下内田村(読み)しもうちだむら

日本歴史地名大系 「下内田村」の解説

下内田村
しもうちだむら

[現在地名]菊鹿町下内田

内田川が村央を南流し、北は山鹿やまが長谷はせ村、西は同郡蒲生かもう(現山鹿市)、東は同郡下永野しもながの村、南は同郡津袋つぶくろ(現鹿本町)南東部は菊池郡木野本分きのほんぶん村と接する。一説に「和名抄山鹿郡伊智いち郷は、上内田と合せた内田郷という。年未詳の肥後国山北西安寺石堂碑文(相良家文書)に相良宗頼領地として「山鹿郡十三丁内田村六丁杉村十二丁」とあり、元久二年(一二〇五)人吉ひとよし庄地頭職を得た相良長頼の弟宗頼が所領を得ている。近世には当村の小村となる山井やまのい村は寛元元年(一二四三)一二月二三日の関東下知状(相良家文書)に「泉新庄内山井名」とみえ、相良宗頼の所領であったが没後に長頼と孫の頼重の間で相論が行われている。なお前掲碑文には宗頼領地として「一丁山井村」がみえる。宗頼は同地に居を構え山井氏(のちに内田相良)と称し、若宮わかみや城・やま城は一族の居城であったという。

慶長一〇年(一六〇五)検地帳には、田四九町八反余・畑五九町六反余、分米一千一二石余、人数二五八、馬二九・牛三四、田字に、はしつめ・のぞへ・府本・ほかのくち・くわいたなど三六、畑字に鳥こへ・とくつか・池ノ平・ほりきり・はせさかいなど四六下ケ名がみえる。


下内田村
しもうちだむら

[現在地名]菊川町下内田

中内田村の南東、菊川右岸に位置する。中世は中内田村などとともに内田庄(郷)に含まれていた。慶長四年(一五九九)の下内田村御縄水帳(栗田家文書)によると高八五九石余。正保郷帳では田方一千二九四石余・畑方四一八石余、「日損」「芝山」の注記がある。横須賀藩領。「寛文朱印留」でも同藩領。元禄郷帳では高一千七八五石余、国立史料館本同郷帳によると三河吉田藩領。その後村の一部は相良藩領となり(享保二年本多忠通領知目録)、享保郷村高帳では相良藩領九六一石余・旗本太田領八〇四石余。寛延二年(一七四九)相良藩領は所替により同藩領から外れる。


下内田村
しもうちだむら

[現在地名]天明町内田うちだ 下内田

低湿地の水田地帯にあり、北は千間江せんげんえ湖を挟んで横手手永の白石しろいし(現飽田町)、東は鵜森うもり村、西と南は銭塘ぜんども村に接する。銭塘手永に属し、宝暦一一年(一七六一)の下ケ名寄帳には下内田新開村とあり、惣畝数三六町三反三畝余、うち御蔵納は田畑三四町四反五畝余・高四九七石六斗余、他は新地・永荒などである。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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