは民部とよばれていた戸部は財政全般をつかさどるので職務は繁忙を極め、礼部は礼儀、祠祭(しさい)、学校、外国との交際などをつかさどった。右司の管轄に入る兵部は軍事および武官の人事を、刑部は司法に関することを、工部は土木事業に関することをつかさどった。これら六部はおのおの四つの司とよぶ部局に分かれ、それぞれの司では判官たる郎中と員外郎によって責任が分担された。たとえば吏部は、吏部、司封、司勲、考功の四司から成り立っていた。六部の序列は、吏、戸、礼、兵、刑、工の順とみられやすいが、左司、右司に分属するために、吏部が筆頭であることは動かないが、その次には兵部、そして戸、刑、礼、工の順序であった。また尚書省六部と、太常寺をはじめとする九寺や国子監(こくしかん)などの五監との関係は、尚書都省二司と六部二四司が上級の政務機関として文書行政の総元締めにあたり、九寺五監などの事務官庁を統轄したのであって、両者の職掌には明らかな懸隔があった。官庁街たる皇城において、三省六部の建物の占める割合は全体の1割にも満たず、大部分は九寺や五監、一六衛の実務官署によって占められていた。
[礪波 護]
三省の変質
三省制の特色は、国事に関するあらゆる決定、命令が天子の名で公布される前に、貴族勢力を代表すると目された門下省をかならず通過する形式がとられた点にあり、また宰相会議のメンバーは、唐初では三省から2人ずつ、つまり侍中、中書令、左・右僕射の計6人であった。しかし、まず左・右僕射が宰相会議から外され、玄宗朝ごろから、中書省の権限が強くなって門下省を合併する傾向がみられた。宰相会議の開かれていた政事堂は、門下省から中書省に移され、やがて中書門下とよばれるようになる。次の宋(そう)代では同中書門下平章事、略して同平章事というのが宰相の任にあたるとともに、三省制は制度的な名称のみ続き、実を失って南宋時代に消滅した。元代には尚書省にかわり中書省が行政機関となったので、六部はそれに属したが、明(みん)・清(しん)時代には中書省もなくなり、六部は天子に直属した。
[礪波 護]