日本の城がわかる事典 「上条城」の解説 じょうじょうじょう【上条城】 新潟県柏崎市にあった平山城(ひらやまじろ)。鵜川左岸の比高10mほどの自然堤防上につくられた平城である。同城は城というよりは平時の居館で、背後の山には黒滝城という要害(詰めの城)を持っていた。結城合戦で幕府方として活躍した上杉清方(越後守護・上杉房方の次男)が、父房方の命により、越後中郡の土豪の押さえとして築城した城である。1507年(永正4)8月2日、守護の上杉房能と対立した守護代の長尾為景(謙信の父)は守護館を急襲して房能を自刃させ、清方の孫に当たる定実を新守護に擁立した。守護代への権力集中を進める為景に対して、村上城(村上市)の本庄時長、平林城(村上市)の色部昌長などの越後国人領主が反発し、さらに房能の兄で関東管領の上杉顕定の越後侵攻(為景討伐)を引き起こすことになる。為景は1509年(永正6)の顕定の越後侵攻に際して、定実とともに越中(富山県)に逃れたが、その翌年に佐渡を経て越後国蒲原津に上陸して反攻を開始し、長森原の戦いで顕定を敗死させた。この一連の戦いは越後永正の乱と呼ばれるが、その当時の上条城主が上条定憲である。定憲は当初、顕定方に属していたが、為景の越後上陸直後に為景方に転じた。しかし、その後、守護代の為景と守護の定実の間に確執が生じ、1513年(永正10)に定実は挙兵する。その反為景勢力の中に、琵琶島城(柏崎市)の宇佐美房忠とともに、上条城主の定憲がいた。この戦いは、房忠ら宇佐美一族が討ち死にして終息したかにみえたが、1530年(享禄3)に定憲は上条城で挙兵。この戦いは1536年(天文5)、定憲が春日山城(上越市)の城下まで侵攻するなど、為景が苦戦を強いられる展開となった。為景は高梨政盛らの援軍を得て三分一原で定憲を撃退し戦いは終息した。為景はこの戦いののち家督を嫡男の晴景に譲って隠居し、その後間もなく病死している。その後の上条氏の動向は不明だが、天正年間に上杉謙信は能登の七尾城主・畠山氏一族の義春に上条家を嗣がせ、上条城の城主としている。義春は上条弥五郎政繁と名乗り、上杉一門衆として活躍した。1578年(天正6)の謙信の死後に勃発した御館の乱では、政繁は景勝に味方した。このため、上条城は景虎方に一時占領されたが、のちに奪還している。しかし、政繁は1586年(天正14)、上杉景勝と対立して上方に出奔したため、上条城には村山慶綱が入っている。1598年(慶長3)、上杉景勝の会津移封後も上条城は存続したが、1600年(慶長5)の関ヶ原の戦いに際して、越後で勃発した上杉遺臣一揆の際、上杉氏の旧臣に攻略され、その後廃城となった。現在、城跡には郭・濠址などがあるが、後世に開墾が進み農地に変えられたこともあり、城址とわかるようなかたちでのはっきりとした遺構はない。城跡入り口には上条城址入口の石碑が建っている。JR信越本線・越後線柏崎駅から徒歩約60分またはバス。 出典 講談社日本の城がわかる事典について 情報