日本歴史地名大系 「下倉村」の解説 下倉村したぐらむら 新潟県:北魚沼郡堀之内町下倉村[現在地名]堀之内町下倉破間(あぶるま)川が魚野(うおの)川へ合流する三角地帯にある。集落の背後は下倉山、破間川上流は中(なか)村(現広神村)、対岸は四日町(よつかまち)村(現小出町)・中島(なかじま)村(現広神村)、西は田戸(たど)村。破間川上流の広瀬(ひろせ)郷や魚野川支流佐梨(さなし)川流域の湯之谷(ゆのたに)郷への分岐点にあたる。永禄一二年(一五六九)五月一八日の進藤家清書状(伊佐早謙氏所蔵文書)に「明十九下倉ヘ可有著候、廿日ニハおぢ屋へ著可被申候」とあり、上杉謙信と北条氏康の和親の使者天用院が越後へ下ったが、これを謙信の迎使進藤家清が塩沢(しおざわ)(現南魚沼郡塩沢町)まで出迎え、春日山(かすがやま)城(現上越市)までの宿泊予定地を報告している。 下倉村したぐらむら 岡山県:総社市下倉村[現在地名]総社市下倉山田(やまだ)村の北、蛇行する高梁(たかはし)川の右岸に位置する。寛永備中国絵図では高一八五石余、山崎家治先知とある。正保郷帳では松山藩水谷氏領、枝村として槻(つき)村・松尾(まつお)村・上月(こうづき)村・塩田(しおた)村を記す。伝承によれば水谷氏入封の際、高梁川下流に置いた倉庫を下倉と称したのが村名由来という。元禄六年(一六九三)水谷氏断絶により収公されて検地を受けた。同八年の検地帳(下倉村誌)および旧松山領新高帳(羽場文書)によれば、古高五二九石余・新高六八七石余、田三〇町余・畑四〇町余、屋敷二町余、家数一七二、名寄者一五三。 下倉村したくらむら 新潟県:西頸城郡能生町下倉村[現在地名]能生町下倉高倉(たかくら)川の下流にあるための村名と思われ、能生谷から大洞(おおほら)・藤崎(とうざき)方面や仙納(せんのう)・筒石(つづいし)・徳合(とくあい)方面への上り口であった。天和三年(一六八三)の検地帳(吉倉正臣氏蔵)によれば、田方八町八反三畝余・畑方二〇町五反一畝余、田畑屋敷色高合一六六石一斗余、屋敷持百姓三四名、うち半数の一七名が名子で、漆木一八本がある。ほかに除地として駒形権現が三石八斗をもっている。 出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報 Sponserd by